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「……放して」
かすれて震える声で、私は訴えた。
石像は石像でしかない。影も影でしかない。動くわけでも、息をしているわけでもない。だが、にもかかわらず、私は影を捉えられ、身動きができない、そうとしか理解しようのない状況の中にいた。
だが、その時私を怯えさせたのは、状況の異常さよりも、悪魔そのものよりも、かれの身体の巨大で醜悪な性器だった。姉妹たちの身体にも見たことのない、誰の身体にも見たことのない、何なのかもわからないその異様な器官が、私は怖かった。
――自由が欲しいか。
私はぞっとした。
その声は頭の中に響くとかではなく、生々しい温度と体臭をともなって、私の耳元に、息吹ととともに吐きかけられた。
――望め。自由とは慾望。慾望とは力。
そのとき私がパニックに陥らず泣き出しもしなかったのは、不思議としか言いようがない。だがそれはきっと、勇気などといったものではない。こころの一部が麻痺していたのかもしれない。適性があったのかもしれない、と今は思う。
「放して……」
声を震わせながら大粒の涙をこぼしながら、私は訴えた。
――望め! ただ一言唱えよ、『望む』と!
「放して! わけわかんない! 帰らせて! お家に帰らせて!」
――望め! 望め! 望む!
「望む! 望む! 望む!」
何も考えられないまま、私は悪魔の言葉を繰り返していた。
火傷のような足の裏のひりつく感覚が、電撃のような瞬間の痛みとともに途絶えた。
私の身体は弾かれたように数十センチ跳んだ。
私は見た。
私の影が私から離れ、くるくると悪魔の手の中に巻き取られ、其の口に飲み込まれるさまを。
――契約は成った。成約のしるしとして、汝の影を頂戴する。代わりに私が汝の影となろう。
声が遠く、小さくなっていく。悪魔の論理のいびつさに気づく余裕は私にはなかった。薄れゆく意識の中に、悪魔の言葉が響いた。
――アーデルハイト、私が汝の自由となろう。
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