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上質な絨毯を踏みつけた。
そう感じたけれど、社内のエレベーターに絨毯なんか敷いているはずがない。ましてやこんな踏み心地のいいものを。
実際、わたしの爪先は白くて硬い床を踏みしめている。踵だけが異様にふんわりとしているのだ。
もう一度確認する。
黒のパンプスのヒールの隙間から、濃いグレーと白の毛束がみえる。
わたしは慌てて足をどけた。
「ごめんなさいっ」
事の重大さに気づいてさっと血の気がひく。
わたしが足をどけると、空飛ぶ絨毯さながらしっぽがふわりと宙に浮く。
鋭く尖った爪が、踏まれて乱れた毛をすいた。
「あ、はい」
きこえるかきこえないかの声量。満月色の瞳と目があうことはない。
「大丈夫? ジロウ」
伊藤ジロウくんのとなりにいた白石さんがそう声をかける。
「平気。毛の部分だけだったから」
「そう。ならいいけど」
いいけど、の、「ど」のあたりで、白石さんはわたしをきつく睨みつけた。凍りつきそう。そういえば白石さんは雪女だったっけ。
エレベーター内に微妙な空気がながれる。わたしは身を縮こませた。
だけど、わたし以上に所在無げにしているのは伊藤くんのほうだった。二メートルはあるらしい体躯は、まるめた背としょげた耳のせいでそんなふうにはみえない。
もしかして、ほんとは痛かったのだろうか。もう少しちゃんと謝ればよかった。いまからでも遅くないかな。いやでも、こんなにしんとされると。
ぐずぐず考えているうちに、伊藤くんは白石さんと一緒にそそくさと降りていってしまった。
「なにそれーっ。わざとじゃないじゃんねー。そんな怒ることないのに」
同僚の望月さんがカップラーメンをすすりながらそう憤慨する。[激辛!]の文字にふさわしい真っ赤なパッケージのせいで余計に凄みを感じる。
わたしは二の句が継げなくなった。唇がいびつに歪んで固まる。
わたしは怒っているわけではない。ただ、伊藤くんのしっぽを踏んでしまって申し訳なかったなっていう話をしただけで。
あれ。うまく伝わらなかったな。もしかして、白石さんって美人だから迫力あるよね、と付け加えたのがよくなかったのだろうか。
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