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烏の啼き声
帰ってきた。この島に。
烏の声がする、この家に。
僕は今日、母の訃報を聞き付けてこの小さな島に帰ってきた。父はちょうど去年の今ごろに肺の病で他界していて、残された母はそれからあっという間にぼけてしまった。
はじめは僕も、そんな母の様子を見に月に二度はここに通っていたけれど、あの人が僕を忘れてしまってから足をはこばなくなった。幸いにも母が壊れたのは頭だけで、体は何ともなかったからひとりで暮らすのに難はなかった。
もし介護が必要だったら、僕は母のそばにいただろうか。
投げ出して、逃げたかもしれない。僕は、僕を忘れたその人を、自分の母親だとは思えなくなっていた。
それでもこうして訃報を聞き付けて戻ってきたのは、この島を今の僕の目でもう一度見たかったからなのかもしれない。
決して、母のためではない。
むなしいことに。
葬儀はちいさいわりに、長く感じた。棺のなかの母は、確かに僕の母だった。
死化粧、綺麗だな。見ないうちに、また老けたな。しわが、増えてる。でもこの顔は、母のものだな。変わらないな、今はもう。父が死んでから、あなたはあんなにも変わってしまったのに。
島の人々には、薄情な息子だと思われているだろうが、仕方ない。事実僕は、薄情者だった。
葬儀を終えて、僕は島の防波堤に腰かけていた。黒い喪服に染み付いた線香が、潮風にかき消されてゆく。やわらかな波が、テトラポットに砕かれてゆく。
蝉の声が、
「ねえ君」
振り向く。涼しそうな白いブラウスを来た女性。
「……?」
不思議がる僕に、女性は目を細めて笑った。
「驚かせてごめんなさい。わたし、レイコさんのお友達なの。息子さんでしょう?」
「ええまぁ」
「わたし美波っていいうの。ここで教師やってる。思ったより若いんだね、君。お母様に会いにも来ないし、そんなことする息子は、いい歳して意地張ってるのかなって思ってた」
でも、ちょっと違ったみたい。と僕の隣に腰を下ろす。
「わたしが口挟むのも悪いけどさ、お母様さみしがってたよ」
「……ほんとうに?」
「うん」
「あの人は認知症だったでしょう?僕のことを覚えてくれていた母は、もういなかったんですよ」
「確かにそうだけど、でもレイコさんはレイコさんですよ!」
「僕にとっては違うんです」
僕は逃げるようにして防波堤から降りた。振り替えって、美波さんを見据える。
「母は死にました。もう、いいでしょう」
言い捨てて、背を向ける。
僕は情に浸るためにここに来たのではない。蝉の声をうるさく思いながら、僕は海を離れ、山手にある実家まで戻ってきた。
蝉の声にまじって、烏が叫ぶ。もうそんな時間か、と思ったけれどスマホの時計は三時すぎを示していた。
そう。僕はこの家の問題を解決しに戻ってきた。
靴を脱いで家に上がる。古い木造のこの家は、母方が代々住んでいた家だ。古い家というものは、小さな子供には怖いものだ。僕も実際そうだった。けれどこの家はもう、取り壊される。
……烏の声が聞こえる。
昔からだ。朝も昼も夕方も、四六時中喚き続ける烏。それも一羽じゃない。たくさんの烏の声が、どの部屋にいても聞こえる。
姿は見えない。でも確実に、いる。
幼いころ、まだ祖母が生きていたころだ。訊いたことがある。
「どうして烏の声がするの?」
伯母は微笑んで僕の頭を撫でて言った。
「お前のことを見て下さっているんだよ」
「僕の?」
「でも探しちゃだめだよ。お前が見に行っちゃあね」
烏は今も僕を見ているだろう。見守っているのか。見ているだけなのかは、いまだにわからないけれど。
烏はどうなるのか。その考えが頭から離れない。僕を見ていたあの烏たちは、死んでしまう?
この家は無くなる。烏たちはどうなるのかわからない。それならば、どうせ無くなってしまうのなら、見てみたい。僕を見る烏を。
「息子くん」
振り向く。美波さんだ。
「そんな顔しないでよ。レイコさんに片付けを頼まれてただけだから」
どうせ君ひとりじゃ出来ないんでしょ。
と美波さん。ひどい言い様だけど、的を射ている。僕は不満を飲み込んで、彼女を見つめた。
「そういえば、何か探していたみたいだけど」
「……烏の声が聞こえませんか?」
「烏の、」
空を見上げる。
「ああ烏!レイコさんがそんな話をしていたような……」
「僕を見ている烏を、僕は見たいんですよ」
「君を?」
「そう祖母が」
彼女はあまり興味がないようだった。訊いておいてその反応か、と少しふて腐れる。しかし彼女は、気にしない様子で言葉を継ぐ。
「それはそうと烏ってさ、なんで鳥とちょっとだけ漢字が違うか知ってる?」
「いえ」
「あのね、烏は真っ黒で目が無いように見えるでしょ。だから線が一本足りないんだよ。目を奪われちゃったみたいで、かわいそうだよね」
「どうしてそんなことを?」
「言ったでしょ、教師なの。それも国語のね」
「ふうん……」
僕は烏の声がする方に、奥へ奥へと進んでいく。美波さんがついて来ているけれど、気にしないことにする。
やがて声は、階段裏の床下から響いていることに気づいた。こんなところにいるのか?それなのに、家中に響く。
まぁいい。僕は傷んだ床板を、強引に引き剥がす。
暗い。懐中電灯……いやスマホのライトでいいか。
「息子くん」
「はい?」
「どうしてレイコさんのそばに居てあげなかったのか、訊いてもいい?」
「……母は僕の名前を忘れました。母はその他のこともどんどん忘れてしまいました。だから、全部忘れたあの人は、もう僕の母ではありません」
「そんな―」
「でも、あの人は死にました。死んで、あの人は居なくなりました。だから、母は戻ってきたんです。もう何も喋らなくなってしまいましたが、さっき見たあの遺体は、母でした」
僕は床下の暗闇に目をこらした。
「でももう、それはどうでもいいことです。僕はこの烏たちを見るために、戻ってきただけですから」
パッ、と明るくなる。
土台の木材が。飛び散った木片が。やわらかい羽が。汚れた灰色の巣が。そして真っ黒な烏が。
六羽。
「いた」
小さな巣に、六羽の烏がみっちりと納まっている。
ぬらぬらと黒く光る羽におおわれた丸い目。僕を見ている。啼いている。そしてその烏を、僕が見ている。
「一羽足りないね」
「え?」
僕が烏から目を離しているうちに、烏たちはぎゅうぎゅうの巣から飛び出し、片付けのために開け放たれた部屋に我が物顔で散らばっていく。
「それに、やっぱり烏には目がなかった」
と落胆したように息を吐く。
「息子くん」
「は、はい」
「見ちゃだめだって、言われてなかったの?」
「いやっ……」
「それに、一羽足りなかったし」
なんだか残念だな。
不意に美浪さんの、細い手がぬっと伸びてきて、僕の頬に両手を添えた。白い指。冷たくて目を細める。
彼女の親指が、僕の―。
「カァ」
と烏が啼いた。
ごめんね息子くん。
七つの烏
烏なぜ啼くの
烏は山に
可愛七つの
子があるからよ
可愛可愛と
烏は啼くの
可愛可愛と
啼くんだよ
山の古巣へ
行って見て御覧
丸い目をした
いい子だよ
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