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二十三 フィクセイション/Fixation
私と圭織はいつものお店に入った。ハロウィンにはまだ早いと思うが、パンプキン風味のラテが出されていたので頼んでみた。着席すると、圭織は写真映えする角度を探しながら、ラテをテーブルの上であちこち動かした。
圭織「あゆみっち! あゆみっち! スマイル描かれてるじゃん!
ウチら当たりよ!」
亜弓「日頃の行いがいいからね」
圭織「そうそう!」
満足する写真が撮れたのか、圭織はよそ見をしながら生返事をした。続いて、飲む。私も飲む。
圭織「ヤバい! これちょーヤバくない!?」
亜弓「うん。甘みが強いけれど、絶妙な苦みが絡み合って
さっぱりした感じを出しているね。
後はクリームのアクセントが効いている」
少し早めのハロウィンを堪能すると、私たちは参考書をテーブルに広げた。
圭織「ウチは英語好きだからどうでもいいけどさぁ、この国はさぁ、
英語を小学校から大学まで勉強させておきながら、
公用語にしないの、なんでだろうねー。
公用語にしないと結局使えなくなるじゃん?
あたしが思うにぃ、公用語にしないで使えなくさせるってのは、
逃げ場を無くすってことなんだよねぇ。日本って島国じゃん?
よその国との物理的な隔離の他にぃ、
言語的な隔離を加えることで民衆をガッチリ捕まえてるの?」
私は軽くふふっと笑った。
亜弓「面白い考え方だね。でも、あたしが統治者だったら
そのシステムを盤石にするために英語教育は高校と大学だけにして、
特権階級しか語学を勉強できないようにするね」
圭織「なるほどぉー。うん。じゃあ、そうだなー、
本当はあゆみっちの言う通りにしたいんだけどー、
英語教育の従事者を確保するために?
仕方なく小学校や中学校でも教えてるとかは?
英語を学んだ人の就職先を作らないといけないじゃん?」
亜弓「ちょっとアイロニカルに過ぎるし、
教員不足というニュースと矛盾する気がするけれど、
それ以上の反論をするにはあたしも十分な論拠を持っていないから、
この辺にしておくよ。ただ、あたしは人間の善性と、
品位と、教養とを信じたいと思っているよ。
つまり、善なるものを求めて教養や品位のために学習しているってね」
圭織「あゆみっち言い方がカッコいいー! 安田センセーみたい!」
亜弓「Thank you so much」
私がさらに安田先生の英語を真似ると、圭織は手を叩きながら「似てる!」と喜んだ。
しばらくすると二人のスマホに通知が入り、圭織が一大事と言わんばかりに驚いた顔をした。面白くもないニュースが私たちに飛び込んできた。
圭織「ちょっとぉ! マジ信じらんないんだけど、マユちゃんの!」
亜弓「浮気されてたって?」
私も丁度そのメッセージを目にしたところだ。
亜弓「こういう男はくたばれば良いと思うよ?
後は真佑がさっさと忘れちゃえれば良いね」
圭織「反応が過激だよーあゆみっち」
私は裏切り、卑劣、嘘が大嫌いだもの。他人事であってももちろん我が身のような怒りを覚える。
亜弓「そうかな?
ともかく、真佑の傷ついた心に慰めの言葉はかけたいと思うよ」
二人して励ましのメッセージを送り合っていると、やがてみんなからの返信に応えられなくなったのだろう。反応も鈍くなってきたので、これ以上はそっとしておくことにした。
亜弓「こうは言ったけど、
あたし自身の立場ならもう少し違う考え方をするかもね」
圭織「と言うと?」
そんなつまらない話は黙殺するのが正しい。私は目の前のつまらない事全てを踏みつぶす巨人として、歩み続ける。
亜弓「だいたい、人生は短いんだもの。
そんなくだらない男に時間割くより、
新しい彼氏探した方が良くない?
破局が早まった分、ちゃんとした新しい彼氏と過ごせる時間が
長くなったわけじゃん。それに何より、勉強しなきゃ」
圭織「そりゃそうよ。でもなぁ、
好きになっちゃうと何だかんだでそれじゃ済まないんだなー。
あたしもあゆみっちの意見が合理的だと思うし、そう考えたいけど、
きっと『浮気した男には毒を。確実に命は無いと思え!』
みたいな事ずっと考えちゃうと思う」
亜弓「何それ? お得意のシェイクスピア?」
圭織「ゲーテよゲーテ、ファウスト」
圭織は空になったラテのカップを持ち上げて、残り香を楽しんだ。
圭織「それにしてもあゆみっちストイックすぎるよ!
で、そう言うあゆみっちは何か恋バナとかないの?
中学の時とか!?」
亜弓「……ないね。興味、ない」
圭織「知ってたー。はい。知ってた!」
最初から期待してなかったと言わんばかりに、圭織は英語の参考書に眼を戻した。
真一郎は中学生の頃の手帳を読んでいる――
拙い字で、カタカナの歌詞が書いてある。手帳に、校歌でもない歌詞が書かれているのには理由がある。中学校の音楽の授業の前に、河原がピアノを弾いて遊戯(あそ)んでいたことがあった。取り巻きの女子がシューベルトの魔王をリクエストしたが、その曲は難しいと河原は渋った。しかし、周囲に期待の声をかけられて、仕方なく河原は演奏を始めた。
僕はまだその時、満ち満ちる程に詩を持ち合わせていなかったから、河原の魔王が不完全ながらも顕現した時の感情を表現できなかった。途中で力尽きた河原は「無理だよ。難しいね」とあっさり言った。僕はどうにかしてあの魔王が最後まで力をふるうところを観たかった。僕は幸い、ドイツ語の辞書を持っていた。小学生の頃に、近所の大学の学園祭に連れて行ってもらった折、中古の辞書が売りに出されていて、その時に「欲しい」と言って買い与えられたものだ。その辞書にはカタカナ読みが併記されていたため、教科書のドイツ語歌詞をカタカナに直して、読み上げることができた。そうして歌いながら、心の中で河原に張り合った。
ヴェルラーイッテッゾシュペート、ドゥヒナーハートウーントヴィーント
河原が弾ききれなかった分を僕は歌うことができる――
あまりにも小さな見栄だった。だからこんなにも拙い字で書かれている。挙句、歌詞の意味などこれっぽっちも分かりはしない。
僕が社会科のノートをまとめていた時だった。あれは詩の材料を作っていたと表現するのが適切だろう。まだ僕は詩が書けなかったけれど、国の名前を、王の名前を、制度の名前を連環させることができた。図示して、矢印を引っ張り、並べたり、丸をつけたりしていた。河原はハーフリムのメガネ越しにそのノートを覗き込んで、僕が勉強していると勘違いした。
亜弓「お前もノートまとめ直して勉強してるんだ!
わかるよ。あたしも、よくそうやって理解しやすくしてる!」
秘密の日記を見られたかのように僕は咄嗟にノートを閉じ、「ああ、そうだよね」と適当な相槌を打った。あの時チャイムが鳴らなければ、僕はもう少し何かを言ったかもしれない。
――何を?
何も言うはずがない。同じクラスで、同じクラブで、生徒会活動で、十分に時間を持っていたはずなのに、それでもなお放たれなかった言葉は、永久に地の底へ押し込められるものだ。
あまりにも周囲が静かすぎて、耳鳴りが始まり、やがてその雑音はshame(恥さらし)という単語のリフレインとなって響き続けた。誰かに監視されているような被害妄想。視線と圧迫感。息苦しさと頭痛。僕は久しぶりに精神安定剤を服用した。「明日は学校、休んじゃおうか」とも思った。だがしかし、透が心配するだろうな……
父のアドバイスに従って、図書室でボードレールの詩集を借りてきたのが読みかけだったことを思い出した。
――今晩中に読みきったら、ちゃんと登校しよう。
僕は古びて壊れそうな本の頁をそっとめくり始めた。
伊澄たちは弓道場にて、帰り支度の最中、雑談をしている――
伊澄「ロミオとジュリエットって、最高に幸せだと思う」
絵里「ええー、いずみん、バッドエンドでしょ!
だって死んじゃうんだよ? 悲劇でしょ!?」
伊澄「でも、人間はどうせいつか死ぬんだよ?」
由紀「いやいやそんな、あたしが悲しい!
それに親より先に死ぬなんて!?」
伊澄「親だっていつか死ぬんだよ?
子供が先に死のうが親が先に死のうが変わらなくない?」
絵里「親より先に死ぬのは最大の親不孝って言うじゃん!」
伊澄「そういえば何でなのかな?」
由紀「子供が先に死んだら、孫が生まれないでしょ! 人類の知恵よ(笑)」
伊澄「子供、子孫がいくら続いたって、もう5億年もしたら、
きっと人類は滅びていると思うから。どうせみんな死ぬなら、
好きな人と思い切り愛し合って死にたいじゃない?」
絵里「いやー、わかるけど悲しくてやだー! いずみん死なないで!」
伊澄「別にあたし今死ぬなんて言ってないからね?(笑)」
由紀「あ、待ってあたし一周廻っていずみんの気持ちわかった、
しかもすごい、恋愛なんてしなくていいかも?」
伊澄「いやそれはおかしい」
由紀「どうせ滅びるならよ? 何にもならないなら
恋なんてしなくてよくない? あたし天才かも?
いずみんのおかげだけど」
絵里「いやそれは無理! そんなのつまらないって!」
なるほどどうせ全てが虚しいなら、恋もまた虚しいのか――嫌。それは何だか違う。私は立ち止まってしまう。何もしないでいるだけなのに世界が勝手に走って流れてゆく。私は自分の速さで歩みたいだけなのに。どんどんあたしを置いて行ってしまう。誰か、できれば萩原さん――世界に碇を下ろしてくれれば、そうすればあたしだって曳航されて行くから。
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