十八 レプリケイション/Replication

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十八 レプリケイション/Replication

真一郎は夏期講習のため登校している―― 数学の演習中に集中力が欠けてしまった。チョークが黒板を叩く規則正しい音に多少の催眠の効果があったのか、僕は舟をこぎかけていて、それが先生に見つかってしまった。 高木「そうだな、眠そうな奴いこうか。……萩原」 やや恥ずかしさもあり、僕は思い切り目が覚めた。突如指名されても反応できるはずもないし、尻込みしても仕方ないので堂々と返事をした。 真一郎「わかりません!」 先生は当然ながらその返事を予期していた風で、穏やかな笑みを浮かべたままだ。 高木「ちょっと血の巡り良くするか、スクワット3回(笑)」 大人しく僕は立ち上がり、指示通り3回スクワットをして着席した。先生と僕らの名誉のために言っておくと、こういうことは珍しくなく、僕以外の生徒においてもやられることであり、また僕らも特に体罰とは思っていない。傑作だったのは、かつて一度、ある難問が当てられた時、スクワットではなく「じゃ、次の奴が答えられるまで起立してて」という指示が出されたことがあった。次の生徒も回答できず、その次の生徒も起立し、そのままクラスの半数が起立してしまい、先生が諦めて「わかった。逆に訊こう。回答できる奴?」と言って、クラスの秀才が名乗り出て回答を板書し、ようやく全員が着席できた件は有名な笑い話になっている。 高木「目が覚めたところで、あらためて萩原。やり方を言うだけでいいよ」 萩原「はい……tan(タンジェント)で……加法定理で」 先生は頷き、黒板に向かい、印刷機のように素早く板書を始めた。チョークの音が何か不思議な言語のような、音楽的な響きを持っていた。黒板を埋め尽くすと、先生はくるりと生徒たちに向き直った。 高木「さて、このやり方で解いた人」 クラスの6割くらいの者が挙手した。先生は満足そうに頷き、笑った。 高木「はい、ご苦労さん。これは複素数平面使うと一瞬で解けるから」 「ご苦労さん」という言い方が面白くて、クラスメイトたちも一斉に噴き出して苦笑いした。先生はその間に上下の黒板を入れ替えて、スマートな別解を書き込んだ。ほんの数行の美しい解法は、僕らを文字通り「あっ」と言わせた。 高木「答えはあってるんだけど、やっぱり時間との勝負になった時に、    少しでも速い解法を身につけておいた方がいいからな?……な?」 課外授業が終わると、透と並んで夏季休業中の課題の話をしながら玄関へ向かった。 真一郎「俺、化学の補習プリント対象なんだけど、     提出日、再来週って早くない?」 透「ああ、あれか……俺は自発的にやるつもりだったけど。   でも何でキミ、無機化学苦手なんだ?   覚える分量からしたら生物の方が大変じゃないか?」 真一郎「生物はさあ……ストーリー的に覚えられるけど、化学は無理」 透「不思議なもんだな」 真一郎「まあ本当は『興味ありません』じゃなくて、     勉強した方が知識の幅が広がるのかもしれないけどね。     とりあえず化学との相性は悪いんだよ。     でも、物理・生物で受験するって宣言したら許してもらえたから。     3年生になったら物理の点数で代替してくれるって。     昔は2年生の時点でそういうの許されてたみたいだけど、     『教育内容の実態とかけ離れていてどうこう』とかで     ニュースになってから、少し慎重になってるらしい」 透「でも結局やるんだよなぁ(笑)」 真一郎「そう(笑)」 話をしているうちに2年生玄関口に辿り着いた。階段を降りていくと、校舎玄関の左手に、わけのわからない銅像が立っているのが見える。この銅像は季節に応じて柔道着が着せられたり、サングラスをかけられたりする。もちろん教員側ではなく、遊び心のある生徒のいたずらなのだが、教師も若かりし日の負い目があるのか、見過ごされているケースがあり、今日はというと日傘がかけられている。教師たちもまたこの同じ母校で学んだことは知られており、同じ校舎で過ごし、同じテキストを使って、同じようないたずらをしたのだろう。 真一郎「あれ(日傘)って紛失物扱いになるのかな?」 透「どうなんだろうな……しかし日傘か……センスあるな(笑)」 校舎の外に出て数秒もしたら、冷房の名残の羽衣は溶けてなくなり、肌に紫外線が刺さり始めた。体温が中和されてゆく心地良さを感じ、僕らは二人で弓道場目指して自転車をこぎ始めた。道の奥に逃げ水が見える。追いつくことなく消えて道先へ現れる地面の鏡は、太古より多くの詩人のインスピレーションを掻き立てただろう。 透「でも、国語科の課題はもう全部終わってるんだろ?」 真一郎「うん。ただ、追加のも出しておいた方が     シャインの心象良さそうだから、     あと七つくらいやっておこうと思って。     読書感想文と、詩と、作文コンテスト」 透「今のうちにキミにはサインもらっておこうかな……」 真一郎「いくらでも書いていいけど、たぶん価値なんか出ないと思うよ」 透「価値が出ても出なくても、もらっておくに越したことはないじゃん!」 真一郎「いいよ。じゃ、いくらでも(笑)」 やがて弓道場に到着した。市民公園の緑は盛りを迎え、あちこちで生命を主張している。熱心な1年生達は既に道場に来ていて、木陰に巻き藁を運んでいた。 共立校の先輩の立ち方が優雅で格好良いと思ったので、試しに真似してみた。僕らの高校の立ち方は、立ち位置から左、右と足を等しく広げるのに対し、彼らの立ち方は、全身を一度左奥へ移動し、身体と一緒に右足を大きく開くという風だった。他人(ひと)と違う立ち方をして気取った感じでいたら、主将に呼び止められた。 主将「誰がそういう風に指導した?」 一瞬で激しいお小言が飛ぶ主将なので、僕はやや躊躇した。 真一郎「すみません。教わったわけではないです……」 主将としては短気を自覚しているのか、少し呼吸を置いて、𠮟りつけるわけではないものの厳かに注意を下した。 主将「……次からは教わった通りにやるように」 真一郎「はい!……気を付けます!」 的前(まとまえ)から退場し、弓をかけ、弓掛(ゆがけ)を外すために正座すると隣で水沼君も座った。 水沼「萩原君、矢狩り行く?」 真一郎「うん」 水沼「じゃ、一緒に行こう」 彼は的中をノートに控えると、同じ姿勢で弓掛を外し始めた。 真一郎「水沼君すごいね。30連続くらい的中(あ)たってる?」 水沼「31だね。今、外しちゃった」 彼は照れくさそうに笑うと、立ち上がり、二人して矢取り道を歩き始めた。 真一郎「さっき、立ち方アレンジしたら     主将に怒られそうになってビビっちゃった」 水沼「あれねえ。あれやると身体の向きが真っ直ぐにならないから、    俺もやらない」 真一郎「ああ。そういう理屈があるんだ?」 水沼「たぶん(笑)」 看的所の前で、小宮山先輩が的を新しく張り替えていた。 小宮山「いやあ。面白かったけど、大人に見つかったら怒られるからね」 どうやら市長のポスターを的に被せて遊んでいたらしい。確かに、こんなことが露見したら大目玉だ。 真一郎「この市長も長いですね。僕が小学生の頃からやってますよ」 村井「たしか、『前任の市長の任期が長すぎるから』って理由で    出馬したんでしょ?」 小宮山「もはや『お前が言うな』になっちゃってるね」 水沼「あ、透ちゃんが射(う)ち終わったらタイミングかも」 水沼君の指摘で気がついて的前を見遣ると、透が一人だけ打ち起こしをしていた。道場中の視線が彼の射に注がれた。 ――その射は普通に外れて安土に刺さった。 小宮山「(パンパンと手を叩き)入ります!」 的前の方から主将たちの「お願いします」という掛け声が聞こえた。透は的前の方でからかわれたのか、こちらに背を向けて首を振っていた。 翌日、上條透は真一郎たちと市民図書館に来ている―― お盆休みは、流石に我らが高校も夏期講習は無い。しかしペースメーカーは必要なので、真一郎や服部君に声をかけたら一緒に図書館に行こうと言うことになった。高校から弓道場に行く途中にあるものだから、僕らとしてもアクセスしやすい。3人でぞろぞろ揃って、いつものように自転車をこぐ。とにかく暑いから早く辿り着きたい。ちょっとお洒落な銀色の外観が見えてくると、普段脇目で見ていたよりも図書館はかなり大きく感じられた。入館してみると、思ったより混んでいて、2階を使おうという話になった。エレベーターを待っている間、突然、真一郎と服部君が打合せすることなく、エレベーターのドアをこじ開ける動作をした。 透「え? 何それ」 服部「ええー、透ちゃん」 真一郎「古いけど有名な映画じゃん。     腕が変形して、エレベーターの扉をこじ開けるの」 透「お前ら……(苦笑)。知らねえよ。   というか、何でそんなに息合ってるんだよ!」 服部「透ちゃんはなー。ちょっと雑学が足りないな」 いや、それはない。 真一郎「雑学はあるけど、映画は詳しくないんじゃない?」 いや、それもない。 服部「この前も伝説の人斬りって言っても反応できなかったじゃん」 透「いや、発想のセンスか……?」 真一郎「あ、エレベーターきた」 ええ、ちょっと、俺の名誉が回復できない。 真一郎「まあ、でもさ」 透・真一郎「「そんなの受験には出ない」」 服部君は少しつまらなそうに僕らを見た。
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