空き教室、顔のない迷子

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空き教室、顔のない迷子

 一月の昼休み。僕は空き教室の一つに立ち寄った。  理由なんてなかった。ただ人に酔って、息苦しくて、迷子のように歩いていたら、行き着いた場所がそこだった。曖昧な痛みの導きで、僕はそれを見つけていた。  日差しを浴びて光る机に、鉛筆で刻まれた傷痕を。 『いなくなりたい』  僕はシャーペンを取り出すと、同じ机にこう書いた。 『いなくならないで』  翌日、僕は空き教室へ赴いた。  あの文字を書いた誰かは、どんな気持ちでいたのだろう。きっと、本気なわけがない。それでも、シンパシーを感じていた。  机からは以前の文字が消えていて、代わりに別の言葉があった。 『あなたは誰?』  こうして、僕らの奇妙な交換日記が始まった。  僕は、適当なことばかりを書いた。  どうせ暇潰しなんだ。顔も見えない相手なんだ。ギターが巧い友達がいて、バンドを組んでいるのだと書いた。本当は心を許せる友達なんて、一人だっていないのに。  相手のことも、少しずつ知った。  女の子で、僕と同じ高二だということ。読書が好きで、人が怖いこと。これから少し忙しくなるから、ここに来れなくなってしまうこと。それが少し、寂しいこと。僕の胸が、身勝手に痛んだ。 『君のことが、好きになったのかもしれない』  書いてから、後悔した。もう少し上手い嘘なら、堂々と胸を張れたのに。  彼女からの返事がないまま、三年の卒業式の日になった。  習慣で空き教室に向かった僕は、扉の前で立ち尽くす。  女の子が席に着いて、机に文字を書いていた。  ブレザーの胸には、僕ら在校生が挿した花。僕は、彼女の嘘を知った。  廊下の隅に隠れた僕は、彼女が教室を後にしてから、机に駆け寄って文字を見る。 『私も好きでした』  ああ、これは嘘だと思った。世界から隔絶された空き教室の片隅で、僕らは机を介して嘘だらけの会話をした。確かなものなんて何もなかった。  教室を出た僕は、走り出した。  実体のある僕という、嘘の混じりようがない姿で、彼女の声を聞く為に。
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