七 虹彩/Iris

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七 虹彩/Iris

弓道場にて―― 矢狩りのために看的所に入ると、伊澄ちゃんと一緒になった。看的所は小さいから、人が四人も入ろうものなら、ぎゅう詰めになる。狭い空間で無言でいるのも申し訳ないし、たまには僕の方から話しかけてみようと思った。伊澄ちゃんとのやり取りで、以前「フランス語を勉強している」と聞いた記憶があった。僕がヘッセやリルケが好きだから、ドイツ語の辞書を購入して、時々読んでいるという話をした覚えもある。 真一郎「フランス語は……響きが好きなの? それとも文学か何かの関係?」 僕が先に言葉を発することは少ないので、伊澄ちゃんは急なことに戸惑い、「あ」とか「え」とか慌てて口ごもった。 伊澄「あの、私ゴーギャンやルノワールの明るい色彩が好きなんです!」 真一郎「え!? 美術好きなんだ?」 伊澄「はい!    ……あ、でも印象派がどうとか、学術的なことは詳しくないですよ」 真一郎「そりゃ、僕も何とか派ってのは詳しくないよ。     シュールレアリスムだけは知ってるけど。     ダリとか、マグリットとか、エルンストとかね」 伊澄「あ、ダリはわかりますよぉ。    キリンが燃えてたり、時計がぐにゃぁとしたり、    身体から引き出しが出てるのですよね?    マグリットは……あの、パイプとか描いてますよね?」 真一郎「おお!? よく知ってるね     普段、美術館とか、行く?」 伊澄「うーん、好きだけど、そんなに行けてないです。    この辺には好きな美術館が少ないし、    行きたい美術館は東京が多いけど、    東京はやっぱり、少し遠いです」 真一郎「たしかに」 話を続けようと思ったのだが、誰かが入ってきたので口を閉じてしまった。入ってきたのは透だった。 矢狩りを終えて、矢取り道を戻りながら、透と絵画の話になった。透は伊澄ちゃんとの会話を少し聞いていたのかもしれない。 透「絵画ってさあ、布とか紙に油絵具がのっかってるだけだろ?」 真一郎「いや、それ言ったら数学の本とか、     紙の上にインクが乗ってるだけだし」 透「それは技術や知的財産に価値があるから大切にされるのであってだな」 真一郎「絵画に芸術性を見て、感動して、     大切にしたいと思う人もいるんだよ」 僕と透の話に興味を持ったのか、水沼が話しかけてきた。 水沼「萩原君のお父様は芸術家なの?」 真一郎「いや、そんなことないよ。ただの法律屋だよ」 なんだか急にダリの『記憶の固執』が眺めたくなった。 ――あの、無限遠と、とろける時計 そこから記憶はさらに昔へと遡った。 あれは中学校の時だった。クラスの問題児が、誰でも良かったのかもしれないが、描いてる途中の絵をみんなにさらすということをしてのけた。晒されたのは亜弓の絵だった。 亜弓「こら! 何するの!」 亜弓が、顔を真っ赤にして、そいつを怒鳴りつけた。しかしその絵は万人にさらされるべき絵であった。 ――これが天才というやつか それしか思いつかなかった。一瞬だけ、チラとしか見えなかったが、ヒエロニムス・ボスやダリを彷彿とさせる柔らかそうな球体、卵の殻から鳥が生まれる瞬間の絵だった。 ――あの鳥に名前があるとすれば、アプラクサス 谷川伊澄は鏡に向かって、朝の化粧をしている―― 第一に洗顔。続いて、ファンデーションを、さっとのせていく。小鼻に、目元から頬にかけて、ぽんぽんと軽くパフでのせる。色白の肌がうっすらと健康的なピンクに滲んでくると、叩く場所を移動する。その後、上側のまぶたに、チップで細いアイシャドゥを塗りながら「これだけ手先が器用なのだから、美しいイラストを描くことなど造作もない」と、中学生の時に描いた絵を思い出す。せっかくの二重瞼だから、見分けられるかどうかぎりぎりくらいの細いラインを描く。ブラシで三重のグラデーションをかけ、アイライナーを素早く塗ってゆく。下側のまぶたを塗り終わり、まつげにマスカラをつけ、コームでとかすと30分経っていた。私の髪の毛は少し、くせが強いから、コテでゆっくり、時間をかけてストレートにする。ようやくヘアセットを終えるとさらに20分が経った。『私』はできあがった。 昨日、萩原さんと絵の話になった。絵のことはよくわからない。わからないなりに、怖いと思っている絵がある。 一つ、ムンクの『叫び』だ。あの怯えた悲鳴の表情は、観ていてとても不安な気持ちになる。いったい何をそんなに恐れているの? 誰が目の前で死のうとしているの? 首を絞められているのは私……? 私の悲鳴を聴かないがためにその耳を塞いでいるの?  二つ、ピカソの『ゲルニカ』だ。あの絵を観ていると激しい恐怖が湧き起こる。どうしてこんなに苦しいの? どうしてそんなにたくさんの死者であふれているの? この誰彼かまわず、ひき殺してゆく怒りの塊は、何? ピカソは、ルノワールが煌めかせた世界を廃墟にしてしまった。どうしてそんなことをするの? どうしてあなたには世界が狂って視えているの? 違うの、あの人は世界が狂っていることに気付いていて、それを自分だけが知っているメッセージを残した。傲岸不遜にもほどがある。 三つ、ミレーの『死ときこり』だ。死神が見ているのは決して私ではなく、きこりなのに。どうして死神は私を見ていないの? その後ろ姿こそ、私に見せようとしているの? 次に連れて行くのは私ではない、けれどもいつでもお前を連れていけるのだ。どうしてきこりの顔を見せてくれないの? 苦悶の、表情? 視るものと見られるものの力関係を理解しているのに、あなたは私の方を見ていない――見る必要がない、この死神。これは見せしめだから、私が目にすることが重要なのだ。なんて、残虐な―― 四つ、クレーの『死と火』だ。この世の中でも最もドス黒い黒檀で、魂を刻み込んだような後悔の表情。泣いているの? いいえ、無表情なの、深い絶望の泉に感情をうっかり沈めてしまったから、もう顔が元に戻らないの。焼けつくような消滅の感覚。焼却される世界を歩んでいく、遠くの人。 五つ、ゴッホの耳を切り落とした自画像。いいえ、自画像に限らず、彼の世界はとても揺れていて、私という存在が揺らいでいく、私は立っていられない。全てが波となり、私は船酔いに、吐きそうになる。なぜ、これらの絵がこんな風に怖いのかはわからない。芸術って、そういうものなのかもしれない。ゴーギャンの、力強い絵を、ルノワールの、明るい絵を、セザンヌの、優しい絵を観て、安心したい。 水曜日の放課後、何やら透たちが一斉写経をしていた。 真一郎「早く部活行こうよ」 透「キミもやってくれ」 真一郎「どういうこと? なにこれ? 透ちゃん、補習なんか必要あるの?」 透「俺じゃねえよ!」 碓氷「お前らの主力が、月曜の期初考査で赤点確定したから、    今までの負債を頑張ってみんなで協力してるんだよ!」 碓氷は村井のクラスの数学係だ。よく見ると弓道部総出で、みんな違うプリントを写経している。 真一郎「へぇー。じゃあ、俺はベクトルやろうかな。     ……つーか、なんでこんなにたくさんあるの?     村井君、今までプリント提出したことないんじゃないの?」 碓氷「そのまさかだよ!」 透「よくこれだけため込んだな。あ、俺、次の」 碓氷から透に次のプリントが束で渡された。 碓氷「言っておくけどな。図書館では別動隊が頑張ってるぞ」 真一郎「え!? 俺、昼間見たかも?     なんだあ、あの人たちみんな、村井君の尻ぬぐいに頑張ってたのか」 他人事のように笑いながら、僕も写経に加わった。 真一郎「ところで、ご本人はどこで?」 透「あいつなあ」 透が苦笑いし、碓氷が机をバンバン叩いた。 碓氷「ご本人様はとっくに弓道場へ向かったよ!    碓氷ちゃん、よろしく!って」 真一郎「ば……バカじゃないの!」 思わず盛大に笑ってしまった。 碓氷「本当、あいつ、何考えてるんだよ……    でも、これだけの人間があいつのために写経してるんだから、    人望はあるよな」 真一郎「疑問なんだけどさあ。俺、だいぶ筆跡違うんだけど」 透「大丈夫だろ。20種類の筆跡があるんだから、先生にはばれてるだろ」 真一郎「待って、面白すぎて、笑い止まらないんだけど?     何? 誰も筆跡真似しようとしてないの?」 透「昼間、一度、碓氷君が先行部隊を持ってった時は、   高木さん、苦笑いしてたらしいぜ」 碓氷「どう考えてもわかるだろ。俺は冷や汗だったぞ。    どうだ、面白いだろう」 碓氷の顔は笑っていない。 真一郎「これは数学のために、じゃなくて、人望のための単位だね」 透「高木さんが帰っちゃう前までが勝負だからな。急げよ」 真一郎「透ちゃん、これ、模範解答の字がわかんないんだけど?」 透「ええと……ああ、シータだ。6じゃない」 真一郎「おお、どうりで」 碓氷「もう、正しくても間違っててもいいからとにかく書いてくれ!」 市川「はい、終わった」 碓氷「ほら、まだいくらでもあるぞ!」 碓氷が市川にプリントを渡した。 真一郎「これ、今日中には終わらないんじゃない?     19時まで高木さんいるとして……」 碓氷「いいからやれるだけやってくれ!」 なんだかんだで18時を少し過ぎたころ、全てのプリントが処理された。碓氷は勢いよく職員室へ向かっていった。 真一郎「もうこれ、今日は部活行く時間じゃないね」 透「ああ。帰る」 真一郎「じゃあ、俺もこのまま帰るよ」 金曜日、僕は今日も診察室に来ていた。 先生「これから話すことはね。同窓生としてのコメントなんだがね    ……人間の尊厳は無条件に与えられるものではないよ。    生物の一種でしかない、化学物質の集合体でしかない人間が、    なぜ尊厳を持つのか考えるところから、尊厳ははじまる」 真一郎「僕は尊厳というものが、本当にあるのか半信半疑なんです。     先生の仰るように、化学物質の集合体じゃないですか?」 先生「僕の場合も哲学者たちも、恐らく根本をたどれば    『無意味ということが耐えられなかった』のだろう。    生命が競争しながら生きていくことは、通常困難を伴うものだよ。    複雑な中枢神経系など持って、    かつ、脳まで背負ってしまった人間たちね。僕には喜ばしいことだが」 真一郎「先生にはありがたいことなんですか?」 先生「うん。『なんで?』というのも簡単には伝えられない。    僕が伝えられるのはどこまでもヒントで、    答えは人間が各自探さなくてはならないことだからだ」 先生は分かりやすく教えてくれた。 ゲーテは「赤は、赤く見えたものが赤だ」と人間を第一に持ってきた。彼が言うには、人間の手を離れ、数字にすれば、そのものの本質が失われる。物理学的に灰色に分類される煙が、人間の目には錯覚で紫に見えるとき、ニュートンの信奉者は「灰」だという。ゲーテは「紫」だという。 先生「価値観はね。究極のところ自分で作らなきゃいけないし、    尊厳は自分で与えなきゃ、誰も与えてくれないんだ」
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