二 胎児/Fetus

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二 胎児/Fetus

火曜日 熱気を覚え始める五月の空気が、僕の気持ちをわずかだが高揚させる。一方で「僕はこの世の真実(むなしさ)に気が付いている」感覚が、強い疎外感をもたらす。 僕は弓道部に顔を出した。挨拶を済ませ、部員たちと雑談しながら道着に着替えた。自分の弓を探し、矢筒を準備する。馬手(めて)、すなわち右手に弓掛けを巻いた。 弓手に弓を、馬手に矢を四本持ち、頭が糸で空からつるされているような気持ちで歩を進め、的前に立った。左から二番目の的を見据えて、矢をつがえ、弓を高く掲げた。引き分ける途中で、さっそく弓が重く感じた。 ――息が止まる 最初に一本、ギリギリで的中(あ)たったものの、そのあとは二本続けて外した。最後の一本は、これはギリギリで的中(あ)たった。 「ああ、重いな」 照れ隠しに言ったのだが、村井に 「それぇ、練習休むからだ!」と手厳しく返された。 雰囲気がカタくならないように、透が茶化してくれた。 透「いや待て、待て、お前、学校休んでたやつに練習出て来いって無理じゃね? ……それともお前の発想は、ひょっとして学校は休んでも部活には出て来いってやつか?」 村井「当り前だろうが!」 せっかくの透のフォローを村井は見事なまでに打ち砕いた。メンバー一同は、一瞬、恐れ入った様子を見せたが、すぐさま 「お前ホント馬鹿だな」とか 「どれだけ体育会系なんだよ」と好き放題言っていた。 とはいえ、彼は言うだけあって型も綺麗だし、的中率も僕より高い。 服部「村井の射、やばいよな」 真一郎「ああ」 服部「俺やお前の射が的中(あ)たったところで人が死ぬとも思えんが、    あいつの喰らったら即死のような気がする」 真一郎「あれ何キロだっけ?」 服部「十九じゃないか?」 真一郎「十九!? マジか……」 僕らの矢は、少し緩い放物線を描くように飛び、”ターン”と的中の音を出す。村井の射だけは他の連中と異なり、放物線とは無縁でミサイルのような勢いで土に突撃し、的中の際は”バン!”と激しい轟音がする。 弓道場の帰り道、自転車をこぎながら、僕は透に未来への不安を話した。 「人間って、多くは苦しんで生きているよね」 僕は、自殺関係のニュースを思い浮かべて言った。 透「それでも死ぬ方が不安で、仕方なく生きてるけどな」 ――静かだ 真一郎「たとえばさ……遠い未来世界で、技術が発達して、     人は長い夢を見られるようになる。     その夢にはものすごい現実感があり、     ゲームクリアかゲームオーバーまで決して目が覚めることがない。     今の僕の人生が、そういう世界に住んでいる本物の僕の見ている、     ゲームとしての夢だったら?」 透「……それは考えたことがある」 透にはその続きの理論があった。 透「仮にゲームであれば、ハイスコアを目指して生きていかなきゃいけない。   もし夢でなくて現実なら、お前、   ゲームと違って現実はコンティニューボタンないんだから。   やっぱり生きてた方が良い」 真一郎「でも、もし仮にゲームの夢だとするとさ」 続きを言うのは少しためらわれた。 真一郎「そうだとすると、こんな辛い人生苦労しなくても、なんか、     死んじゃってもいいやって」 透「ま、そうじゃないかもしれないから、   やっぱり怖くて生きていくことになるよな?」 真一郎「……ああ」 そうなんだ。透はわかっているんだ。どのみち僕は死ぬのも怖くて何もできないってことを。 土曜日 午前中は高校の学習室で自習をして、午後は部活の自主練習に行くことになっている。果てしない量の数学の「写経」にうんざりしていると、隣の席にいた透が合図した。そろそろお昼だ。 冷房の効いた自習室から外へ出ると、少し暑い。昼ご飯を近くのコンビニで買おうと、透と二人で歩いて行った。平日はお弁当であることが多いが、土曜日は多少のピクニック気分をこめて、買い食いをするのが習慣になっていた。僕らはなんとなく、広告につられてスイーツも買った。大手のメーカーが開発するだけあって、薄い黄色の生地に、絶妙な加減でのぞく生クリームの白さと、トッピングされたチョコレートないしフルーツの色彩は、見かけだけでもおいしそうだった。透はフルーツ味を、僕はチョコレート味を選んだ。 店を出るなり、早速開封して、食べ歩きを始めたら、入れ違いで女子たちが入店するところだった。彼女らは僕らのクレープを確かに見ながら 「ここのクレープまずいよね」と言ってすれ違った。 「ぶっ」と苦笑いをした透は 「あいつら、人が食ってるもん見ながらそれ言うか? ええ? 言うか?」と僕を見た。 何だかわからないけれどおかしくなってしまって、僕も大笑いした。 「いや、普通言わねーよ。失礼だよ!」と僕も言って、二人で一通り笑った。 真一郎「……まあでも、俺はこの味好きだよ」 透「うん。僕のも良い味だ。ダメなんかな? キミ少し交換する?」 言われるが早いか、僕は自分の分を少しちぎって、透の分と交換した。 真一郎「うん、俺はやっぱりチョコレートの方で正解だったな」 透「そうか……ちょっと甘すぎるから、僕はこっちで良かったな」 真一郎「甘い物食べると、のどが渇くね」 僕はジャスミンティーを、透は紅茶をそれぞれ飲んだ。 透「それって何か生物学的な理由はあるのか?」 真一郎「冗談かほんとか知らないけど、須永先生は     『浸透圧が高くなるから』って言ってた」 透「へぇー。なるほど、そんな理由があるのか」 真夜中 時々、夜が怖い。眠りにつけないし、宇宙に圧迫されるような気がして仕方ない。ヒト以外の生命は本能的に死を恐れて、ひたすら食べて、寝て、性交して、走って、獲物を捕り、あるいは狩られ死んでいく。「無駄」と言う言葉の意味も知らないまま、世代を変えて生きていく。 人間は死を認識できて、自分がいつか死ぬことを知って生きていく。すると死の恐怖や生の苦痛と向き合うことになる。しかも、こんな辛い思いをしているのに、自分の子孫はいつか絶えるのか? ヒトという種はいなくなるのか? そもそも全ての生命を抱える地球が太陽に飲まれて消滅するなんて、許せるだろうか? 宇宙の外にまで逃げても、いつか宇宙が収縮して無に帰るか、薄っぺらくなって存在しなくなるなんて、悔しくて仕方ない。 ――宇宙は結局収縮しないと言う話だけれど、 地球上のいろいろな生物の映像が頭をよぎる。 野生動物や世界遺産をテーマにしたドキュメンタリー動画の一コマ、 ケルンの大聖堂も、ガウディのサグラダファミリアも、 ダリや、マグリットや、クリムトの絵画も、 デジタル化された音楽も、ハンドメイドの青銅の彫刻も、 自然によって造られたカッパドキアの断崖絶壁も、アルバータ州の化石も、 数億年前から存在する琥珀も、大地の圧力で力強く押し固められたダイヤモンドも、 全てが消滅していって、自分の存在していた痕跡がどこにもなくなって、 ――この苦しい生は何のために? そのうち人は寿命を、死を克服し、物理学法則さえ克服できたとして、それは何のために? 人生の意味を考える。自然科学が解明してくれると信じる。自然科学の基礎は数学によりもたらされる。しかし、しかしだ、デカルトの「我思う故にわれあり」という、すべての自然科学の土台は言葉というツールを無条件に信じている。『我思う』と言うのは、数学的帰納法でn=1のときに与式が成り立つという土台を、何も考えずに全面的に信じてしまったことではないのか! 真実は何もなく、人間はどこにも到着しない。 我々は無から来て、我々は無意味で、我々はどこへも行けない……僕らは一体、なに? 同じ土曜日  私は圭織と、コーヒーのチェーン店に入った。 圭織「あゆみっち、新しいメニュー出てるじゃん!」 亜弓「ほんとだ……ふうん。おいしそうだね。」 対応をしてくれた店員さんは、耳に障害を持っているらしかった。ネームプレートとともに「聴こえないので、メニューを指で示してください」と書いてあった。 私は「その新しいラテを、通常サイズで」とお願いし、お会計を済ませる瞬間、『おいしいコーヒーを準備してくれてありがとう』というお礼の言葉をどうやって伝えようという考えが頭をよぎった。 ――花火が着火するように、身体に刻み込まれた動きが蘇った。 ――アリガトウ(左手の手の甲に、右手を添えて、右手を真上に持ち上げた) 店員さんは私の言いたいことが伝わったのか、照れくさそうに、かつとても嬉しそうに、同じ動作をした。 コーヒーが出される列に並びながら、圭織が質問してきた。 圭織「あゆみっち、さっきのって手話?」 亜弓「うん。ありがとう、だけ思い出した」 圭織「クールぅ! 偉いね! あゆみっち、いつもお店でお礼言うよね」 亜弓「私は金銭のやり取りで取引が終わりとは思ってないからね。    対価として金銭のやり取りがあっただけで、    相手への敬意を忘れたくないの」 圭織「ところで、手話いつ勉強してたの?」 亜弓「中学生の時、クラブに所属してたんだ」 ――アタシが手話クラブに入った時、真一郎は二年目だってのに、   うまく自己紹介さえできずにいた。   かわいそうに、何をやってもお前はアタシに勝てない。   何か一つでも勝てるものがあれば、お前だって勝てるのに、   とうとう何一つ勝てなかったね。   だからお前は勝てなかったんだよ、真一郎。
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