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二十二 シャペロン/Chaperone
木村千佳は秋山健治と一緒に電車で登校している――
あたしと健治が折角おしゃべりしているのに、空気を読めないミナミ君が割り込んで健治に話しかけてきた。健治は冷静に、しかし追い払うような口ぶりでミナミ君を遠ざけようとした。突然、電車が激しく揺れた。ミナミ君はよろめき、私に触れそうになった。反射的にあたしはミナミ君の手をはじくようにはたいて避けた。大げさな反応だったので健治も、ミナミ君も驚いた。数秒後、彼は一応、健治の同級生なんだから、健治の面目を潰しちゃったかもと気になった。私の反応はやや病的であったということも鑑みて「ゴメン。あたし潔癖症だから、つい叩いちゃった」と形式的に謝った。私に触れていいナイトはただ1人なのだもの。
ミナミ「なんだよー、それじゃあお前ら、手つなげねぇじゃん(笑)」
千佳「健治だけは触ってもいいの」
そう言ってあたしが健治にぴったり寄り添うと、健治は真っ赤になって口ごもった。健治、とても良い名前。お父様だかお祖父様だかが大学でお世話になったドイツ語の先生から名前を頂戴したらしい。でも、長男だから「ニ」じゃなくて「治」にしたって。ところが、当の本人は「宮沢賢治の賢治の方が好みだった」なんてもったいないことを言っている。
秋山「ところで何を話していたのだったっけ」
千佳「岡本綺堂がシャーロック・ホームズ好きだったって」
秋山「ああ、そうだ。それで『半七捕物帳』が書かれたんだ。でも僕は……」
健治の文学論を聞いているのは楽しい。健治はだいたい1日に2冊くらいのペースで読書をするのだと聞いた。「そんなにたくさん読んだら忘れちゃいそう」と言ったら「忘れられる作品は結局のところ、そういう作品なんだと思う。逆に、どれだけ多く乱読しても覚えていられる作品が佳作というやつなんじゃないかと思う」と答えた。
千佳「健治は、いつまでも心に残る作品、書けそう?」
秋山「もちろん、作者の死後まで残り続けるような作品が書けたら
最高だと思う。けれど、僕はまだそんなすごい作品を
書ける気がしない。しかも、実を言うと隣のクラスにライバルが
いるんだけれど、作風も、作品に対する考え方も違ってて、
彼の方が評価されていて、僕は少し自信がなくなっている」
千佳「ええー、そんなの気にすることないじゃん?
たかが高校生の作品でしょ?
社会人になるころには健治の方が良いもの書いて有名になってるって」
秋山「うん。たぶん、彼の強みはストレートな若さだろうから、
お互い大人になるころには選考する人たちの目線も変わると思う」
上條透は少し離れた席で二人の会話を聞いている――
朝からテロにも等しい惚気は本当勘弁してほしい。俺みたいな独り身のことを考えろよ! なんだよ、あいつら、あの角砂糖をぶちまけてメープルシロップまみれにした様な空間は。俺にケンカ売ってるのか? そして真一郎、よくやった。お前のおかげで秋山君はコンプレックスを抱いているぞ。本当よくやった。偉い。後で褒めてやるからな。あの女は秋山君を持ち上げてるけれど、俺はお前の方がヒットする詩人になると思うから、後でたくさんサイン本を用意しておいてくれ。隣に座っていた涼平が話しかけてきた。
涼平「透君、イヤホンずれてない?」
透「あ、いや、これは骨伝導イヤホンなんだ。
だから音楽聴きながら人の話とかも聞こえる」
涼平「へぇー、そんなのあるんだ。
(小声)じゃあ、あのバカップルの会話も聞こえてるんだ」
透「聞かない方が精神衛生上良いぞ」
涼平「透君もそろそろ三次元を卒業して、二次元の嫁を探しに行かないか?」
透「やめろ、俺は三次元の住人なんだ。一緒にするな。やめろ」
谷川伊澄は英語の授業中――
英文和訳の問題、少しずつ指される順番が近付いて来た。関君が指された。
関「すみません! 一つ、ずらして下さい!」
教師「何を言ってる(苦笑)」
今日、佐々木君が休んだから指される順番がずれたんだ。自分の当たる部分しか解いていなかったのがわかって、周囲のみんなが笑い出した。でも、自分の当たる問題しか解いてこなかった人は他にもいて、そのままあたしの番になってしまった。
教師「谷川さん」
伊澄「あ、はい!」
一応、あたしは全部やっていたから、普通に答えた。
授業が終わってから、宿題を提出しに教卓へ近寄ったら先生に声をかけられた。
教師「自分が指されるところ以外もちゃんとやってて良かったね(笑)」
伊澄「あたし……なんとなく英語好きですから」
先生は嬉しそうに頷いた後、あたしを職員室へ呼んだ。先生は一度研究室に引っ込むと、あたしに1枚のプリントをくれた。
教師「この人はエルゼ・ラスカー=シューラーという詩人なんだけど、
谷川さんが好きそうだと思ったから、いつか教えてあげようと
思ってたの」
2ページだけコピーされたその詩を受け取り、あたしは帰宅してから読んでみた。ちょっと素敵だと思ったけれど、物足りなかった。なんだか、もっと強く味わいたい何かを感じ取った。
「音読してみよう。そうすれば音楽的な響きを楽しめるはず」と、萩原さんに教わった詩の楽しみ方に従って音読してみた。
――どうしてかな? さっきよりイマイチ。
改めてその同じ詩を黙読し始めたら、今度は1回目より、2回目よりも強く言葉の情景が脳裏に浮かびあがってきて、世界は大きくなり、澎湃(ほうはい)とした洪水のように膨れ上がり、あまりにも大きくなりすぎて、やがて破裂してしまった。あたしは嗚咽していた。悲しいことが書かれているわけでもなんでもなかったのに、もう涙が止まらなかった。萩原さんに電話をかけた。
真一郎『あ、もしもし? どうしたの?』
伊澄『すみません、特に理由はないんです。
でも、どうしても声を聞きたくなっちゃって。
お勉強忙しいですよね。すみません』
真一郎『いや、全然かまわないよ』
伊澄『あたし、今日、英語の先生に詩を教えてもらって、
それで萩原さんに教わった風に読んで、でも、
そんなに感動しなくて、でも、でも、その後、黙読したら、
なんだか泣いちゃって……何か変ですよね(笑)』
真一郎『全然変じゃないよ。むしろ、書く人はみんな、
それを目標として書いているんだから。
外国語の詩でしょ?
たぶん、黙読した方が内容をイメージしやすかったんだろうね』
もう少しだけ雑談をすると、電話は終わった。昨日、由紀が木村先輩と萩原さんの同級生が仲良くやってる話を聞かせてくれた。ナイトというらしい、羨ましい話だ。あたしのナイトはあたしに触れてくれることはない。皮肉な事に。あの人の華奢な身体、中性的な顔立ち、薄く青いクマのある物憂げな目、穏やかな話し方、紡がれる一言一言は詩になり、その眼の先は未来への不安とプレッシャーを見据えている。
あの人が上條さんに、異常なまでに心を許しているのは少し嫉妬した。でも、もっと嫉妬すべき見えない相手がいるのだ。決して競争に負けずに走り続ける『赤の女王』。留まりたければ、お前たちは全力で走り続けなくてはならない――
せっかく萩原さんも絵画が好きなのだから、一度くらい美術館デートをしてみたい。しかし、……それは叶わない気がする。萩原さんが誠実であろうとすれば、恐らく私の要求を拒むだろう。誠実でなければ私は離れざるを得ないだろう。どのみち破局が決まっているのに、2人とも今の関係のぬるさに浸かって時間稼ぎをしているにすぎない。
この前、思い切って公園デートに誘った。あの人は女との付き合い方がわからないのか、ギクシャクしながら学問のことを話し、生き物をどうやって数式で捉えるか、心理学とはどういう学問であるかを話してくれた。変な人。人間の心に興味を持っているのにあたしの心の動きには全然気が付かないのだもの。
真一郎は透を誘ってティー・ブレイクに入った――
真一郎「コンプトン効果の図解のイラストあるじゃん?」
透「ああ」
真一郎「あの丸の中に波が書かれてる模式図、
何かに似てるなーって思ってたんだけど、ミトコンドリア君だね」
透「生物やってる奴って、物に君を付けるのか?
なんか水沼君もDNAポリメラーゼ君とか言ってたけど?」
真一郎「須永さんの教育の賜物かも(笑)」
透「あとね……俺、波と粒子という概念がわからないな。
どういうことなのか? さっぱり想像できない」
真一郎「そうに言われるとな……
物理専門にするつもりの透ちゃんにわからないなら、
俺にはなおさらわからないな。
模式図見るとなんとなくわかったつもりになっちゃってたけど、
確かに波であるのに同時に粒子ってのは、うん。想像できないな」
透「話変わるんだけど、昨日の朝、電車の中でバカップルが惚気ててさ」
真一郎「知らない人?」
透「お前が良く知ってる奴だよ」
真一郎「村井君?」
透「じゃなくて」
真一郎「秋山君?」
透「そう。で、なんかキミの方が詩とか作文評価されてるから
自信なくしそうって言って落ち込んでて、女は励ましてて、
もう全俺がスタンディングオベーションでキミを褒め称えたね。
今後も頑張ってくれ」
真一郎「いや(笑)、詩は競争の道具じゃないんだからさぁ……」
詩にせよ、音楽、絵画、建築など芸術はもちろんのこと、政治や社会的な活動で公益に尽くすとか、財産を築き上げるとか、人間は己の生きた意味を、証を残したいだけなのだ。僕だってそうだ。
抹茶ラテを飲み終えると、透に学習室へ戻ろうと促した。
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