せっかち症候群

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 自分の姿をありふれた表現で例えるなら、まさに広大な荒野で獲物を追う捕食者であった。誰かに横切られる前に横切った。何者かが自分の前を通り過ぎたということを、老人たちは気付いてすらいないように見えた。  駅から大学までは基本的に一直線。最後に鬼の階段地獄が待っている。だが、短距離走者の俺にとって、直線であることほどありがたいことはなかった。階段の上り下りも中学・高校時代にどれだけ練習したことか。  そのときに関して言えば、ただ速ければ良いというわけではなかった。本気で走れば、すぐに息が切れてしまうからだ。  足と同様、脳の方も激しい活動を強いられていた。現在の残りの体力とタイムリミットを考慮。全速力の8割弱くらいで走れば……。自分のギリギリを攻め続けていた。  直線の半分に到達。 「余裕だ」  思わず口からこぼれた。ここで俺は、少し先の自分の姿を予知する。  15秒以上余して、教室に颯爽と登場するのだ。まるで何事もなかったかのように。  俺のこの予知能力(?)の精度は非常に高い。99・9パーセントの確率で当たる。そう、消臭剤コマーシャルの除菌率と同等の値。だからこのときも、問題はないと高を括っていたのだ。問題ないはずだったのだ。  直線の三分の二を越えた辺り。そのときだった。俺は後ろから静かに忍び寄る陰に気付いた。正確には、忍び寄ってはいない。そいつも大学に向かって走っていただけなのだから。そいつは全力疾走の俺の隣に並んだ。そして横目でこう言い放った。 「君、普通の人と比べたら速いね」  時間にしてわずか1秒未満。早口だが、はっきりとした声だった。その言葉は俺の耳の中で幾度となく反響し、こびりついた。そいつは俺を軽々と追い抜き、置き去りにした。訳が……わからなかった。  脚を止めることなく、そいつの後ろ姿を観察した。白のワンピース? 長い黒髪? 女??  驚いたのは、その靴と走り方だった。靴はスニーカーではなく、サンダルに近いもの。しかも厚底。最も走りにくい靴と言っても過言ではない。そして、手の振り方と足の使い方。手はグーで握って前後に振るわけではなく、開いて下手にバスケットボールを突くような感じだった。ストライドは短く、足は俺の半分も開いていない。その代わり、ピッチが異常なほど速かった。速すぎたのだ。  海外のカートゥーンでしばしば見かける、何かを必死に追いかけ、走り回る描写。躍動感を出すために下半身を省略し、ぐるぐるで表現するというものがあったと思う。まさにそれを見ているような感覚に陥った。  認めよう。俺は観察すると言いながら、その女に見惚れていたのだ。これまでにない敗北感を味わいながら、同時に感動していた。何なんだあいつは。一瞬の出来事であったため、どんな顔をしているのか見逃してしまった。悔しい。悔しい悔しい。このとき、もはや何に悔しがっていたのかすらもわからない。  突然、足を強打する。前のめりになって、階段の角に顔を打ちつけそうになる。手をついてギリギリのところで回避した。そのまま顔面着地を成功させていたら、整形手術を受けるはめになっていたかもしれない。その犠牲は案の定、手首が被った。強く捻ったことだけを認識していた。その瞬間は痛みを感じなかったのだ。後に病院に行き、折れていたことが判明する。  自分のことは正直どうでもよかった。無意識的に階段の上の方に目をやる。そこには俺の体を気遣い、手を差し伸べる天使の姿が…………なかった。もとより誰もいなかったかのような、長い長い階段だけが続いていた。
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