リリ

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リリ

 視覚の及ぶ範囲には、空と太陽と少しの緑、そしてただただ砂だけがある。高い尖塔の上の方で、少女は足をぶらぶらとさせながら遠くを眺めていたが、やがてぱたりと仰向けに寝そべった。  二年前にじいちゃんが死んでから、少女は誰とも口をきいていない。それは彼女の心が塞がっているからではなく、物理的にここに人が彼女以外存在しないからである。  だが彼女は饒舌な性質だった。時々どこからか飛んでくる野鳥を見つけたりすれば、あいてに聞こえようが聞こえまいが、たとえ聞こえていたとして理解できないとしても、少女は饒舌に喋り続ける。今日の話し相手は、尖塔の上の方にも登ってくる蟻である。 「いやあアリンコさん、今日も精が出るねえ。一体何を運んでいるのかなあ。自分より大きいものを運べるなんて君たちは力持ちだよねえ」  気密服のバイザーの中から少女は、じっとした視線で動き回る蟻たちを眺めている。分厚いグローブ越しでは蟻たちに触れるわけにもいかない。不注意をすると思いがけず押し潰してしまうだろう。  オレンジ色の透過の向こうで蟻たちは必死に大きな蛾の亡骸を運んでいる。どこに巣穴があるのか、こんな尖塔の上で獲物を見つけた彼らの仕事は先が思いやられる。少女は蟻たちから視線を外すと、再びごろりと寝転んだ。だからといって彼女のお喋りがとどまることはない。 「アリンコさんは桜って木があるの知ってるう? 昨日の朝咲いてるのを見つけたんだよ。じいちゃんがね、あ、じいちゃんはもう死んじゃったんだけど、桜が咲いたらラジオで開花宣言をしないといけないって言ってたからさっきやったんだ。マイクで話すのって緊張するよね」  相変わらず足をぶらぶらさせながら彼女の目線は高いところに投げ出されている。今日は雲が一つも見当たらない。その代わり強い風が吹いていて地平線の彼方では砂嵐が起こっていた。遠くの大気は砂色に濁っており、そのうちあれがここまで来るのを知っている少女は少しだけ表情を曇らせた。  死んだじいちゃんの話によれば、彼女は今年で十三歳になるらしい。昼夜がなくなって、季節が消滅し、時間の概念が失われたこの星の上では、年齢など数える意味があるのか、少女にはその疑問すら判らない。何せ彼女が生まれたときには、この星の時間はもうずっと前から止まったままだったからである。  また死んだじいちゃんによると、彼女の名前はリリコ・リューネルバーグ・サカザキと言うらしい。愛称はリリだ。  彼女はこの星の蓋然的な時間で言うところ、二年前からたった一人で暮らしている。それまではじいちゃんと二人きりだった。もっと前には今よりたくさんの人がいたと言うが、少しずつ減っていってついにはリリ一人になってしまったのだ。一人ぼっちになってからは、じいちゃんと暮らしていた日々をただただ繰り返している。ここには充分な食べ物と、外の強い風を阻む分厚い壁の住処があって何不自由ない。  最近の彼女の興味は”夜の場所”に行ってみたいということだった。途中に通ることになるだろう”夕方の場所”にも大変興味がある。”夕方の場所”は、”夜の場所”から”昼の場所”へ向かって進むときには”朝方の場所”になると言うから大変おもしろい。リリはぜひ、かつてこの星にあったと言う時間の経過を味わってみたいと常々思っていた。  アジトに戻れば、無尽蔵と言っていいほどの映像記録がライブラリと呼ばれる機械から呼び出すことができる。どういう仕組みか彼女には判らなかったし、疑問を抱くこともなかったが、映画、音楽、ゲームなど娯楽にも事欠かない。ただ運動だけは欠かさずすること、と死ぬ前のじいちゃんに厳命されたことは、今でも忠実に守っている。体重も毎日はかっているし、歯磨きだって食事をするごとに必ず行う。 「今日はパスタとピザを食べようと思うんだ。味は何にしようか悩んでいるんだけど、アリンコさんたちは何がいいと思う?」  リリが寝転んだまま蟻たちがいた場所に目を向けると、彼らはもうそこにはいなかった。その光景を確認したからか、リリはむくりと起き上がると一言「かーえろっと」と呟く。  寂しいとは思わなかった。それは生まれたときから彼女にはない感情だ。無論、何を寂しい気持ちと呼ぶのかリリは知っている。知ってはいるが、感じたことはない。それは映画の中にだけある気持ちであり、リリにとっては知識であるに過ぎない。  じいちゃんが死んだとき、感じた気持ちがなんと呼ばれるのか、リリは後になってからライブラリにある映画の中で知った。あの時の気持ちを「悲しい」と、そう呼ぶことを知ったが、同時に二度と感じることのない気持ちだということも知った。そのことに気づいてからは、リリはもう平気だった。悲しいを怖がることはもうないだろう。  尖塔のハシゴを注意深く降りながら、リリはもう一度砂嵐の近づいてくる方角に目を向けた。そっちの方から、砂以外の何かが近づいてくるのをふと感じたような気がしたのだ。  アジトに戻ったら気密服を脱いでシャワーを浴びよう。そして庭園の桜を見に行こう。リリは油断するとすぐに砂埃で曇ってしまうバイザーを右手で拭いて、ゆっくりゆっくり下へと降りていく。   
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