二十 リアニーリング/Reannealing

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二十 リアニーリング/Reannealing

真一郎たちはちょうど弓道場に到着し、自転車に鍵をかけながら雑談している―― 真一郎「透ちゃんはさぁ、人との初対面っての覚えてる?」 透「ああ。だいたい覚えてるよ」 真一郎「俺の場合も?」 透「俺とキミとか? もちろん。なんだ、そんな当たり前のこと……」 真一郎「うん。不思議でさぁ。オレは覚えてないんだよね。     1年の時、確か、後ろから2番目くらい?     の席になるはずだったんだけど、     視力が悪いことを申告したら前の方に席を移してもらえたんだよね。     で、背後が中川君になったはず。     彼が『弓道部行ってみねぇか?』って言うから、     初日に一緒に道場に来たんだ……でもそうすると、     透ちゃんと道場に来たわけじゃないんだよね。     透ちゃんが数学係だったから課題提出の時かなあ?」 透「違うよ……弓道場で、キミから話しかけたんだよ。   その時の台詞は『どうかしましたか?』だったよ。   ……ふうん。覚えてないのか。俺はよく覚えてるけどな。   ゴム弓を引いてた時だ。他のみんなもまだゴム弓だった。   ちなみに数学係は2人いたのに、なぜかみんな俺にだけ提出しやがって、   おかげで俺は新学期早々に全員に覚えてもらったぞ」 ――そうだっけ? 僕はもう少し人との出会いに注意していた方が良いのかもしれない。人との別れには暗鬱な苦(にが)みが伴う。中村真一郎も、福永武彦も、他にも多くの詩人が既に語っている通りだが、人は死ぬか何かで物理的に別れて、肉体の死後に、関わった人の記憶から消え去った時に本当の死を迎える。逆説的には、ある人にとって、最後に会ったその時が、その人にとっての死と言える場合もあるかもしれない。Aという人間にとって、Bと最後に分かれた時。たとえその後のBの人生が残っていて、まだ生命として生きていたとしても、Aの中では存在の最期であるのかもしれない。であれば、人との出会いはその人の誕生というわけだ。そうであれば、僕の注意深さ次第では、もっと多くの人間が誕生を早めることができただろう。その一人として、伊澄ちゃんとの出会いが早かったことに気付けていれば、彼女は僕の中で生き始めるのがもっと早かったかもしれない。 今年の春先の出来事だった。 僕が弓道場から帰りかけた時だった。1年の時を通して、既に透とは仲良くなっていたから、当然二人で帰るつもりだった。けれども、透が見当たらなかった。そんな状況で、共学校の女子が3人で僕を囲むので、何事かと焦った。困惑する僕を前に、中央のダークブラウンに染めたポニーテールの女の子が、意を決して僕に話しかけた。 伊澄「あの! 萩原先輩は彼女募集中ですか!?    それとも、もういますか!?」 真一郎「いえ……そういうわけではないですが……」 由紀と絵里と呼ばれる子たちが両脇から成り行きを見守っていたが、この返事を聞いてガッツポーズをとった。 ――たぶん3人とも新入生なんだろうな。 後から村井君に聞いたところによると、この時、僕の同級生の何人かもグルになって透を引き留めていたり、雰囲気を壊さないように近くを通らないようにしてくれていたらしい。 伊澄「大学、進学しますよね?    県外の大学とか、行っちゃうかもしれないですか?」 真一郎「それはたぶん」 僕は頷いた。 やがて、取り巻きの二人は伊澄ちゃんの肩を押すように前へ突き出した。 伊澄「すみません、ちょっとだけ、お時間下さい!」 僕は連れられるように道場の裏手に回った。この展開がどういうことを意味するのか、対人関係に愚鈍な僕でもさすがに理解できたし、僕が言うべきことも考えなくてはいけないと思った。 二人きりになって、改めて僕は彼女と対面した。 真一郎「僕は、どこかで会ったことがありましたっけ?」 伊澄「先輩、中学校の頃から見てました!    あたし、図書委員だったんですけど……」 僕は中学生の時の思い出の中から、心当たりのある光景を探しだした。 中学校の図書室にて。僕は借りた書籍を返却しようとカウンターへ立ち寄った。受け付けをしてくれている後輩の女子が3人で待ち構えるようにこちらを見ていた。僕が本を差し出すと、中央の1人が「番号と名前をどうぞ」と聞いた。 それは誰にでもそのように聞くものであるし、僕は当然、何も考えずにクラスと氏名を述べようとした。だが唐突に、その左隣のポニーテールの子が 「バカ! (図書)委員長だよ!」と言って質問した子の肩を叩いた。 その子も「え!? ああ!」と言ったが、僕も「あ、そうか……」と苦笑いした。よくよく考えてみれば図書委員長だったのだから、図書室のカウンター越しの人たちには知られていても不自然じゃなかったわけだ。 ――でも、同じ立場だったら、僕ならたぶん気が付かないな。 気が付かない。それは生きているのに、僕の前でまだ誕生していないのだ。 時は現在に戻り、僕は一種の感慨を覚えた。 ――なるほど、あの時の後輩か。 彼女の気持ちは丁寧に、かつ熱い情念を持って説明されたし、僕はその気持ちに真摯に応じたいと思った。中学生の頃、能動的にも受動的にも失恋の痛みを経験していたことのある身としては、無碍に断るという選択肢は冷淡な、避けるべきことに思えた。しかし、だからと言って「お付き合いしましょう」と軽薄に応えるのは些か誠実さに欠ける気がした。僕は決して、あの「手の届かないライバル」に恋心を認めようとはしなかったが、彼女はどうしても脳裡にちらついた。 真一郎「こういう時は、それじゃあ、お友達から始めませんか?     どうです? あと、すみません。     僕はキミの名前を、実は知らないのです」 伊澄「あたし、タニカワイズミです。    タニは山と山の間で、カワは普通の川……    イズミのイは伊勢の伊で、すむ……ええと、さんずいの澄むです!    よかったらアドレス交換してください!」 真一郎「もちろん」 伊澄ちゃんはそれで十分に満足してくれたが、僕は自分の返事が、本当に純真潔白な心から出たものか、いまだに猜疑の目を向けている。『どの花も美しかったが、その心は腐っていた』という、ハイネの詩が楔のように僕の心臓に打付けられた。仮に僕が伊澄ちゃんと親しくなったとしても、僕の心の中の先住者は出て行かないような気がしていた。 ――それならば、これは不道徳というやつではないだろうか? ――でも、僕は伊澄ちゃんを好きになるかもしれない。どう転ぶかはわからない。 ――本当に? 本当は、これは卑怯というやつではないか? 生物学的に考えるならば、特定の個体に拘泥するというのは非合理的であるから、心がたやすく傾くというのは許されるような気がした。 ――しかし、単なる生き物としてのヒトでいるならば、ケモノ同然という、己の哲学に背信することではあるまいか? ――今後再会しないであろう、もう死んだも同然の人間、それとも、僕の中でまだ生きているの? ――お前、そんなこと言ってるの? あたしは死ぬはずがない。 ――いや、生きていればいつかは死ぬだろう? いつかは僕の記憶から消えるだろう? ――お前、知らないの? あたしがこの世界だよ。 ――そんなはずはない。僕の世界は僕のものだ。 ――お前ならとっくに、全部まるっとあたしのところにあるよ。でも、いらないけどね。 ――そんな理不尽な。でもそれなら僕だって、お前の同情なんかいらない。 弓道場控室の照明が古くなったようなので、共学校の伊藤さんが新しい蛍光灯を持ってきた。伊藤さんは僕らの高校にもいる同級生の伊藤、後輩の伊藤と区別するためにeins(アイン/アインス)とあだ名を付けられている。なお、同級生の伊藤はzwei(ツヴァイ)で後輩はdrei(ドライ)と呼ばれている。 水沼君が古い蛍光灯を取り外すと、伊藤さんは何を思ったか、新しい蛍光灯を竹刀のように、下手に構えた。 伊藤「ブォン」(口頭によるレーザー系の効果音) その場のメンバーは戸惑ったが、水沼君が応じるように、似た姿勢で古い蛍光灯を構えた。 水沼(同様に)「ブォン」 やや腰を低くした、暗殺者のような姿勢で二人はじりじり近づいた。 伊藤「水沼ちゃん、やるな……」 水沼「う、手ごわい(笑)」 二人はゆっくりと殺陣を演じるように、ぐるぐるとすり足で室内を周った。 吉川「水沼ちゃん頑張れー!」 透「え? なんなのこの展開!?」 服部「透ちゃん、ホント映画詳しくないからなー」 真一郎「さすがにこの映画は有名だと思うよ?」 透「いやそうじゃねぇ! 俺だって知ってるわ! 何だこの茶番は!?」 伊藤「隙あり!」(スローモーションで水沼に斬りかかる) 水沼「うわあああ」(ゆっくり倒れこむ) 伊藤「水沼ちゃん付き合い良いなー」 水沼君は何事もなかったかのように涼しい顔で起き上がった。 ツヴァイ「あ、生き返った」 水沼「じゃ、捨ててきます」 伊藤さんは今度こそ新しい蛍光灯を天井に填(は)めた。 真一郎「”もっと光を”」 透「ゲーテか! なんでお前おいしいとこ持ってくんだよ!」 市川「ねえ誰か数IIIの青チャ持ってない?」 村井「弓道場で勉強するのよせよ」 透「お前はみんなに迷惑かけないように宿題やれ!」 真一郎「村井君、夏休み残り少ないけど、どんな感じなの?」 村井「いや、何も手を付けてない」 吉川「またみんなで頑張ろうな(笑)」 服部「いや、宿題ってみんなでやるものじゃないから」 多分、夏休み明け、また碓氷君主導のもと、僕らは一斉写経させられることになるだろう。 吉川「チームワークってやつだ」 透「それは違うって(笑)」 村井君の射が美しく、ブレないのは、彼女に対する誠実さが反映されているのかもしれない。
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