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ホワイトアウト
「ただいま!あ!」
「あ!」
5月のゴールデンウィーク明け。
家内はパート。僕は非番日だった。
リビングにあるパソコンの動画を開いたまま、僕はつい、うとうとしていたのだった。
春緒がいつの間にか学校から帰宅していた。僕は慌てて動画を消した。
「もう。お父さん」
「あはは」
「気持ちはわかるけどね」
僕が観ていたのは、上村なおのアダルトビデオだった。あんこちゃんの芸名だ。
動画の中、あんこちゃんは白熱していた。
汗だくで生をむさぼっていた。情熱的な。煽情的と言えば煽情的な。
でも、僕はそれを一般の人と同じ気持ちで観ていたのではなかった。
「はあ」
「やっぱさ。お父さん、その人、好きだったんじゃん」
そうだったのか、と思う。
多分、こういうのは女の人の方が勘がきく。
「観ないでとは言わないよ。私、自分の部屋に行ってようか」
「いや。大丈夫だよ。もう」
「そう。お茶、飲ませて」
「うん」
カウパーのウエディングライブの朝、僕は家内のスマホでニュースを見せてもらった。
あんこちゃんを含む4人の隊は、各々そりを引いて北極点へ向かっていた。記事は、その途中で隊がヘリから物資の補給を受けた時のものだったのだ。
日焼けで真っ黒になった満面の笑顔のあんこちゃん。
でも僕は、彼女の姿を見るのがその時が最後になるとは思わなかった。
「私が思うのはさ」
「ん?」
「私が思うのは」
「何?」
「いや。やっぱわかんない」
ヘリからの補給を受けた1週間後、隊は行程中猛吹雪に遭った。
あたりは真っ白ですぐ横にいる人間の姿さえ見えなかったらしい。
その中で突然、あんこちゃんは姿を消したのだ。
「ホワイトアウトって言うらしい」
「うん。過酷。想像もつかないね」
猛吹雪が過ぎた後、残った3人がそのあたりを捜索すると深い氷の亀裂が見つかった。
その亀裂にはあんこちゃんの引いていたそりが落ちずに引っかかっていたらしい。
人間の姿はなかった。
「随分探してたよね」
「うん。でも、もうこんなに経っちゃうと。即死じゃなかったとしても、凍死してるだろうって」
あんこちゃん。
そんなことまで、植村直己の後を追わなくてよかったのに。
「私が思ったのはさ」
「うん」
「私は夏からケニアに行く。どうしても行きたい。でもケニアの治安がいいとは決して言えない」
「うん」
「何が起こるかわからない。それでも行く。リスクを取る」
「そうだね」
「ええと」
「ん?」
「あ。そうだ。それで、私は、ケニア滞在中におかしなことに巻き込まれても、それは仕方ないことだと思う。知っててリスクを取ったのは私」
「うん」
「後悔しない」
「うん」
「しないかな。後悔」
「どっち?」
あんこちゃんのことだ。
後悔なんかしてないだろう。
でも。
「でもさ。春緒」
「はい」
「あんこちゃん、あっという間にクレバスに落ちてさ」
「うん」
「多分、その時何が起きたのかわからなかったと思う」
「そうだね」
「こんなこと言ったらなんだけど、そのまま落ちて頭打ったりして即死ならいい。ほら、それって、僕らでもありうることじゃない?交通事故で車に轢かれたりとか」
「そっか。車にぶつかって気を失ってそのまま」
「そう。でも、もしもね」
「うん」
「即死にはならなくて、クレバスの底でじっと助けを待ってたとしたらさ」
「ああ」
「真っ暗で寒い。たった一人」
「うん」
「どんな気持ちだろうなって」
「、、」
「その中で、ほんの一瞬でも、僕みたいな、こんな呑気な日常を想像していたとしたら」
「、、」
あんこちゃんは、そんな最期も覚悟していたかもしれない。
でも、僕としては、やるせないものはやるせない。残されたものはたまらない。
「だからさ、春緒」
「はい」
「春緒が死んだら、ものすごく悲しむ人間がいるんだからね」
「はい。わかった」
「元気に帰って来てね」
「うん」
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