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北極点
四月になった。
第一週の日曜日。
ジーパンにポロシャツ、ジャケット。
今日は、カウパーとはっちゃんのウェディング、ならぬ、ウェディングライブ。
カウパーからもらった案内状には、二人のラフな普段着姿の写真が印刷されており、この姿に見合った格好で来るようにとの注意書き。
これでいいっていうんだから、これで行く。
それから、ジャケットの胸ポケットにブルースハープが3本。
それだけ確認すると、僕は玄関に出て運動靴を履いた。
「ねえ。あなた」
「ん?」
妻が送りに出てくれた。
娘の春緒は、先に出て行った。
「今さ。スマホでニュース見たんだけど。これ、見てみて」
「ん?」
あ!
「あんこちゃん!」
「そう、びっくり。中沢あいさん。あの娘だよね、これ」
ニュースの画面には、もじゃもじゃのフードの中の真っ黒いシミだらけの顔。
その眉毛とまつ毛には氷が張り付いている。
バックは抜けるような青空。
「北極だってよ。北極点に歩いて向かってるんだって、中沢さん。知ってた?」
「あ。うん」
「なんで教えてくれなかったの?」
「え?だって」
ラブホテルに二人で泊まった去年のあの日、彼女は、憧れの植村直己の足跡を辿って北極点を目指す旅の計画について僕に話してくれたのだ。
なんでも徹底的にやらないと気が済まない彼女は、子供のころからの夢だった北極点到達を遂に実行に移したのだ。
「そんな娘には見えなかった。私には」
「ははは。行動力のある、すごい娘なんだよ」
「あなたはさすが、よく知ってるわね」
「あ。また、なにか疑ってる」
「なあんにも。それより、あなた、他にも何か隠してない?」
「ん?」
妻は画面をスクロールして、記事の見出しを僕に見せた。
「ああ」
「女優だったのね、あの娘」
頑張れ!なおちゃん!北極点!
記事には、そんな言葉が躍っていたのだ。
「ほら。なおちゃんだって。上村なおっていうんだね。芸名」
「ああ。うん、その」
「元セクシー女優でしょ」
「そう」
「そっか」
「なんでも徹底的にやらないと気が済まないんだそうだ」
「羨ましい」
「ちょっと見せて。記事」
3月初め、あんこちゃんを含む日本人4人の隊は、カナダ極北の町レゾリュートを出発、各々そりを引いて徒歩で北極点を目指した。道のりは約800キロ。目標である北極点も歩く場所も洋上にあるが、この季節はまだ海が氷で覆われているため、陸路で到達することが可能らしい。
途中、長大な氷の割れ目に遭遇し大回りを余儀なくされたが、行程は概ね予定通りに進み、半分ちょっとを過ぎたところで隊はヘリからの物資の補給を受けた。
あんこちゃんの、この写真はその時のものらしい。
「すごいよね。満面の笑みだわ」
「ああ」
「それから、ほら、この記事についたイイネの数」
「うん。ファンも多かったんだな」
「許せたかも」
「何を?」
「めちゃくちゃ素敵な娘だっていうのは、もう充分わかりました」
「そうか」
「あの夜、何もなかったんだよね。あの娘と」
「はい」
「じゃ。彼女帰ってきたら、お話したいんだけど。旅行の事、聞きたい。ラブホテルの事じゃなくて。そうだ、いただいた蕎麦の実のお礼もしてないし」
「あはは。いいよ。連絡してみる。会ってくれるかな?」
「それはあなたの魅力次第」
僕は、再び彼女に会える口実ができたことを喜んだ。
でも、そのことも妻には見透かされているようで。
「私はいい妻ね」
「え?」
「なんでもない。勿論お二人だけの時間も作ってあげるからね」
「え?」
とりあえず、あの夜、二人の間に何もなかったのは正解だったらしい。
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