三 カスケード/Cascade

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三 カスケード/Cascade

教室にて放課後 演習問題の大量に印刷されたプリントを目の前に、僕は頭をかいていた。透は僕を前にして、当の僕以上に弱った感じだった。 真一郎「なに、この嫌らしい式は? 置換するの? コサインx?」 透「お前なぁぁ、どう見たって部分積分でしょうがぁぁ」 真一郎「そうなの? こっちを……微分して……」 誇ることではないが、数学の課題をため込んでしまって、提出ギリギリになって、僕は透に教えを乞うている。透は苦笑いしながら、さっきからずっと家庭教師をしてくれている。 透「そう、もういいから次の問題にやれ。後で、一人でやれ」 僕がアドバイス通りに途中まで式を書いたら、透はそこから先はもう、僕でも解けると判断したのか、次の問題を指さした。 真一郎「りょうかーい。これは? 置換?」 透「じゃねぇよ! logの解法あるだろうが!?」 透は式変形をすらすらと書いた。 真一郎「すげぇ、頭良い。……これを最初に思いついた奴が」 透「……今ちょっとムカついた。最初に考えた奴?   ……ニュートンかライプニッツじゃねぇ?」 真一郎「ああ、確かに頭よさそうだなー、あいつら」 僕と透が漫才みたいな会話をしていたら、僕らの左隣からも救助を求める声が聞こえた。 「おーい、透君、こっちも教えてー」葉山も補講演習の被害者だ。 「あぁ、どれどれ」と透は葉山の手元を覗き込んだ。少し目を通すと彼は 「……それ諦めろ。お前ができたら不自然だ」と切り捨てた。 「ひでぇ」 ――数学の先生が、数学なんて役に立たないと言った。それでも数学を勉強するのは論理的思考力を養うためで、それが社会に出てからとても役に立つからだと言った。 ――半分は真実かもしれない。しかし、半分は建前だと思う。これは階級を維持するためのシステムだ。僕らは親の階級のために、しかるべき教育を受けられた。試験が人間を階級ごとに振り分け、引き続き試験のできる子孫を再生産できるようにするシステムだ。スタート地点で人間をふるいにかける、よくできた制度……僕はこのレールの上から落ちるのが怖い? 僕の恐怖の本質はそこ? 透「で? 次のやれた?」 真一郎「あ、いや、できてるよ、次ね、次」 仮に僕の恐怖の本質が、レールから外れること、置いてけぼりにされることだとして、無事に志望する大学に入れたとして、無事に志望する会社に入社できたとして、無事に好きな人と結婚できたとして、子供ができたとして、 ――それでもなお本質的な恐怖は消えない気がする。 ――せっかく先人にありがたい制度を作ってもらったのに。わけのわからないことを恐れてこの人生に感謝しないとは ……僕は自分自身に呆れるし、あらゆるモノに申し訳なくなる。 連休。部活も休みで、友人たちとカラオケに行った。 「学生五人で、ドリンクバー付きでお願いします」と、要領よく透が店員さんに伝える。 ――お、いつもの部屋だ。と思い、それを口にすると、村井が 「なんだ、お前ら、いつもって言うほど来てるの?」と疑問の声を上げた。 僕らは説教されてはかなわないので、とっさにごまかした。 真一郎「いやぁ、人並だよ?」 人並みの定義はあいまいだ。 吉川「あ、俺やっぱりカップに交換してもらってくるわ。    冷房、強くしたいし」 吉川は逃げた。 村井「よし、透、まずお前から歌え。とりあえずお前の義務だ」 透「え、ちょっと……俺は選択肢とかないのか?」 無茶ぶりをされてはいるが、それはそれで透も楽しそうだった。さりげなく僕も予約を入れ、自分の番を待った。一周した時点で時計を見た。まだ時間はたくさんある。自分の内に「楽しみだ」という前向きな気持ちを感じられた。僕の番が回ってきて、洋楽を歌った。友人たちの反応は微妙だった。 僕のレパートリーは洋楽がほとんどだから、知名度の低い曲ばかりになる。透があまりにも自然にフォローしてくれた。 透「これさぁ、どっかで聞いた気がするんだよね」 真一郎「知らない? 車の宣伝だよ。ほら、」 透「ああ、あの、秋の山道を……車が走ってるとこを   ……上から撮影してるやつ?」 真一郎「そうそう」 僕はその調子で二曲目を歌いきったが、以降の興奮は冷めてしまったらしい。二曲目までは、僕は普通の人と同じように歌って楽しんでいただろう。でも、やはりそこまでだ。 みんなはまだまだ盛り上がっているというのに。 「あれ、あれは? ほら二人で歌おうぜ?」 僕はここから義務感で生きる人間に戻る。僕は再度、こっそりと時計に目をやった。十五時三十二分。 ――フリータイムだから十九時に退室か。……長いな。 機械的に次の曲を選んで入力する。透はすぐに次の曲を入れた。三曲目を歌い終わった。 ――今、何曲歌った? 砂時計の砂が落ちてゆくのを感じた。死ぬのは先のいつかであって今ではない。なのにこの落ち着かなさは何だろう。自分が今なすべきことが分からない。僕にとって数少ない娯楽の一つなのに。 村井「はい。どぞー……。あれ? 曲入ってねぇじゃん」 真一郎「あ、ごめん、ちょっと決まらなくて     ……なんだったら飛ばしておいてくれる?」 透「いや、いい、トイレ行ってくる。ゆっくり決めといてくれ」 透が背中を向けて席を立った。あわてて僕は曲目を探した。他の連中も特に急ぐというわけでもなく、飲み物を取りにいったり試聴を始めたりしていた。 『人は歌を歌うときは何も考えずに歌う』とヘッセは書いていた。なんで僕は考えながら歌っているのだろう。 小学校2年生の頃だった。恐竜の博物館に訪れて、パンフレットを持ち帰った。パンフレットには微塵の悪意もなかったのだろうが、とても恐ろしいことが書かれていた。 “何万年と言ってもみなさんには実感がわかないと思います。それは時間に換算すれば、分に換算すれば、秒に換算すれば、この大きさがわかると思います” 僕の死ぬまでの時間がカウントを始めた。人生は無限にあるように見えて、一回だけしか回らない砂時計なのだ。この時から僕の砂時計は落ち始めた。 翌日の部活にて僕は的前(まとまえ)に立っていた。弓を完全に引き伸ばした「会(かい)」の姿勢を美しく保とうとしていた。 ――あと少し、もう少し狙いを左に。 左手を強引に押していたら、射形が崩れていたのだろうか。矢は情けなく地面を擦って、跳ねてから土に刺さった。 ――やっぱり余計なこと考えちゃ駄目だな。 矢狩り(やがり)――矢を取りに行こうとして透と一緒になった。彼が弓手(ゆんで)、すなわち左手の親指の根元に絆創膏を貼っているのを見て、僕は心配の声をかけた。 「お、擦っちゃったの?」 「ああ、最近結構やっちゃうんだよ」 透は平気な顔をしているが、あれは相当痛いはずだ。筈の位置が適切でなかったり、弓手が不自然な動きをしたりすると、左手の親指の付け根を矢が擦って怪我をする。透はちらっと僕が狙っていた的を見ると、 「あれ、新しい矢じゃなかったか?」と言った。矢の羽根が地面をずって、傷んでしまったのを見られた。 「今、ちょうどやったところだよ」 無理して当てに行くからダメなんだとか、会を長くしろとかお互いにわかったようなアドバイスを出した後で、僕は白状した。 「英語の試験の前にさ、『無理して頭働かせて長文なんか読もうという気になれない』って言ったじゃん」 「……ああ、言ってたわ。」 「同じなんだよな……なんか、今もあと少し無理しようと思えなかった。あと何セット射るか、そんなことが頭の片隅にあった。集中できてないんだ」 ――そもそも、何セット射るなんて武道の概念じゃない。 ――それでも、僕が人生でこの矢を射る回数は限られているし、   残りの回数が気になってしまう。 透は腕を組んで、壁に寄りかかり 「集中できなくなったら負けだろうが」と応えた。 真一郎「こんなこと言うのは恥ずかしいんだけど、     熱さが足りてないなって思う」 透「なんだ、それ?」 真一郎「何か、何とかして情熱をもてる事に恵まれてない」 透「ドラマの主人公になったつもりか?」 真一郎「……ドラマか。いや、ドラマの主人公だとしてもダメなんだ」 僕には、そう、ドラマの題材が何であれ、僕にはむなしい。 真一郎「例えばドラマって、誰かの敵討ちをするものがある」 透「んん? うん?」 真一郎「でも、あれって結局は遺されたヒトが     自分らのためにやることだよな」 透「かたき討ちをするのは遺された人間だけど、   『ために』って部分は、死んだ奴のためにだろう?   死んでも社会に覚えていてもらえる限り、関係し続ける、   熱い展開じゃんか」 真一郎「死んだ人間にはそんなことは関係ないさ。     死んでしまえばどうでもいいはずだ。     ただ、悲しみをぶつける相手がいるから、丁度いい、     怒りをぶつけてやろうってことじゃないか」 高尚な生きる意味なんてない。単純な感情そのまま。化学反応みたいだ。 透「というかな、いきなり敵討ちとか言うなよ。普通は、   例えば恋をするドラマとかだろ?」 真一郎「それこそ生物の本能じゃないか。別に感動も何も無いよ」 透「うわー、出たよー生物選択者。なんでもかんでもDNAのせいにする」 真一郎「生殖の欲求に結びついて全て話は終わり」 透「そりゃ、フロイトの説か?」 真一郎「そんなのあったっけ?」 透「フロイトに言わせると全ては生殖欲求に帰結するらしいぞ?」 そうなのか。ああ、ありとあらゆる事象が、できそこないの神様のスケジュール通りだなんて、くだらない。本当に何もかも冷めている。醒めている。つまらない。 こんな不完全な世界を……僕は愛したくない。
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