十九 スレッショルド/Threshold

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十九 スレッショルド/Threshold

水曜日、透は夏期学力テストを終えた―― ナップサックを背負って真一郎の席に向かうと、弓道の射形のような奇妙なあくびをしている。 真一郎「終わったー。疲れた」 透「ふぅ、今は試験勉強って気がするけど……   3年生は毎週模試受けるらしいな」 真一郎「感覚が麻痺するよね」 真一郎も荷物をまとめて立ち上がった。 透「ところで、どうだった?」 僕らは学習室に向かいながら試験の出来について話をした。僕らの話声が一緒に移動する連中の雑音にかき消されそうになる。 真一郎「数学5問目、全くわからなかったな……」 透「あれはできなくていい」 2階玄関口が開閉するのを横目で眺めながら通過すると、シュレーリン効果で空気が乱れるのが見えた。 学習室にて、適当な席を見つけて二人で並ぶと、僕らは先ほどの解答を再現した。今回は余った試験問題を入手したので問題を書く手間は省かれた。二人の解答を見比べると、第3問を見て、真一郎がわざとらしい声を上げた。 真一郎(小声)「あれー? おかしいぞぉ」 透(小声)「おかしいですねぇ、シンイチロウさん(苦笑)」 真一郎(小声)「どうも汚らしい式になると思ったよ」 透(小声)「今回の出題者はノーブル鈴木(*数学教師)だから、      たぶん、部分点をくれるだろう?      判別式D、場合分けで……      そうだなあ。でもダメかもしれないな」 真一郎(小声)「助からないですかね」 透(小声)「うーん。難しい容体ですねぇ。……ちなみにご家族の方は?」 真一郎(小声)「娘に背負わせるわけにはいきません。        どうか、私に直接仰ってください!」 透(素)「お前、娘がいるって設定かよ!(苦笑)」 真一郎(素)「うん。設定上は」 僕はツッコミとして、丸めたわら半紙で机を叩いた。斜め二つ後ろの席にいる奴がじろりと僕らを見たので、再度声のトーンを下げた。 一通り自己採点が済むと、ティー・ブレイクにした。 水曜日、真一郎は夏期学力テストを終えた―― 僕は左手を真っ直ぐに伸ばし、右手は弓を引く時のように緊張させた、左右非対称のあくびをした。このあくびは去年の夏頃ではまだやっていなかった。冬頃、弓道部の副顧問の先生が『大学へ行くと、弓道やってるやつらはみんな射法八節みたいなあくびをするぞ』と言っていて、無意識レベルで負けるのが嫌で、意識して非対称のあくびをするようになった。透が一足先に荷物をまとめて僕のところまできたので、少し急いで机の上を片付けた。 真一郎「終わったー。疲れた」 椅子を引きずり、派手な音を引き起こしながら立ち上がると、二人で学習室へ向かって行った。 透「ところで、どうだった?」 サンダルの音、僕らの話声が一緒に移動する周囲の生徒の別の声にかき消されそうになる。東ヤードに体育会系の連中が集まっているのか、号令のような声も聞こえる。 真一郎「数学5問目、全くわからなかったな……」 透「あれはできなくていい」 2階玄関口が開閉するのを横目で眺めながら通過すると、陽炎が揺らいでいた。時折、世界は本当に歪んでいて、その歪みに飲み込まれて自分が消えてなくなってしまうのではないかという空想に支配されることがある。 学習室にて、僕らは先ほどの解答を再現した。透のペンが躍るスピードは僕の倍くらいありそうだった。 真一郎(小声)「あれー? おかしいぞぉ」 透(小声)「おかしいですねぇ、シンイチロウさん(苦笑)」 真一郎(小声)「どうも汚らしい式になると思ったよ」 非常にシンプルなケアレスミスを指摘され、僕はおどけた。 一通り自己採点が済むと、ティー・ブレイクにした。 学習室脇の灰色の廊下の奥、階段の踊り場にて 透「父上がさぁ。オレの危機管理意識にケチ付けたから、キレちゃってさぁ」 透がスマホを自宅でなくして、見つからずに苦労したらしい。最終的に見つかったのは良いものの、父親から必要以上に嫌味を言われてすっかり腹を立ててしまったとのことだ。そのままスマホを返上してしまおうとも思ったが、とりあえず思いとどまって、口を利かない冷戦状態で過ごしていると言った。 真一郎「いやでも、実際スマホは手放せないでしょ」 透「定期入ってるからなぁ。買い物にも使うし……」 真一郎「俺と連絡取れなくなるじゃん」 透「悪いが我慢してくれ。と、この件に関しては思った」 真一郎「そんなぁ……あ、透ちゃん、俺の2台目の予備機使う?」 透「なんで2つも持ってるんだよ……つーか、支払いをどうするんだよ」 真一郎「たぶん、父上に相談すれば     『上條君のことであるならば協力しよう』くらい言ってくれるよ」 透「待って待って待って。わかったよ。悪かった。   萩原家全体まで巻き込むと後が怖い。   ……しょうがねぇな。気が向いたら俺から……いや、   そうは言っても俺から頭下げたくねぇなぁ」 真一郎「とりあえず、スマホ捨てようみたいなことなければ、     それ以上は何も言わないよ。でも、お父さんの方から     『言い過ぎた。悪かった』って謝ってくるんじゃないかな?」 透「うん……その兆候はある。少しクールダウンするか。   ……だいたい、父は自分のことを棚に上げて、   結果論、結果論で何かあると鬼の首獲ったみたいに騒ぎ過ぎなんだよ」 ペットボトルを振り子のようにぶら下げながら、透は話題を切り替えた。 透「全然話変わるんだけどさ『婚活』って知ってる?」 真一郎「言葉は知ってるよ。ちょっと俺の感性からは遠い感覚だけど、     一昔前のお見合いの時代に戻っていると捉えれば、     あながち不自然な慣習でもない」 透「いやどうせスマホ使い続けるならさぁ。出会い系アプリとか、   SNSでの出会いとか始めて、今の内から婚活始めてみようかなって」 真一郎「え?」 透「だって大学受験が終わるじゃん? 就活始めるじゃん?   就職するじゃん? 婚活するじゃん? 結婚して、   妊活するじゃん?   ……就活と妊活は今から始めることはできないけど、   婚活は受験勉強とセットで始めておいてもいいかなーって」 真一郎「それはツッコミ待ち?」 透「あ、今内心で笑ってるだろ! わかるぞ!」 真一郎「俺はたまに、透ちゃんがものすごい頭良すぎておかしいのか、     馬鹿なのかわからなくなるよ」 透「ああ、夏休み終わったらさあ、   また電車通学の奴らが女子高の奴らと時間合わせて   一緒に乗ってくるんだぞ? なんなんだよ、俺への当てつけか?   畜生ー、何がカップルだよー! 別れろー! 別れろー!   滅びろー! 男の方だけ浪人して別れちまえー!」 透が踊り場の窓枠をドラムのように小刻みに叩いた。 真一郎「そんなにカップルいるの?」 透「いるよ! 秋山君とか、設楽君とか! 近くで見てるのは苦痛だぞ!」 真一郎「なるほどー。秋山君は各方面に迷惑かけているのか(笑)」 ――ペキッ 今、吾人(わたくし)は夏季課題の作文に取組んでゐたのだが、しゃあぷぺんしるの先が突然折れた。誰かが吾人(わたくし)の事を不當に惡し樣に云つてゐるやうな氣がする。 翌日、木曜日―― テストは成績の良い順に返却される。 高木「トップは小野。内容は正しいから100点と言いたいところだけど、    証明の説明不足は減点対象としたため96点」 周囲がややざわつく中、小野君が涼しい顔で答案を受け取り、2番目、3番目のクラスメイトも続けて呼ばれた。透は良い方から4人目に呼ばれて答案を返却された。僕は後ろから3分の1くらいの、とりあえず目立たないくらいの順位で呼ばれた。昔は「点数が低いと窓の外から投げ捨てられた」などという恐ろしい時代もあったらしいから、こうして手渡しで返却してもらえるのもありがたいというものだ。あまりに低い点数で呼ばれると少し恥ずかし気に答案を受け取りに行く。葉山君が恭しくお辞儀するように答案を受け取った。ちなみに3人か、多い時では5人くらいかが「点数無し!」と呼ばれ、その域の連中になると逆に、満点を獲ったかのように堂々と白紙を受け取りに行く。 高木「みんな第3問で、疲れてるのかね?    変なミスが散見されたから、気を付けて。    入試では部分点をくれるとは限らないから、    オール・オア・ナッシングくらいの覚悟で取り組んで。……な?」 課外授業が終わると、設楽君たちの話が聞こえた。 設楽「防衛大、視力の要件があるんだよ。俺心配だな」 松山「ブルーベリーだよ、ブルーベリー。今から毎日摂取して」 設楽「それ本当に効くのかなあ?」 話を聞きながら透が寄ってきて、同じ疑問を口にした。 透「あれは本当なのか? 効くのか?」 真一郎「さあ……俺はプラシーボだと思うけど、     本人が幸せならいいんじゃない?」 透「やっぱプラシーボ最強か……」 真一郎「わからないよ。本当に効くのかもしれないし。試してみる?     うちらも視力悪いから。     ……あれ、なんかあっち、人集まってない?」 透「なんだろう?」 新しい掲示物が張り出されていた。国語の試験成績だ。 透「ほお。流石ですねえ、シンイチロウさん」 真一郎「ステータスを国語に全振りした故……」 透は流石ですねえなどと持ち上げてくれるが、彼の数学の出来と比べると微妙な気がした。それに村井君や松山君、秋山君の名前も僕より上の方に掲載されていた。村井君は弓道部の主力なのに、国語の試験でも負けるとなると、どうにも僕の取り柄の無さのように感じられた。また、松山君はクラスの人気者で、国語もできるというのがやはり僕の引け目になるように思われた。秋山君は国語だけでなく、英語もできるので、これもまた僕の劣等感をくすぐるのは充分だった。しかも、1番上には「宮原誠一」という名前を見つけた。 透「あの宮原君って、キミと同じ中学だろ?」 透が、”聖人君子”誠一の話を聞きたがった。 真一郎「誠一はさ……確かに聖人君子なんだけど、     ちょっと何もかもできすぎてて逆に怖いよ」 透「怖い?」 真一郎「精神年齢が高すぎて、中学の先生たちも怖がってたよ。     悟りを開いてるみたいな感じだった。     彼が素行の悪いクラスメイトをかばうと、     先生も納得しちゃうくらいだよ。     うっかり仏陀が転生しちゃったみたいな感じだよ」 誠一は全てが出来過ぎていたので、もはや何も比べる気になれなかった。
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