法則

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法則

「ああ!もう、どこにも芯の入ったホチキスが入ってない。芯もない。入れといてほしいよなあ」 呑メイトの西川君が文句を言っている。 「ねえねえ。西川君。お互い様だよ。法則だよ」 「あ。南さん。法則?」 「うん」 普通の嚢状や固紙の他にも、僕たちは、いろいろな呑箱物を配達している。 その内の一つが捺拑。なつかん、と読む。 現金が入っていれば、現金捺柑。クレジットカードなんかだと、手軽捺柑。呑箱にそのまま投函できないような、重要呑箱物に使われる。 捺拑扱いの呑箱物には、12桁の番号が割り振られてあり、引き受けから配達までを、ネットで追跡できるようになっている。 受け渡しの際には、お客さんのハンコかサインを配達証にもらう。 西川君は配達から帰ってきて、ハンコやサインをもらった配達証の束をホチキスでまとめたいのに、芯の入ってるホチキスがどの区の引き出しにも入っていないと怒っているのだ。 「ほら。西川君、今、左手で綴じこもうとしてる配達証もってるじゃん」 「ええ」 「だから、右手しか空いてない。右手で引き出しを開けて、中から、右手でホチキスを取って、綴じこみたい」 「はい。そうです」 「でも、ホチキスに芯が入ってないから、くそおって、隣の区の引き出しを開ける。右手で」 「ええ」 「やっぱり入ってない」 「うん」 「左手は離すわけにはいかない。綴じこむ配達証があるから」 「あ。はいはい」 「次の区の引き出しを開ける。ホチキスを取って、かしゃっと。あ、今度は、綴じこめた。 で。そのまま、右手で引き出しを閉めて、綴じた配達証を内務部にすぐ持っていく」 「ええ。なくしちゃ後で大変だから、すぐにそのまま持っていきます」 「ほら。で。配達証を内務部に渡したあとね。その時は、芯の入ってないホチキスのことなんてもう忘れてる。ホントは、気づいた人がやらなきゃだよね。でも、みんなそこで忘れちゃう。よっぽど気の利く人が、用具係のところに行って、芯をもらってくるんだ」 「あ。そうか。俺は、他の誰かの足跡をそのままたどったんですね」 「うん」 「そして、俺の足跡を、この後、また誰かがたどっていく」 「うん。西川君が用具係のところに行って、ホチキスの芯、もらってこなければだけどね」 「あはは。成程。法則」 西川君、がしゃんと、ホチキスで配達証を綴じこんでいる。 「もらってこないと、忘れないうちに」 内務部に配達証を出しに行っていた西川君が戻ってきた。 「南さん。あれ。ほら。猪木ですよ」 西川君の指さす方を見ると、二階にあるこの呑箱事務室から、何人かの職員が窓の外を眺めている。 キリンの親子が、局の柵の外をのんびり歩いていたのだ。 あれは、群れのリーダーの猪木。それから、奥さんの、さおりん。 そして、この春生まれた雄の子供だ。 僕たち市の人間は、子供のキリンにしばらく名前を付けず、バナナ坊と呼んでいる。 「感激。俺、バナナ坊、初めて見ました」 「ははは。かわいいね」 「旧図書館で生んだんですよね」 「うん。僕、娘と見に行ったよ。ゴールデンウィーク前だ。深夜なのに、すごい人だったな」 「へえ」 「でもね、ほら、お産でしょ。さおりん、ナーバスになっちゃってるから、みんな静かに待ってて」 「はい」 「生まれました、元気な男の子です、って、市のキリン課の職員が、中から報告しに出てきて、そこで、もう大歓声」 「ああ。人間の子供とおんなじだ」 「うん。なんか自分の身内のことみたいにうれしかったよ」 僕たちの野良キリン。 この市の人間は、みんな彼らが大好きなのだ。 「そうだ。南さん。俺も気づきましたよ。法則」 「え?なになに?」 「あのですね。やっとみつけた輪ゴムは切れる」 「何それ」 「ほら。小さいゴム、欲しい時あるじゃないですか、組み立ての時。会社とか、一件で通数が多い場所をまとめるのに」 「うん」 「でも、引き出しの中に全然ない。一つぐらいあってもいいのに」 「ああ。あるね。時々そんなこと」 「でも。あ。引き出しの奥の方に一個だけ、あった。なんかペーパークリップが絡んじゃってるけど」 「ははは。よく見てる」 「ね。で。あ、よかった。一つだけあったって」 「はい」 「でも。使おうとして伸ばすと、ぷちん。切れちゃう」 「あはははは。そうだ。そうそう」 「法則ですよね」 「法則だね」 「ずっと使われないで、奥の方に眠っているうちに輪ゴムが経年劣化起こしたんです」 「そうだね」 「やっと見つけた輪ゴムは切れる」 「やっと見つけた輪ゴムは切れる。おお」 西川君。まんざらでもない顔をしている。 「ねね。お二人。お話し中、悪いんだけど」 「あ。なんですか?野火さん」 「今日、みんな定時退社だし。どうかな、一杯って」 「あれ?野火さん。お酒やめてませんでしたっけ。もうここんとこ何年も」 「復活!」 「あはは。そりゃ、よかった。西川君は?」 「あ。俺は、飲めないんで」 「そっか。残念」 「じゃ。一度帰って、6時から、あそこ」 「はい。あそこ」 あ。 「ね、西川君。ホチキスの芯、もらった?」 「あ」 「ね。法則」 「はい。法則」
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