せっかち症候群

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 俺が教室に約1分の遅刻をしたのは、先程も述べたが痛みのせいではない。余韻に浸っていたからだ。……何の? そりゃあ、俺に敗北感と感動を同時に植え付けて走り去っていった、白ワンピース黒髪ロング厚底靴の女のことに決まっている。  手首が本格的に痛み出したのは、その日の晩頃だったと記憶している。いや、今その情報はどうでもいい。  教授の話はすでに始まっていた。教授は俺に鋭い一瞥をお見舞いし、話を続行した。  とほほ。これからの行動で取り戻そう、なんて考えていたら白のワンピースが俺の視界に飛び込んできた。軽く3度見はした。  悪目立ちしないようにと選んだ、一番後ろの席から弾かれたように立ち上がる。後ろ姿に目が釘付けだった。一度たりとも目を離さず、というか離せず、その女の横に移動する。気だるげに教授の話を聞いている彼女は、それでもまだ、俺の存在に気がつかない。実際に会ったこともない英国の紳士を思い浮かべながら、俺にできる最大限やわらかい声で話しかける。 「お隣いいですか」  驚いた。我ながら気持ちの悪い声が出たのだ。走って息切れしているということを失念していた。砂漠に放り出されて喉もカラカラ瀕死状態の人間が、久しぶりに言葉を発したときに出る声に引けを取らない震え方だった。俺の言葉を日本語として聞き取ることができただろうか。聞き取れていたとしても、俺なら断るだろう。  目の前の女はそのまま首がどこかに飛んでいってしまうのではないかと心配になるほどの勢いでこちらを振り返り、それとは似合わない緩慢なしゃべり方で返してくる。 「あ、さっきの人。いいよー」  ……やったぜ。感謝感激雨アラレ。荒れ狂った頭の中身の一部を「ありがとう」という言葉に置き換えて伝えることは大して難しいことではない。それなのに俺は、すっと無言で隣に着席してしまった。せめて少しでも喜んだ顔をすればよかったと、すぐ後悔することになる。だが、当時の俺にそんな余裕はなかったのだ。
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