せっかち症候群

9/20
前へ
/20ページ
次へ
 家に帰る途中。電車で読む小説の続きが全く気にならない。入浴時。髪を洗うため目を閉じていると、長くてツヤツヤの黒髪が何度も頭をよぎる。脳の占める割合は、じんじんと痛む手首が1割、彼女が9割。その日は人生で初めて、シャンプーを3回プッシュしていた。 「明日も彼女に会える」  布団を頭からかぶり、声に出してようやく恋をしているのだと気が付いた。俺の人生で、心の整理に時間がかかった出来事ランキングをつけるとしたら、この出来事は堂々の1位である。現時点、24歳。再来月には25歳になるが、まだこれを超える出来事は起きていないし、今後この記録が抜かれることもそうそう現れないだろう。 『恋』の自覚。そこからは速かった。来る明日に向けて、戦略を練った。翌日に遠足を控える小学生と大して差はない。フル回転の脳は俺をなかなか寝かせてはくれなかった。  翌日から彼女への猛烈なアタックが始まる。男たちは茶化しながらも応援してくれていたように見えたが、女どもは完全にドン引きしていたと思う。そんなの全く気にならなかった。胸の奥底からムラムラと……いや、メラメラと燃え上がり、決して吹き消されることがないもの。これこそが愛の力なのだと、自分で納得していた。  ゼミが始まって5日目には彼女に告白していた。もはや戦略や計画の欠片もないと非難されるかもしれないが、ここでは理性よりも感情に従うべきだと思ったのだ。考えあっての行動である。決してコンビニで立ち読みした恋愛指南書に影響されたとかではない。 「風華やめときなって」と、俺の恋路を阻止しようとするモブ女子ども。ぶん殴りたくなったが、彼女が「保留で」と回答したため、女どもは一瞬でどうでもよくなった。ますます彼女のことが好きになった。  おっと、言うのを忘れていた。彼女の名前は橘風華。初めて聞いたときは、なんて高貴な名前なんだと感動した。「婿に入って、橘姓も悪くないな」とかも考えていたと思う。
/20ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加