カワウソ

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 三学期も終わる頃、付き合っている彼女から川原に呼び出された僕は、ちょっと期待していた。  川原でおしゃべりって、いつもの教室デートとは雰囲気はまるで違うだろうし、今までしなかった話が出てきそうだ。彼女との距離が縮まるチャンスかも知れないと思ったんだ。  僕が委員会を終えて通学路脇の川原に行き、彼女である水樹の姿を見つけて声を掛けると、横顔を見せて座っていた水樹がふり向いて片手を上げた。  きらめく水面をバックに水樹のセミロングの髪が川風になびいて、その美しさに僕はドキッとした。  はね上がった鼓動を隠して僕は水樹に歩み寄り、隣に座った。 「話って、何?」 「別に。たまにはこんなシチュエーションもいいかなって思っただけ。」  川を見ながら答えた水樹が、ふり向いてにっこりした。  か、かわいい~!  僕は寸でのところでデレデレ笑いを消した。 「そうだね。今日は天気もいいし、あったかいし。」 「桜も咲いてるしね。」  対岸の早咲きの桜が、少しずつ、途切れなく花びらを舞わせている。  僕らはしばし、それに見入った。 「あのね」  水樹が切り出した。 「何?」 「私……春休み中に、アメリカに引っ越すことになったんだ。」 「えっ」  僕の驚く顔を見て、水樹はおかしそうに笑った。 「そんな大層なことじゃないよ。連絡手段なんていくらでもあるし、克哉は英語得意だから、1人でも会いに来てくれるでしょ?」 「そりゃあ、アメリカくらいなら行けると思うけど……。アメリカのどこ?」 「アーカンソー州って知ってる?」 「うん、知ってる。敬虔なキリスト教信者が多いことで有名だって、聞いたことがある。」 「それなの。」  水樹は両手の人差し指で僕を指差した。 「向こうへ行ったら、近所付き合いのために、私もある程度はキリスト教を学ばなきゃいけないかなと思って。キリスト教っていうか、信者の生活習慣とか。」 「ああ、それはあるかもな。」 「キリスト教ってさ……」  水樹は言いながら、体育座りの足元に手を伸ばして、たんぽぽを指で揺らした。 「結婚するまで清くいなきゃいけないじゃない?」 「そうらしいね。厳しいって聞いてる。」  僕は話の先が読めないまま相づちを打った。 「だからね………。はるばる会いに来てくれても、手もつなげないかも知れない。ご近所の人に見られたら、ちょっとさ。」 「別にそんなの。」  関係ないじゃないか、手ぐらい。水樹は信者じゃあないんだし。と言おうとして言えなかった。  海を渡って感動の再会のとき、僕は水樹に抱きつかずにいられるだろうか。挨拶程度のハグに抑えられるだろうか。自信がなかった。  水樹は僕のそんな内心を見透かしたように笑った。  そして言ったのだ。真顔で。 「清さを保つ、その本当の理由はね───向こうに行ったら、私は家族とは別に許嫁の家にホームステイするからなの。」  イイナズケノイエ二ほーむすてい?  なんの呪文だ? さっぱりわからないぞ。  僕は水樹の言葉を何度か反芻し、飛び上がった。 「い、許嫁?! なにそれっ、聞いてないよ!」  聞いてないよ!──水樹はお笑い芸人口調と仕草でくり返して笑った。 「笑いごとじゃないって!」 「笑いごとだよ。だって」  水樹は僕の本気の焦りを、なぜか喜んでいる。イラつきそうになった僕に、水樹は言った。 「だって、ウソだもん。」 「はあ?!」  僕はわけがわからない。 「ウソって、どこからどこまでが?」 「そうですねー。それはご想像にお任せします。」 「任されても困るよ! はっきりしてくれ!」  少しきつめに問い質すと、水樹はさすがに笑うのをやめた。 「アーカンソーに引っ越すのは本当。許嫁のくだりが、真っ赤なウソ。」 「もー! なんだよ、それ!」   僕は脱力してしゃがんだ。 「大事な話に、なんでそんなオマケ付けるんだよ。」 「向こうへ行く前に、克哉の本音を確認したかったから。」 「そんなの、どこでも聞けるじゃんか。わざわざこんな所に呼び出さなくても。」 「ギャグが聞きたかったんだ。」 「ギャグ?」 「たとえばー、『なんだそれ! あ、わかったぞ! 実はカワウソ、つまり可愛い嘘のつもりなんだろ! 川だけに!』とかさ。」 「言うわけないだろっ」 「それです。」  水樹はまた人差し指で僕を差した。 「付き合いが進むにつれて、克哉、ギャグ言わなくなってきた。自分で気づいてる?」 「え……。」  指摘された通り、僕には自覚がなかった。 「本当にしたかったのは、その話。だからカワ嘘をつきました。  遠距離になっても、あんまりシリアスにならないでね。私、それが心配なの。シリアスな恋愛って、余裕なさそうじゃない? そんなんじゃ、きっと続かないよ。」 「……かも知れない。」  僕は納得させられて、川に向いて膝に頬杖をついた。 「離れても、今日の私のカワ嘘、忘れないでね。」 「ああ。」  彼女との別離が近いことを急に実感して、僕は黙り込んだ。  対岸の桜は、相変わらず散り続けている。  だけど、もう何日咲いているだろう。ふしぎなほど減らない。  目を細めてみれば、まだつぼみがたくさんあった。  散るそばから咲くから、なくならないのか。  僕はそれを見つめたあと目を閉じて、水樹に贈る手紙を考え始めた。今は隣にいる存在が、遠くに行ってしまう。渡しておきたい言葉はなんだ?  余裕、余裕と、もう瞼が覚えている水樹の笑顔が僕をたしなめた。
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