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呑箱体操
「で?で?その後は?エアライドの後。呑箱局の朝のルーティン」
「あ。次はね」
僕と娘の春緒は、エアライドの姿勢のまんま相変わらず居間に突っ立ている。
エアライドの後は、呑箱体操だな。
「呑箱体操?」
「うん」
「ラジオ体操じゃないの?」
「うん。独自のやつ」
「さすが大企業」
「まあね。っていうか、ラジオ体操があるのに、これを作った意図がわかんないけどね」
「やりたい」
「いいよ。ちゃんちゃんちゃちゃちゃーん♪」
「あ!!」
「どうした?」
「なんでもない」
「ユーチューブに落ちてるよ。きっと」
検索。呑箱体操。エンター。
「ほら」
「わあ。ホントだ。これ、どこかの呑箱局だね。こんな雰囲気なんだ。
なんか怖いね。職場に色が少なくて。男の人ばっかりで。風通し悪そう。
体操始まったね。動きが揃ってない。やらされてる感がすごいや。
閉じ込められてる。閉塞感が半端ない」
「うん。うちの局もほぼおんなじだな。でも、これ、どうやって撮ったんだろう。
隠し撮りかなあ。アップしちゃまずいんじゃないか?」
「ねえねえ。やろうよ。呑箱体操」
「はい」
僕は毎日聞いて、体操してるけれど、春緒にとっては新鮮なのかもしれない。
僕たちは、ユーチューブを見ながらピアノ演奏の呑箱体操を始めた。
「わはは。こんな動き。こんな動き。腿上げ腿上げ。楽しー」
「ははは」
「あ。ここは、ラジオ体操と同じだ」
「うんうん」
「あ。この動き、初体験。腕をこんな方向に。あははは」
一通り、体操が終わって、僕は、ユーチューブの画面を閉じた。
「ねえ。お父さん」
「ん?」
「呑箱体操は、平気なんだね」
「なにが?」
「音楽」
「あ」
そっか。
「私、さっき。お父さんが何かのメロディ口ずさむの、生まれて初めて聞いたかもしれない」
「ああ」
「歌うたってるのなんて、いまだに聞いたことないし」
「うん」
僕は、音楽がダメなんだ。
何かのメロディを面と向かって聴かされると、体が固まる。気持ちが悪くなる。
歌は、小学校の低学年の時以来、歌ったことがない。
この口から、歌、というものは何十年も発せられていないはずだ。
「前にお母さんにちょっと聞いたけど」
「うん」
「お父さん、小学校の音楽の授業でひどい目に遭ったって」
「あ。まあね」
「それで、歌えなくなった。音楽が嫌いになった」
「うん。歌えない。でも、音楽は多分、嫌いっていうんじゃない。そうじゃないけど、聴いてるとどうしてもそこから逃げたくなっちゃうんだよ」
「そっか。でも、呑箱体操のピアノ、平気だよね」
「あ。うん。でも、入局したころは嫌だったよ」
「慣れた?」
「うん。その場から逃げるわけにいかないしね。そんなに曲、長くないし。でも」
「何?」
「あ。これが、僕にとって唯一の音楽だって、思ったんだよ」
「ん?」
「たった一つ。僕が参加できる。僕を受け入れてくれる音楽」
「そんな。呑箱体操が?」
「うん」
「そりゃ、ないよ。お父さん」
「そうかな」
「そりゃ、ない。そりゃ、ないよ」
「うん」
「可哀そうすぎる」
「うん。でも、しょうがない」
「しょうがなくないよ」
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