クアトロ・デ・パステック

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クアトロ・デ・パステック

舞台では、THE SEVEN FLOWERS JAZZ ORCHESTRAのリハーサルが続いている。 ちょっと悲しくて、でもロマンチックでコミカルでリズミカルな、初めて聴く曲。 「野火さん、この曲は?」 オードブルや飲み物が到着したので、僕たちはそれをテーブルに並べながらリハーサルを聴いていた。 「ん?なんだろ、知らない」 「あ!これはねえ!」 はっちゃん。 久々。 一本抜けた前歯。ぐしゃぐしゃな茶髪。 今日も、いつものオーバーオールに適当なシャツ。 前に会った時と違うのは、お腹が随分膨らんでいること。 ウエディングライブとは言っても、はっちゃんはいつも変わらない。 「はっちゃん、どう?調子は?」 「もう。絶好調。安定期はいいねえ。気持ち悪くないし、みんな優しくしてくれる」 「そっか。一月後だっけ?出産」 「だよ。ずっとこのままでもいいけどね。ははは。あ、そうだ。この曲、オリジナルだってさ」 「え?そうなの?はっちゃん、なんで知ってるの?」 「ああ。こないだ実家行ったとき、妹が聴いてたんだよ」 はっちゃんの妹は、荒井蝶さん。 THE SEVEN FLOWERS JAZZ ORCHESTRAと西瓜カルテットのピアニストだ。 「織姫と彦星だって。うひひ」 「へえ。道理で」 「あ。何か感じた?南さん」 「うん。こう、ちょっとしたドラマを」 「おお。いいねえ。南さん。これね、この楽団の人が作曲したんだよ」 「へえ。と言うことは、長作さん?作曲」 「そう。流石よく知ってる」 「すごいなあ」 「曲のモデルの二人はなんと私の妹と西瓜君」 「あ。成程。織姫と彦星だ。日本とフランス、なかなか会えない」 「そ、そ。Vega and Altairってんだ。曲名」 自分たちのロマンスをこんな曲にしてもらえる気持ちってどんなだろうか。 「しかしこれさ。はっちゃん」 「ん?」 「もう離れらんないね。二人」 「あはは。いいんじゃない?素敵なことだよ」 「だね」 バンドの演奏は、ぱっぱ、らっぱら、ぱ♪とコントのオチのようなメロディで終わった。 それを聴いて僕はトイレへ。 廊下に出てすれ違ったのは、長身のイケメン西洋人二人。 あ。西瓜カルテットのベースとドラムだ。 フランス人。高校生。確か、どっちもジャン。 どうしよう。挨拶しないと。 ええと。ボンジュールだったっけ? 「コンニチハ」 あ。向こうから挨拶してくれた。 「こんにちは」 はは、と笑ってふたり通りすぎてゆく。 なんか感じのいい子たちだな。 春の西瓜カルテット凱旋ライブは日程を終了したけれど、彼らはピアニスト荒井蝶のお姉さんのウェディングライブのため、この日まで日本に残ってくれていたらしい。 今日は、西瓜カルテットの演奏も聴ける。贅沢。 それにしても、たった一言ですれ違うのは大人としてはいただけない。 「あ。I can't wait ええと、クアトロ・デ・パステック」 クアトロ・デ・パステックは、フランス語で西瓜カルテット。 二人顔を見合わせて、びっくりしてる。 「アリガトゴザイマス」 ははは。よかった。少しは交流できた。 ふう。 トイレに入り便器の前に立つと、個室から突然僕を呼ぶ声がしたのだ。 「南殿~」 あ。 トイレの個室から僕を呼ぶ人間など一人しかいない。
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