二十一 サプレッサー/Suppressor

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二十一 サプレッサー/Suppressor

透は期初考査、数学の難問に戸惑っている―― 今回の試験はかなり焦る。恐らく一番簡単であろう微分の問題でさえ、まだ途中までしかできていない。白紙のスペースと危機感とが、ドミノ倒しのように僕の緊張を刺激する。こんなに出来の悪いことがあるだろうか。もう10分少々で試験が終了してしまうのに。 ――実は簡単な問題を見落としていて、そのために大幅に点数を落とすことになりはしないか。 久しぶりに平均点以下を目にするかもしれないと思うと、ネガティブフィードバックで思考はますます鈍くなる。余計なことを考えずに、少しでも獲れる問題を落とさないように気を付けないといけないのに、車に轢かれれることを悟ったネコのように、頭が麻痺して働かない。 ――真一郎が教えてくれた雑学だが、ネコが頑張れば逃げられる場合でも、身体が安楽死を選択して硬直してしまうらしい。 周囲のクラスメイトの、ペンを走らせる音が響く。せめて何か勘違いしていた振りでもできるように、適当なグラフや増減表をでっちあげて「それっぽい」答案に仕上げると、試験終了の掛け声がかかった。 無念な気持ちと悔しさに混じって、誰かに非難されているような錯覚を感じた。これは僕の被害妄想であって、そんなことはない。であるはずなのに、監視されるような不安な気持ちが…… ――誰かが僕の試験の偏差値を低いと見下す。   まさか。そんな筈はあるまい。 ――誰かが僕の容姿を侮辱する。   どうだろう。そんなに醜い筈はないだろうと思っている。 ――誰かが僕の射を弱いとなじる。   いや、僕が引いているのはみんなと同じくらいの重さだ。 ――誰かが、僕のヴァイオリンを下手クソと嘲笑う。   そもそも楽器を弾ける奴は少ないかもしれないのに。 全ては根拠のない被害妄想だと分かっている。そうだ、今回はみんなだって難しいと感じたに違いない。 ――そうでなかったら? 取柄を失ったドス黒い恐怖の残滓が何かに八つ当たりしようとするが、そんな力さえ委縮して消え去るほどに憔悴してしまった。呆然としたまま国語と英語の試験も終えた。どうにも納得がいかなくて、数学の試験を思い出そうとするが、自己採点ができるほどに内容を明確に思い出せない。黒板の上に掛けられている時計を睨むようにして舌打ちした。やがて人の移動があり、雑談の輪が広がる。他の奴にも数学は難しかったとか、英語の長文は捨てたとかいろいろ聞こえてくる。真一郎が来た。 真一郎「透ちゃん、今回の数学やばいよね? 俺だけじゃないよね?」 透「ああ……ううん。そうだよな……いや、俺だけ難しく感じたんじゃないよな……15点獲れるかどうかも怪しいな……」 真一郎「そっかぁ。平均点は10点くらいかなぁ?」 不安に思っているのは僕一人じゃないと実感すると、急に楽になってきた。 ――みんなもできなかったわけだ。 結果はその日のうちに掲示板で開示された。追試対象者は300人とのことだ。 透「やりやがった……」 市川「こんなん、サン=バルテルミの虐殺じゃん……」 真一郎「ああ、俺、透ちゃんでさえ15点くらいかもって聞いたときに     『あ、粛清タイムか』って思ったな……」 思い返してみると、入学直後の基礎学力考査の平均点は11点だった。井の中の蛙でしかない、田舎の優等生どものプライドをへし折っておこうということらしい。久しぶりにそういうこともあるだろう。 翌朝、早朝の全体補習が大講堂で行われた。 鈴木「今回の試験は、残念ながら非常に採点が楽でした。    もう白紙の山です。もう少し教員の手を酷使してくれてもいいです」 (生徒たちから忍び笑いの声がうっかり漏れる) 鈴木「さて、今回の試験によって、我々が、都会の中高一貫校から比べて、    どれだけ引き離されてしまっているか、    危機感を持ってもらえたかと思います。    夏休みで感覚が鈍ってると思いますので、    期初の1週間で感覚を取り戻していきましょう」 補習が終わった後、教室に戻り、通常の授業を受け、お昼休みに入った。真一郎や涼平と弁当を食べながら、SNSで流行していた性格診断を勧めてみた。 透「この性格診断、結構面白いぞ」 真一郎「ふうん……どれどれ、え、設問多い。     ……なんだこれ、あなたの性格はー苦労人?     『パンを落としたら必ずジャムを塗った面が下に落ちるし、      買い物をすれば隣のレジの方がさっさと会計を済ませているし、      改札を通るときは目の前の人がチャージ不足で足止めを      食らいます』」 一同「「ぶ」」(笑) 真一郎「どういうことだよ!」 透「いや、科学的に説明しよう。   たぶん、パンが落ちる時は縦に落ちるはずだ。   そうするとジャムを塗った面の方がわずかに重いから、   モーメントがかかってジャムを塗った面が下に来る」 真一郎「マジかよ……」 透「隣の列の方が早く済むというのは、なんだ……」 真一郎「ロジカルに考えてみるか。     それはきっと、ヒトは並ぶ際に、長い列の方を避けるからだ。     でも現実には長い列の担当者の方が処理速度があって、     一人しか並んでいない方に限ってわけのわからないクレーマーが     時間をとっているからなかなか終わらない」 透「(笑)……いいぞ、何か理由があるぞ、改札のチャージ不足は?」 真一郎「さぁ? 運が悪いんじゃない?」 透「そこだけ運かよ!!」 真一郎「さすがに改札のロジックは分からないよ……理不尽だろう」 涼平「お、俺も結果出たぞ    『あなたはハマると夢中になって抜け出せない蟻地獄、泥沼、     自転車操業の職人気質です』」 透「オタクってことだろ。当たってるじゃん」 涼平「おい! 俺の扱い雑過ぎだろ」 この黒田涼平は、二次元アイドルのプリントされたクリアファイルを堂々と持ち歩く、自他共に認めるオタクだ。服部君たちと同じ電車通学仲間だが、僕にとって一つ重要な役割を果たしている。金銭面のブレーキ役とでも言うか。 高校3年間でゲームなり、あるいは推し活なりでどれだけの出費をするだろうか。僕の場合、このままだと計算によると、クレーンゲームに10万円つぎ込むことになりそうだ。浪人したら予備校に行く追加のお金もかかるし、社会に出て働く年数が1年減る。明らかに10万円より大きな損失だから、ゲームに金をかけるのは心の健康のために、ストレス解消効果の観点からして合理的だ。……と一応は自分に言い聞かせている。ゲーセンで現金しか取り扱っていないのは不幸中の幸いだろうか。もし電子マネーに対応していたら危なかったと思う。ここで僕は抑止力となってもらうべく、涼平に現金を預けることにした。彼が使い込む心配は無い。人柄は信用している。むしろ、僕の理性が負けてしまうことの方が問題に思えた。この作戦は功を奏した。涼平の監督下ならば、彼が「おいおい、待てよ、もう今月は何千円使ってるぞ?」とストップをかけてくれる。 この点、真一郎には二つの理由から頼ることができない。一つにはそもそも、真一郎は電車通学じゃないからゲーセンに寄らない。二つ目の理由は性格の問題。真一郎は「透ちゃんの気が済むようにしたらいいよ」と自分の金まで出しかねない。あいつは惚れ込んだらダメな奴に貢いじゃう系だと思う。 お盆の直前、自室でぬいぐるみの山に囲まれると、物理的に圧迫感を覚えた。何だかんだで「とろとろペンギンをこんなに収集してしまった」ことを自覚させられた。僕が死んだら、このぬいぐるみの群れはゴミになるのかと思うと、コレクションが突然「大量のゴミ」に見えてきた。だらしなく寝そべった、やる気の無さを象徴するデザイン。無気力で虚ろな瞳。僕が生きている今でさえ「ゴミ」になる恐れのある彼ら。決心して、迎え火か送り火のどさくさに紛れて一緒に燃やしてしまおうと思った。袋詰めにされた「ゴミ」を二階の僕の部屋から庭まで運んで行った。一人、火の始末に残って、いざ1匹だけ火にくべた時。その繊維の塊が、熱による急激な、不可逆的な反応によって黒く変色していく様子が観察された。目の前で僕の思い出が黒くなっていく。僕の思い出が灰になっていく。2匹目をくべることはできなかった。 透(困惑して独り言)「どうするんだ。この大量のゴミ」 とりあえず、僕が生きている間は上條家の一室を圧迫し続けることになるだろう。「思い出」は再度自室に引っ越した。卒業までに2倍の数に膨れ上がって僕をますます圧迫することになるのだろう。 物思いから現実に戻って、僕は弁当を片付け始めた。 透「アインシュタインは   『第四次世界大戦があるとすれば、石と棍棒で行われるだろう』   とか言ったらしい。知ってる?」 真一郎「知らなかった」 涼平「同じく」 透「文明が壊滅するような恐ろしい第三次世界大戦を経てさえ、   人類が戦争するとしたらアホだと思わんか?」 真一郎「文明が壊滅したってことは、アホな状態なんじゃないかな。     残念ながら」 涼平「ああ、文明のある賢い状態から、    文明の無いアホな状態になっちゃったってことか」 透「人類、助からねぇな、おい」 僕は第三次世界大戦が行われないことを祈っている。
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