一 破鏡

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一 破鏡

――魂なんて信じてない。 僕は診察室の扉を開けた。若い先生はいつも通りの笑顔で挨拶してくれた。 ――人生なんて、無意味なものだ 僕はたぶん、笑顔ではなかっただろう。陰気な高校生だ。 僕、萩原真一郎は人生の意義がわからない高校生2年生の一人だ。キェルケゴールやショーペンハウアーを読んだりもしてみたが、自分を満足させることはできなかった。 今日は5月のある水曜日。診察の間、先生は世間話をしてくれた。人見知りの激しい僕にとっては貴重な時間だ。でも、先生は忙しいのだから、僕個人がいつまでも時間を割いてもらうのは、本当はいけないことだ。 「先生、今日もありがとうございました」 「ああ、お大事にね……いつもの薬を出しておくから」 先生はそう言って、看護師さんに指示を出した。彼は不思議なくらい親身になってくれる。『君の苦労はきちんとわかっているよ』といいたげな表情は、かえって僕を申し訳ない気分にさせる。 「来月は水曜日じゃなくて金曜日だよ。大丈夫かな?」 「いえ。いつもありがとうございます。失礼しました」 僕は静かに挨拶して、診察室を出た。個人の小さな医院だけあって、待合室は小さい。すべてのソファで5人か、6人くらいしか腰掛けることができないだろう。会計は二分もしない内に済み、そこで手のひらに収まる大きさの透明の包みをくれた。白くて、小さな錠剤には“精神安定剤”というタグが付けられていた。窓際に視線を向けると、ふと、子供向けに用意されたぬいぐるみが目に留まった。 ――別に羨ましいわけじゃない。あれで遊びたい年頃でもない。 遊びたいとは思わないが、ぬいぐるみを通して様々な幸福のイメージが頭に浮かぶことは否定できなかった。何も知らなかった子供時代は、自分の願いは何でも叶うような気がしていた。いつでも、どんな願いでも。それが叶わぬとわかると不条理だと泣くのだ。 ――僕は子供だ……自分勝手な存在だ。馬鹿らしい。 スリッパを脱いで上履き入れに丁寧に差し込むと、自分の靴に履きなおした。ガラス戸に自分の姿が映るのが気になった。僕はいつからか、余計なことばかり考えるようになり、やや鬱気味だった。それで、昔からお世話になっているかかりつけの先生を訪問した。それにしても、自分は何に悩んでいるのかわからない。心の中の恐怖が何なのかわからない。 ――すっきりしない。 僕は音を立てないように扉をゆっくり開けた。扉はそんなに注意しなくても、静かに開くものなのに。  ガラスの扉は薄かったが、防音効果は高かったようだ。扉を開けた瞬間、自動車の走る甲高い音が耳に響いてきた。癇に障る。僕はカバンの中から自転車の鍵を取り出して古い錠に差し込んだ。止め具の開く、カチャーンという小さな音がした。 自転車に乗り、 「さて……本当に帰っちゃうのか?」と独り言を言った。せっかく外出したのにこのまま帰宅するのはなんだかもったいなくて、用事を考えてみた。もちろん用事はなんだって良い。 ――行き先は自宅で、すぐにでも安静に療養すべきだ。 ――だが、計画に逆らうのは好きだ。 何の脈絡もなく行動するとき、そこには生がある。機械的な予定ではない気まぐれこそ良い。思いついたままの短慮では単なる獣――生化学の、長く複雑ではあるが、結局は唯一の式で表現できてしまう、化学反応式の延長だと思う。利己的でないこと、および自然法則に逆らうことこそが人間の尊厳であり、存在意義だと思う。 見通しのいい田んぼ道を疾走する。普段は自分の街が田舎だとは気付かないが、街の中心から離れると意外と田んぼは多い。 ――いいぞ、何もない。僕は自由だ。 広い空間を好きなだけ疾走する。まだ春なので田んぼには緑はない。茶色い地面しか見えない。田んぼは山と市街地を分けるように陣取っている。田んぼの真ん中に引かれた、線の様な道を、風を切って走る。 ――人はこうして無限を感じるのだろうか。 広大な足場に不安はなく、存在感への確かな土台となる。この空間は落ち着いている。大地はあまりに広く、世界は完全で、揺るぎない安心感があるような気がする。 ――生きていることに意味のある世界が存在したら。 ――ああ、人間にも完全な世界が作れたら。 僕の勝手な解釈では、 1. 舞台が不完全な世界においては、その世界の中では完全なものがあるように見せかけることができる。 一方、完全な世界があるとして、 2. 完全な世界には我々すなわち不完全なものが存在する。すると2の世界は完全な世界とは言えない。 1.2.どちらの場合においても完全な世界は成立しえない。であれば、生きている意味、答えはわからないのは当然のことだ。 どうすれば完全な世界、土台の確立した世界を構築できるのか。それは神だけが知っているのだろう。ただ、残念なことに神は人間に教えてくれなかった。 ――ひょっとして神様だって知らなかったんじゃないか? 神自身の存在意義と、世界の在り方に関して。 結局僕は、本屋に寄っただけで早々に家へ帰り、明日の予習を始めた。 ――この式、変形がわからないな。明日、透に教えてもらおうかな? よくあるグレーゾーンの話だが、僕らの高校では教科書を使わない。この手の高校では、教科書は配布するだけで使わず、授業は大学入試の演習をひたすら解く……予備校のようなものだ。数学の課題を解いているうちに夕方になっていた。 二日後の金曜日 僕は学校を休んだ。 ――あまり長く休まないようにしよう。 この前は、突然、透が自宅へ押しかけてきて、課題プリントだの学級通信だのを持ってきてくれた。弓道場に行く途中のついでではあるけれど、彼の親愛を感じる。僕としては彼の真心に誠実に向き合いたい。 ――どうせ風邪ではない。ただ、精神的な問題で少し気分が悪いだけだ。吐き 気、頭痛、意味の分からない恐怖…… 翌週の月曜日の朝 ――今朝は大丈夫そうだ。 少し早めに身支度を済ませ、いつもの道を、いつも通り自転車で登校した。 教室には平常通り、透の方が先に来ていた。まだ人の少ない静かな教室で、僕は音を立てないようにカバンを置いた。ノートをめくっていたらいつの間にか、透は既に目の前へ来ていた。 透「おはよう」 真一郎「おはよー」 透「ああ。三限目までな」 そう言って彼はノートを僕に渡した。『数学Ⅲ 2409 上條 透』と書かれている。 「ありがと」 彼は既に後ろを向いていて、手で合図をする。僕が休んでいた間のノートを、頼む前に貸してくれた。今日の三時限目は数学だから、それまでに写しきらないと透に迷惑をかける。 ――まあ、でも、透はこの前、自分用のノートの他に貸す用のノートも持ってたけど。 僕は無言のままノートを開き、彼の字を写し始めた。彼もまた、僕と同じか、僕以上に繊細なはずなのだが、その字は、人柄を反映せず、なぜか焦っている子供のように乱雑だった。まるで『一刻も早く、人生のゴールにたどり着きたい』と言わんばかりの筆跡だった。 ――何をそんなに急ぐのだろう。ゴールしたって何もないのに。 親友であり、頭脳明晰な彼ならば、何か答えを見せつけてくれるだろうか。 ――ゴールしたら終わってしまうのに。そしてゴールするまでは苦痛続きだと言うのに。 倫理の先生が来たので一度ノートをしまった。1時間目の倫理の授業は退屈で仕方がない。概念を理解せず、上辺だけの言葉を覚えて何になるというのだろう。中身が伴わないくせに、デリダ、フーコー、ラカンにニーチェ、ハイデガーと名前だけが増えて行く。 ――僕らは虚構の世界でもがき続ける。 ――いつか宇宙の全てが消滅して、自分たちの痕跡が完全になくなったとき、自分たちの存在していた意味もなくなってしまうというのに。 ――いかに哲学者が深く考えようとも、そんな残酷な事実に耐えられたとは到底思えない。 ――ねぇ、ソクラテス、お前も逃げたんだろう? ソクラテス、お前は不滅の魂を唱えてしまった。宇宙が消え去っても不滅の存在は消滅せず、自分たちの意味として残ると言ったな? ――詭弁だ。 事実に耐えられないから嘘をついたのだろう? ――死んだお前はもう悔しがらないだろうが――それでも魂なんて無いんだ。 ――僕が全力で否定しても、お前にはもう関係のないことだけれど。 風邪が治ったばかりなので、と言って部活は休むことにした。 帰り道の途中、亜弓を見かけた。 あの人は黒い髪をなびかせて、堂々と自転車をこいでいた。そうして、一瞥もせずに通り過ぎた。いや、ひょっとしたら一瞬僕を見たかもしれない。僕は簡単に会釈したような気もするし、彼女がそっぽを向いた気もする。 ――別にかまわない。 こうしてお互い、自分の世界で相手を抹殺してゆく。僕は彼女を見た。しかしあの人は僕の世界の構成要素ではない。物理的に離れた今となっては、二度と会わないかも知れない。僕は亜弓にとって、あの人の世界の構成要素たり得ない。彼女の視界から消えてしまえば、そのまま二度と会うことがなければ、僕は亜弓の世界では死んだも同じだ。 亜弓は日記を開いた。 今日、真一郎を見かけた。私は真一郎に一瞥をくれた。私だと気付いたのか、反射的なものか、あいつは私に会釈した。会釈したように見えた。はっきりしない、陰気なやつ。ふと、中学生の頃を思い出した。 亜弓「何読んでるの?」 あいつは本にしおりを挟んで、私に向き直った。 真一郎「教科書に載ってた人の」 あいつは、表紙を私に見せた。ヘッセの『車輪の下』だ。 真一郎「『少年の日の思い出』の人。でも、内容が重くて……」 あいつは苦笑いした。 亜弓「あたしもそれ読んだ! お前、そういうの読むんだ?」 真一郎「うん」 亜弓「何で読んだの?」 真一郎「うちにあったから。つい」 嘘だ。受験のプレッシャーに負けて、少しでも共感できる本を探しているだけだ。つまらないことを言う。 亜弓「姉やもそれ、好きだよ。あと、姉やがこの前、お前の詩をほめてた」 あいつは照れくさそうに、形式上のお礼を言った。 ――まあ、はっきりしようが、しまいが、今の私には関係のないことだ。
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