第1話

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第1話

「こんばんは、おじゃまします」  静かに稽古場のドアが開けられ、女性が遠慮がちに顔をのぞかせた。  柔和な表情と、ややふっくらとした体つきがとてもよく合っている。  悩み事があったら、ついつい相談をしてしまいたくなる、そんな雰囲気の女性だ。  私が所属している社会人劇団サークルでは、週一回から二回の稽古を行っているが、公演も近いため、今日は臨時で稽古が行われていた。  私たちは通し稽古を終えて、円陣を組んで座り、お互いの演技プランのダメだしやアドバイスをしていた。  ドアの近くにいた劇団員が立ち上がろうとしたのを止めて、私は急いで立ち上がり、女性に駆け寄った。 「本当に来たんだ?」 「何それ? 嘘をつく必要なんてないでしょう?」  私の言葉に彼女は口もとを押さえて上品に笑う。 「おい、久我(くが)、お前の知り合いか?」  大きな声で怒鳴るように言ったのは同じ劇団員の一ツ木(ひとつぎ)くんだ。単に地声が大きい生粋の劇団員というだけなのだが、仕事場では、怒っているようだと評判が悪く、肩身の狭い思いをしているらしい。だから、気兼ねなく声を張れる稽古場ではことさらこえが大きい。 「突然おじゃましてしまってすみません、久我さんと仲良くさせていただいてる鍋島(なべしま)です」  女性―鍋島晃子(なべしまあきこ)さんは、初対面にもかかわらず、一ツ木くんの大声に臆することなく笑顔であいさつをした。 「久我さんからお稽古をしているときいて、差し入れをもってきたんですけど」  晃子さんがそう言うと、「よし、それじゃあ一旦休憩するか」と一ツ木くんが大きな(彼にとっては普通の)声で言うと、団員が一斉に立ち上がり、晃子さんを取り囲んだ。  私と晃子さんが知り合ったのは一年ほど前のことだ。  その頃の私は、まだプロの役者になることを諦めきれずにしがみついていた。そして、私の舞台を見たという新人監督に声を掛けられて『渦』という映画に主演した。  その映画に最後の望みを掛けていたが、完成した映画を見てプロの役者になることを諦める決心をした。  晃子さんは、その映画を見に来ていた観客の一人だった。私は、第三者の意見も聞いて見たくて、晃子さんに声を掛けたのだ。  意見を聞く相手に晃子さんを選んだのは、話しやすそうな雰囲気だったからだ。けれど、映画館に足を運んだ数日の間には、晃子さん以外にも話しやすそうな人はいた。その中で晃子さんを選んだのは、きっと惹かれていたからだと思う。  だから喫茶店で話をしたあと、晃子さんが夕食に誘ってくれたときはうれしかった。そして、夕食の後、ホテルに行ったのも自然な流れだったと思うし、後悔もしていない。  その日から私たちは、何度もデートをして肌を合わせている。 「久我の友だちか?それとも彼女か?」  そう聞いたのは、たっぷりと蓄えたヒゲがトレードマークの二階(にかい)さんだ。  二階さんの質問に迷いなく答えたのは晃子さんだった。 「私は久我さんのファンですよ」 「へえ、いいファン持ってよかったな」  二階さんはヒゲをさすりながら言った。 「久我さんから、お稽古のあとはお腹がペコペコだと聞いたので、飲み物と軽食を持ってきたんですけど、ご迷惑ではありませんでしたか?」  晃子さんの言葉に団員から歓声が上がる。団員たちのうれしそうな顔には微塵の嘘もない。  晃子さんが差し出した三つのビニール袋を団員が受け取り、エサに群がる猿のように差し入れを奪い取っていく。  晃子さんはそれを満足そうに眺めていた。そして、私に視線を移すと、「はい、楓子(ふうこ)は、特別ね」と言って、私の大好きなコロッケサンドをそっと手渡した。  私は晃子さんが好きだ。だけど、私たちは恋人ではない。まして、友だちでもない。一番近い言葉があるとすればセフレだ。だったらなぜ、晃子さんはサラリと私の喜ぶことをするのだろう。  晃子さんから来た『今日、食事でもしない?』という誘いに『芝居が近いから、急に稽古になっちゃった』と返事を打ったとき、セフレなら、そのまま無視をすればいい。どうして『それなら、差し入れに行こうかな』なんて返事を打つのだろう。そして、どうして本当に差し入れを持って現れるのだろう。どうして、私だけ特別扱いをしてくれるのだろう。  この一年、会うたびにどんどん晃子さんに惹かれていくのを感じた。同時に、晃子さんのことがよく分からなくなっていた。  差し入れを食べながらの休憩中、晃子さんは劇団員の質問攻めにあっていた。晃子さんは笑みを浮かべたままのらりくらりとかわしていく。中には、本気とも思える勢いで晃子さんを口説いている劇団員もいた。  晃子さんはモテる。小学生にモテるだけだと言っていたが、私はそんなことはないと思う。だからきっと、その気になれば、恋人くらいいくらでも作れるんじゃないかと思う。  稽古を終え、結局最後まで見学をしていた晃子さんと一緒に家路についた。  分かれ道に差し掛かり、晃子さんが足を止める。 「それじゃあ、またね」 「今日、泊っていかない?」 「んー、今日はやめておくわ」  少し考える素振りはしたが、きっと晃子さんの答えは決まっていたはずだ。  セフレならセフレらしく、体を求めてくれたら、いっそ割り切れるのに、晃子さんはそうしてくれない。 「私、晃子さんが好きだよ」 「ありがとう。どうしたの? 今日は甘えたいモード?」  いつもそうだ、私が好きだと伝えても、晃子さんは一度も好きだと言ってくれない。 「どうしても、泊っていかない?」  再度聞いた私に、晃子さんは少し背伸びをしてキスをした。唇が軽く触れるだけの私をなだめるようなキス。 「また、今度ね」  そうして私に背を向けて歩いて行った。  晃子さんと出会うまでに、何人かの人と付き合ってきた。だけど、こんなに好きだと思う人ははじめてだった。
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