四 クムリナ/Cumulina

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四 クムリナ/Cumulina

矢狩りに行く途中、後ろから小走りに追いかけてくる音が聞こえた。振り返ると、伊澄ちゃんが追いついてきた。 「先輩、先輩」 いつもの明るい笑顔で伊澄ちゃんは声をかけてきた。小柄だが、中身の元気さは僕より何倍も大きい。 伊澄「先輩は洋楽聴くんですか?」 真一郎「うん。誰かそう言ってた?」 伊澄「服部さんがそう言ってるのを聞きました。私も洋楽聴くんですよ!」 真一郎「へえ。何聴くの?」 伊澄ちゃんの挙げたバンドは、僕も知っているグループだった。ただ、名前を知っているだけで曲を聴いたことはなかった。 真一郎「そうなんだ……僕はもっとマイナーなの聴くんだよ。     でもまあ、お勧めなら今度聴いてみるよ」 伊澄「あ、はい。とてもいいですよ! ……」 一瞬の沈黙 ――おっと、空気を読まずに「ショップで借りる」とか言わなくて良かった。 真一郎「じゃあさ。……伊澄ちゃんの勧めはあるの? ベスト版?     それとも『これ』っていう一枚ある?」 伊澄「はい! あの、明日持ってきますね!」 ――伊澄ちゃんはどのくらい人生を楽しんでいるのだろう。 矢を回収すると、一本一本を丁寧にふき、最後に自分の矢を眺めた。羽根はこの前の射のせいで、ひどく傷んでいる。 新たに的前に立って、僕は今度こそ無心で射ようと心に決めた。第三から何も考えないように引き分ける。 ――芝生、的、矢じり。 何も考えないようにすると目に映るものが単語として頭の中に反響する。 ――指の先、的 思考を止める限界を感じた。 身体の動きが意志に反して速くなった。何も考えないのと心を無にするのは違う。何も注意しなかったため、僕の射は極めて雑な、早懸(はやけ)になった。残心の後、しばらくして親指が痛いと思って目をやると、親指の付け根が赤く擦れていた。 「……痛(て)っ」 控室に戻って絆創膏を探したが、あいにく切らしていた。 「こんな時に限って……あ、イタあぁ」 だんだんヒリヒリするのがひどくなってきた。どうしたものかと思っていたら、タイミング良く透が入ってきた。 「よう、ここにいたか。一年の指導、交代頼むわ」 痛みを紛らわすために、僕は左手を振りながら返事をした。 真一郎「ん、わかった。……ところであのさぁ、バンソーコー余ってない?」 透「なんだ? お前も擦ったのか。……ほら」 透はカバンから新品の絆創膏を一枚取り、僕に渡してくれた。 真一郎「ありがと、じゃ、行ってくる」 透「おう」 上條透は帰宅途中、電車のシートに腰掛けると、スマホでマンガを読み始めた―― 僕は多くのマンガを斜め読みする。別に読みたい作品があるわけじゃない。印象的なコマをいくつか覚え、いくつかの台詞を記憶にとどめ、五分程度で雑誌や単行本を読み終えてしまう。単に同級生との話題に困らないようにするための工夫だ。効率的に人生をこなすため。誰も困らない僕なりの読み方。推理小説は結末を読んでから読めば安心して素早く読み終えることができる。その分、一冊でも多くの推理小説を読めるなら、時間の有効活用だろう? 映画は倍速で再生するし、音楽はサビの部分だけを聴く。気難しい評論家は僕のような態度は気に入らないだろう。だがしかし、はたして、「作品の方こそ」エッセンシャルな部分を抜き取っても、隅から隅まで楽しめる形で、僕の前に現れたことがあったろうか? 無いとも――無いから、僕の楽しみ方はこうなのさ。 ――人の時間を奪って、何の感動も与えない作品は、特に悪い。  先日、真一郎達と五人でカラオケに行った。いきなり真一郎が墓穴を掘った。 村井「なんだ、お前ら、いつもって言うほど来てるの?」 真一郎「いやぁ、人並だよ?」 適当だが妥当な切り返しだ。よくやったぞ、真一郎。 吉川はどさくさに紛れて、カップを交換するとか言い出して逃げた。カラオケボックス特有の移動しにくい席とテーブルの隙間を素早く移動し、あっという間にドアの外へ出て行った。 村井「よし、透、まずお前から歌え。とりあえずお前の義務だ」 透「え、ちょっと……俺は選択肢とかないのか?」 僕は苦笑いしながら、いじられ役を引き受ける。適当に最近の流行曲を入力して自分の番を待った。直前、真一郎の番、予想通り空気の読めていない、洋楽をぶち込んできた。 ――せめて教科書に載ってるくらいの知名度の曲にしろ! だが、僕の頭の中のデータベースは確かにこの曲を知っていた。だてに全ての広告と映画のBGMをチェックしているわけではない。真一郎の歌った曲は、ある大手メーカーが、自動車の宣伝に用いた曲だ。広告には元の曲ではなく、最近の別アーティストによってカバーされたバージョンが使われている。曲はもうすぐ終わるが、はたして真一郎は何か説明を加えるだろうか? いや、どうやら歌い終わってそのまま着席する様子だ。 ――何か言え! 空気が微妙になるだろうが! 人間の思考速度は時として異常な速さを見せるものだ。僕は、真一郎が歌い終わるまで、1秒か2秒の間に以上のことを考え、フォローの台詞を思いついた。 「これさぁ、どっかで聞いた気がするんだよね」 ――さすがに何か言えるはずだ! 何か言え! 別に困るのは僕ではなく、空気を読めない真一郎だ。まさか他人事でここまで緊迫感ある数瞬を過ごさなくてはならないとは。僕の祈りが通じたか、ようやく真一郎は返事をした。 「知らない? 車の宣伝だよ。ほら、」 ――去年の秋の宣伝を覚えてるやつが他にいるわけないだろう! ――突っ込みに持って行った方がおいしいか?   それとも無難に話を続けてやるか?   せっかくフォローしてやったんだから無難な返しをするか? 次の言葉までの……数秒が長い。 透「ああ、あの、秋の山道を……車が走ってるとこを   ……上から撮影してるやつ?」 真一郎「そうそう」 ふむ。これで「それっぽい」空気にはなった。こいつはたぶん、気にすることなく洋楽を続けてくるだろう。隙を見て真一郎の番に割り込み、僕も歌える洋楽を入れることにするか。 透「あれ、あれは? ほら二人で歌おうぜ?」 本当のことを言うと、その曲は知名度が高いものの、僕には困難な曲だった。僕は絶対音感を持っているから、自分の声が原曲からどれほどずれているかわかるし、聞き苦しい。 ――これ以上高い音が出せない!? ああ、本来の音と違う、真一郎も違う! それでも、声を振り絞って歌いきってやった。今日も良いことをした。 帰宅し、夕食の少し前だった。味付けのために、母が僕を台所へ呼んだ。 「良かったわ。透の好きな料理がイタリアンで。  私のレパートリー、そんなに無いもの」 母が料理を作りながら嬉しそうに言う。一瞬、僕は後ろめたさを覚えた。 ――本当は僕に好きな食べ物なんてないんだ。 でも、人生の優等生である僕は、母の得意そうな料理を好きだという。母は僕が、外食やお惣菜では好き嫌いを言うのに、手作りの夕食や、お弁当では必ず残さず美味しそうに食べることを心から喜んでくれる。それは僕にとっては当然だ。外食でもお惣菜でも作り手の顔が見えない。僕の食べる様子が得点化してもらえない。でも、母の場合は違う。僕の食べる様子を見て、僕たちの相性に得点を付ける。本人はそこまで意識していないかもしれないけれど、僕が笑顔でいれば明らかに幸せを感じるだろう。笑顔くらいは期待するはずだ。そう、僕はいつも周囲の人間の期待に応えて人格を形成してきた。別にそれで周囲の人間が幸せなら構わないじゃないか。僕には何もない。空っぽなのだから。それなら、周囲の人間が気分良くなれるなら、しかるべき振る舞いをするのが最大多数の最大幸福だろう?  ――そう、人のために生きているんだ。   生きたいから生きているのではなくて。 自分の人生ってものがある人間はすごいと思う。僕には少しも想像できない。彼らに対しては尊敬する気持ちが半分で、どこかで図々しいとも感じているかもしれない。 ――面倒くさい、早く終わらせたい。生きていたってなにもない。 ――死にたいというよりは生きていたくない。   つまらないし、やりたいこともない。 ――そうは言っても、社会的通念は死をひきとめる。 だから、僕は一刻も早く大学に入り、就職し、結婚して、子どもを作って、いろいろな人が満足してくれたら、さっさとクリアしてしまいたい。だって、こんなにも疲れているのだもの。 一昨日、真一郎が「人生が、ゲームの夢だったら?」って聞いてきた。それは良い。僕らくらいの歳なら、境遇なら、考えそうなことだ。しかしリセットボタンを押すのとゲームクリアは違う。ゲームオーバーとゲームクリアも違う。 透「ま、そうじゃないかもしれないから、   やっぱり怖くて生きていくことになるよな?」 真一郎「……ああ」 透「ところで、次に自明な質問が発生するわけだが   ……そのバーチャルゲームをやってる俺達は、   何が楽しくてこんなゲームを始めようと思ったのかね?   脳だけが生きていて、身体の感覚を知りたいとでも思ったのかな?」 あいつはゲームやらないからかな? その辺の感覚がないのか。いや、あいつもRPGをやるはずだ。ただ、「すべてのゲームは双六を複雑にしただけのものに見える」と言っていた。 真一郎「なんでキャラクター約200の名前と、属性と、特技を覚えられて、     英語の構文を同じように覚えられないかなー?     そうしたら、俺だってもっとつよつよな成績になるはずなんだが?」 透「俺だって思うわ!!   ……しかし、キミがその手のゲームするのは意外だな」 真一郎「俺、素早い入力とかできないし、タイミング判断もできないから、     RPGとかシミュレーションゲームばっかになるんだよね」 透「俺はRPGの楽しさがよくわかんないんだよな。   だって、やることわかんなくね?   画面の右行けばいいのか、左行けばいいのか、   アイテムをいつ使えばいいとか」 真一郎「うーん。攻略情報を集めてさ。     どうやったら効率よく最高得点になるか、     最短クリアできるかが面白いんだよね。     ただ、突き詰めるとすべての数値が無機質な数値になって、     ひたすら双六をやってるような気分になるけどね。     ライフをゴールと考えて、ダメージがサイコロの目だと思ってさ」 僕にはそんな退屈で無意味なものの何が面白いのかよくわからない。RPGはつまるところ、ストーリーがわかればよいので、攻略情報を集めたり、ネタバレを見たりしたら、そこでゲームとしての価値は終了だと思うのだが。
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