垂直落下

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垂直落下

(一)  遠目に見える九段の町並みが夕陽を受けて美しい時間、手前には御堀。季節外れのボートが浮かぶ千鳥ヶ淵にも橙が反射している。    春には昼夜を問わず花見客で賑わうこの場所も、初冬の寒空には不人気だ。近所の住人らしき散歩姿がちらほらと窺えるぐらいである。    私は、北の丸公園のうらびれたベンチに腰掛け、その光景を眺めていた。    たまに吹く木枯らしが容赦なく頬を叩くので、赤く腫れて熱を持っているのが自分でも分かった。薄手のコートを通して入り込む冷気に底冷えして、意味もなく腕組みを繰り返す。    待ち人は来ない。    分かりきった答えを確認するだけのために、土埃に汚された木製のベンチに座って、肩を上げている。自分は馬鹿だ。それにしても寒い。    今は用無しの桜の幹と幹の間からボートに乗りこもうとするカップルの姿が見える。私はそれをじっと見ていた。他にすることが無いからだ。ただ、じっと見ていた。    遠くてあまり良くは見えないのだが、女の方はキャラメル色のコートを着ている。恐らくプリンセスラインで、カシミア製の、上品なコートだろう。ともかく今日の女も、大体流行を押さえた、綺麗めな冬ファッションの筈だ。    男の方は、背を向けている。  二人は少ししんみりした雰囲気でボートを、今は汚く垂れ下がる八重桜の幹の方へ進めていく。女はたまに俯き、涙を拭っているように見えた。  私は脇に置いていたバッグからオペラグラスを取り出すと、女の顔に焦点を合わせた。オペラグラスと言っても折りたたみ式ではなく、重たい双眼鏡さながらの性能のものである。    拡大された顔は、やはり涙で濡れていた。ハンカチを当てる左手にはブルガリの時計。薬指には相も変わらずペリドットの安っぽい指輪が光る。しかしブルガリの時計とは、予想が外れたな、と思った。  嫌な気分になった。  いつも連れてくる女は大体同じ様な格好をしていたのだが、今日の彼女は何故かタイプがガラリと違う。大きく映し出されたキャラメル色のコートも、良く見ると豪華なファーだ。ファッション雑誌で見た、D&Gかもしれない。  コートに釣り合う顔の派手さも羨ましいが、いつもと違う気配は、私を吐き出しそうなほどの不安に駆り立てた。  男は泣いている女を慰めることもしないで、その場でボートを止める。    ここからはまた、いつもと同じだった。見なくても分かる。頭を下げて、女がひとしきり喚くのを眺める。そして無駄な努力に気付いた女が渋々黙るのを確認してから船着場へ戻っていく。    そうだ、見なくても分かる。そしてそのことに私は非常に満足していた。    女は男に貰ったペリドットの指輪を捨て、近所の高校生が部活で走っている大通りを逆走し営団の入り口を駆け下りるのだ。ああ、今は東京メトロになったのだった。    男の方はと言えば、いつも反対側へ歩いていく。オペラグラスの双眸を向ければ、遠い恋人たちは、やはりその通りに立ち回っていた。  女が去って、やがて男も消えたので、暇を潰せるものが無くなってしまった。薄暗くなってきたかなと思った途端、辺りはあっという間にとっぷりと暮れた。鬱蒼とした常緑樹と湿った土に囲まれたこの場所に、闇が加われば酷く淫猥な空気になる。    待ち人は来ない。    左腕の袖を上げればエルメスの文字盤が六時を差していた。私は鳥目が酷いので、一瞬十二時に見えて焦った。焦る理由なんて、急いで帰る理由なんて、無いくせに焦った。  長い間同じ体勢で居た所為か、臀部が痛む。首を一回しして覗き場を後にした。    待ち人は今日も来ない。    きっと、来月も来ない。    代わりに会うのはあの男だ。名前も知らない素性も知れないあの男だ。  綺麗な女を毎月泣かせているあの男だ。安っぽい指輪をさせた上品そうな女をボートに乗せて、何を言うのだろうか。どうやって泣かせるのだろうか。あの女たちは誰なのだろうか。  もう長い間私との約束を忘れている恋人との逢瀬の代わりに、いつしか私は別の男の奇怪な行動を観察するようになったのだった。
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