八 擬態/Mimicry

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八 擬態/Mimicry

弓道場にて、真一郎は弓を前に座っている―― 弦の仕掛けがボロボロになってきたので、新しく取り替えることにした。伊澄ちゃんが見たいと言って、同席した。昔は不格好にねじれたりしたものだが、今はしっかり引き締まった巻き方ができるようになった。そのまま少し雑談した。 真一郎「なんで、僕のことを優しい人間だと思うの?」 伊澄ちゃんは時間をかけることなく、口早に答えた。 伊澄「公園との境目の、    あの道ってよく子ども連れの親御さんが通るじゃないですか」 真一郎「ああ、うん」 伊澄「他のみなさんがスピード落とさずにすり抜けて行ったのに、    先輩だけ速度落とすと、自転車を降りて、    子供たちを追い越すまで歩いて、    そのあとでまた自転車に乗りましたね」 真一郎「ああ、そういえば……」 伊澄ちゃんはてへっと笑った。 伊澄「優しいですよね。先輩」 ――その頃、怒られたことがあるから偶然じゃないかなあ? 伊澄「春の大会の時に、電車が込んでた……あの、いつのことかわかります」 次の話の内容はだいたい想像できた。 伊澄「初対面の人に席を譲るって、私はなかなか難しいと思いますよ」 真一郎「僕だっていつも譲るわけじゃないよ。     疲れてて座っていたい時もあるんだ。     ただ、あのときは元気だったからね」 土曜日、恒例の自習中―― 学習室で英語の自習をしていた。例文を書き終えた後、ふと、わら半紙の端に”Nobody has needed me since I was born.”(産まれてから誰にも必要とされなかった)と拙い一行詩を書いてみた。透がそのわら半紙に興味を持ったようで、手に取った。 透(小声)「筆記体か……」 透はそれを読むと深刻そうな顔をして、僕を学習室の外の、灰色の廊下へ呼び出した。 透「これは何かの引用か? それともキミの言葉か?」 真一郎「なんとなくだよ……」 透「こういうことをな。本心から言ったとしたら、   お前、一緒にいろいろ悩んであれこれ動き回った友人に対しての侮辱で、   今まで育ててくれた親に対して、冒涜だよ?」 真一郎「大丈夫だよ。ちょっと中二っぽく、     キザなことを書きたかっただけだよ」 透「ふむ。……なら、良し。キミは周囲にいろんな人間がいて、   支えられて、今があるんだから、債務不履行は無しだぜ?」 透はわざとらしくニヤっと笑った。 透:“I’m always on your side.”(俺はいつだってキミの仲間だ) 透は真顔でこういうことを平然と言えるのがずるい。 ――大事に考えてくれてありがとう。 ――そして、キミだけがわかれば良いことだけれど。 ――感謝してくれるかい? 透「話は飛ぶんだが、期初考査の英語、面白いことがあったらしいぞ?   神崎君の話聞いたか?」 真一郎「いや?」 透「あいつ、英語の試験で、日本語に訳せってのを古文で解答したらしい。   英語の先生が困って古文の研究室に質問に行ってたってよ   『これはこういう意味でよいのか?』って」 真一郎「やるなあ。そういう遊び心を持っていたいね」 透「採点する側も、よく点数付けようと思ったな」 真一郎「今度から、問題用紙には『平易な日本語にせよ』     って注意書きが書かれるね」 透「人生も、波のない、平易なものであれば幸せだろうに」 透が何となく寂しそうに窓の外を見た。 真一郎「どうだろう。波がある方が幸せかも。     葉山君たち、めっちゃおもしろいじゃん?」 透「あれは特殊だと思う……」 昨日、葉山たちが漫才をしていたのを思い出した。 まず、ベイビィフェイス(童顔)というあだ名の英語教師がいる。彼は年齢が全く分からない若作りで、心を落ち着かせるような音域の、独特の声をしている。日頃、穏やかそうなベイビィフェイスが、僕らの担任のシャインと、職員室でド付き合いをしていたら面白いということで勝手に劇を始めたのだ。 葉山「こうやって、ベイビィフェイスが研究室入ってくるだろ、で、こう、    シャインにテキストをたたきつける!」 野村(シャインの声真似)「やめなさい、私はシャインですよ!」 葉山(ベイビィフェイスの声真似)「クソが! 3組はダルいんだよ! 代われよ!」 野村(シャインの声真似)「やめ、やめなさい!」 近くにいた連中は「ベイビィフェイスがそんなこと言うはずない」というのと『シャインですよ』という意味不明な抗議のために、大笑いしていた。 透「よく、『シャインですよ』なんて意味不明な言葉思いつくよな!」 真一郎「あの人たち、お笑い芸人の路線で生きていったらいいと思う」 上條透は、ふと、真一郎との初対面を思い出す―― 親友にさえ仮面をかぶって生きる僕。でも、彼らもそのくらいわきまえている。友人間で被る仮面、他人に対しかぶる仮面、先生に、近所の人に、親戚に対してかぶる仮面。僕らは仮面の下の素顔なんて自分自身でも忘れているのかもしれない。時に、毒気のある言葉をあえて考え出す。毒は(繊細な)自分自身をも傷つけるが、場合によっては、適切な役割を演じるために、本当は使えないような乱暴な言葉も使う必要がある。なお、僕が最も日常多くかぶっている仮面は『優等生』という名前で呼ばれている。無意識のうちに、最もかぶりやすい仮面。その表情は基本的に笑顔だ。自分自身をすらだますために。  僕は結構、人との初対面のシーンを覚えている。あれは弓道部に入ったばかりの時だった。まだみんな本物の弓はさわれずに、ゴム弓で筋力を鍛えていた。当然、様々な雑談も交えられた。僕はいつも通りに例の笑顔の仮面をかぶっていたのに、わざわざ空気を読まずに指摘した奴がいた。 真一郎「どうかしましたか?」 透「……? いや、何も。なぜ?」 真一郎「いや、なぜ笑顔なんです? 何か面白いことでも?」 あいつは初対面の僕の心に、初めて土足で踏み込んできた。少しほかの連中と距離も離れていたし、二人だけの空気だったので、僕は仮面を外した。 透「なぜって、自分を『楽しい』ってだまさなきゃ、   生きててつらいじゃないか」 真一郎「笑うと、楽しくなりますか?」 透「つまらないさ。萩原君は楽しいのか?」 真一郎「いや、確かに……上條君、仲良くなれそうだね」 こうして僕らはいつの間にか親友になった。同じ時間に帰路につき、休日は学習室の、互いに隣の席で勉強し、弁当は一緒に食べた。真一郎は数学が苦手だったから、僕が面倒を見てやった。僕の方では彼が即興で面白い言い回しをするので、お題を出した(彼はいくつかの詩のコンテストで、入賞だの佳作だのを獲っていた)。落ちているガラスの破片を見たとき、「どう表現する?」と聞いたら、真一郎は「空のカケラが落ちてきた」と応えた。好きな花があるか聞いたら紫陽花とか、藤とか、桜とか答えた後で「でも、外国の詩人で藤を色つきの雨にたとえた人がいたんだけど、素敵だなと思った」と付け足した。 土曜日 自習中に、わら半紙が不足したから真一郎の手元の予備を失敬しようとした。白紙の上に、1枚びっしり書かれたやつがあったので、興味を惹かれて手に取った。 ――筆記体か。真一郎らしいな 端っこに内容の物騒なことが書いてあった。僕はしぐさで、真一郎を学習室の外へ呼び出した。 あいつは気まずそうに弁解した。 真一郎「大丈夫だよ。ちょっと中二っぽく、     キザなことを書きたかっただけだよ」 透「ふむ。……なら、良し。」 ――良し。か ――なるほど確かに。 ――キミが先回りしてくれたことに対して。   僕は心の中で感謝しておくこととするよ。   ボクの言いたい台詞を代弁してくれたことは ――これで、僕は僕自身に𠮟責せざるを得ない それにしても、キミは平然とこういうのを書けるから、ズルい。 どうせ学習室の外に出たからティー・ブレイクにした。 透「話が戻っちゃうが、もし仮にだ。   俺たち二人のどちらか、絶望にまみれて、   もう嫌だという気持ちになった時には、だ。   こんな風に、絶望の前にティー・ブレイクを挟んで、   今一度、自分たちを見つめ直すことにしようか」 真一郎「うん。もちろん」 透「なんか面白いこと言えよ」 真一郎「いや、俺、自販機じゃないからそんな簡単には」(苦笑) 透「よし! 今の表現良かったぞ。それで許してやろう」 真一郎「マジか。ありがとう」
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