せっかち症候群

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 よし、まずは彼女との運命的な出会いのシーンから。  その前に。俺の通学方法を知っていてもらわなければならない。自宅から駅までが自転車で20分。電車で30分。大学の最寄り駅で下車して普通に歩く。教室の席に着くまでが10分。合計1時間だ。  近すぎず遠すぎず、といった感じだった。どれだけ親に抗議しても、夢見ていた下宿生活は叶わなかった。通学はしぶしぶ。……そう、彼女と会うその日までは。  奇跡の出会いを果たす、前日の夜。俺は、ゼミの教授の論文を読み漁っていた。予想以上に文量が多かったのを覚えている。速読の達人と呼ばれている俺でも、かなりの時間を費やしていた。  予定睡眠時刻から32分オーバー。ベッドに滑り込んだ。  朝。きっかり32分遅れで起床した。  一生の不覚。寝坊なんて小学生以来だった。パンを噛まずに飲み込みながら、服を着替えるのと同時にトイレを済ませた。……嘘である。少しばかり誇張した表現になってしまった。その勢いだったということが伝わっていればよい。  これは後付けされた記憶ではないと信じているのだが、その日の情景はやけに鮮明に覚えている。無我夢中に走っていたのにも関わらず、何でも輝いて見えたのだ。  夜明けと共に止んだ雨。やっと自分の出番が来たのだと主張するかのように太陽が顔を出したかと思えば、それを妨害しようとする薄い雲がせめぎ合う。心地よい温度と陰りが、辺りを埋め尽くした。  アスファルトが発する、湿った匂い。その上に踏みつけられて変色した桜の花びら。さらにその上を、俺の新品のスニーカーがもう一度踏み直していったのだ。  大急ぎで準備を済ませた俺は、家を飛び出し、自転車にまたがった。自転車をせっせと漕いでいると、口の中で血の味がした。しまった、強く歯磨きし過ぎた、なんて考えているうちに駅に到着。  電車では急ぎようがないので、優雅に小説を読んだ。  下車する一駅前で小説を鞄にしまう。時計を確認。猶予は4分半。  ゼミの教授は時間に厳しい人だった。遅れたとしても叱ることはせず、代わりにガン無視するタイプなのだと先輩からは聞いていた。口もきいてくれない可能性があった。  しかも、今日はゼミの初顔合わせの日。これからの方針を教授が話した後、自己紹介がある。  大丈夫だ、俺なら間に合う。多少衰えたと言えど、なんたって俺は最速の男。下車で人の波に揉まれることがなければ問題ない。なんてことを考えていたと思う。  気がつけば、電車は速度を落としていた。  扉が…………開いたっ!!
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