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 カラカラとした青空に白い雲が優しく触れている。ほぼ散り切った桜の花びらたちは、溶け込むように冷たいアスファルトを覆っていた。人々が一喜一憂して眺めた華麗な桜の面影はない。そして、桃色の季節の終わりと同時に、ひとつの命が消える。  人の少ない早朝のキャンパス。新緑の美味しい空気をわざと吸うようにして歩いていると、ポケットの中のスマートフォンが突然鳴った。画面には知らない電話番号が記されている。少し冷たい空気に隠すように、僕は電話を無視する。するとすぐさまもう一度同じ番号から電話がかかってきた。吸った新鮮な空気を吐き出し、仕方なく電話に出る。 「はい」 「あ、もしもし。T警察署の者ですが、ご家族に青嶋英二さんという方はおられますか」  聞き覚えのない図太い声で、父の名前が呼ばれる。おられるも何も、十年前に母を亡くしてから、家族と呼べる人間は父の青嶋英二しかいない。 「はい。私の父ですが…」 「息子さんですね。落ち着いて聞いてください。お父さまが交通事故にあわれて、意識がありません。今はK病院にいます。可能でしたらすぐに来て下さ…」  僕の声を遮って耳元を刺激した図太い声をわざと遮るように電話を切った。ドクンと大きく胸が鳴る。その三秒後、もう一度電話が鳴った。同じ番号だった。息苦しくなるほど心臓の拍動が激しくなり、体が宙に浮いたような不思議な心地が僕を襲う。かと思うと、頭の中に大きな石を何個も詰められたような重苦しい感覚が僕を包み、全身を痺れるように熱くさせた。訳も分からず立ちすくむ僕を我に返そうと、高い電子音がしつこく鳴り響く。周囲から好奇の視線がわずかに注がれる中、僕はただひたすら地面に寝そべる桜の花びらを見つめ、まだ弱弱しい日差しの下で体を震わせた。電子音と心臓の音の不釣り合いなコーラスが、吐き気を催すほど五月蠅かった。 ——意味がわからない。  乱れる心を、無理やり奥底に沈めた。  電話が鳴りやんだ頃、何とか足を動かし、歩き始めることができた。頭が真っ白になる、とよく言うが、そんなの嘘だと知った。頭のなかはどす黒い何かが渦巻いて、僕のあらゆる感情を全てのみ込んだ。その結果、訳も分からず、いつも通り、教室までの薄暗く無駄に長い廊下を歩き、重いドアを開け、小さな教室の中に入り込んだ。僕に気づいた友人が、笑顔で「おはよう」と言った。何で笑っているのか分からなかった。僕は、「おはよう」と返した。自分もなぜか笑っていた。  席について三分が経過した頃、再び電話が鳴った。切ろうとおもい、手にとったスマホの画面には「優紀さん」と書かれていた。今起こっている出来事が夢や幻ではないことを色濃くさせるこの名前に、一度は目を瞑る。けれど、それでも容赦なく鳴り響く音に目を開き、そっと教室を出た。 「はい」 「アキ? 今どこにいるの?」  久しぶりに聞く叔母の優紀さんの声は、激しく震えている。 「大学だよ」 「今すぐ迎えに行くから待ってて!」 「どうして?」 「落ち着いて聞いてね、お兄ちゃんが……」 「うん。聞いたよ」 「え……」 「さっき警察から電話あった」  そう言うと、電話の向こうから、優紀さんの冷たい呼吸が聞こえた。漏れ出る息が漂う沈黙が、僕の背筋をそっとなぞる。 「とにかく、行くから待ってて」  電話が切れると、わずかな苛立ちと、強い焦燥感が残った。僕だけが何も知らない。警察も、優紀さんも知っていることを、僕は一つも知らない。それなのに、彼らは勝手に、父がどうこうと騒ぐ。 ——もうやめてくれ  心の底から湧き上がる言葉を喉元に留めたまま、大きくため息をついた。唇がぴくぴくと小刻みに痙攣している。すぐそばの教室から、大きな笑い声が聞こえてくる。廊下を歩き始めると、何人かの人とすれ違った。知り合いだった。声をかけられた。けれど僕は無視をした。するつもりはなかったけれど。唇の痙攣が鬱陶しい。  気づくと大学専用駐車場の砂利の上に立っていた。さっきまではなかった強めの風に吹かれ、髪の毛が夏の稲のように大きくなびく。目に砂が入り、視界がぼやけるのと同時に、見覚えのある黄色いコンパクトカーが、僕の前に止まった。 「アキ!」  運転席のドアが開くとともに、優紀さんの大きな声が響く。そして間髪入れず車から降りた彼女は、砂利を思い切り蹴散らしながら、僕の方へと勢いよく駆けよってきた。 「アキ、アキ!」  優紀さんはただ、僕の愛称だけを連呼しながら、恐ろしいほどの力で僕を抱きしめた。乱れる呼吸を整えようともせず、涙に濡れた息を漏らしながら、僕の頭を撫でた。背の高い彼女の胸にうずくまる僕は、そっと暗闇の沼へと沈んでいきそうになった。その沼から這い上がるように、僕は彼女から無理やり離れた。  汗と香水が入り混じる匂い、青白い顔にへばりつく涙の痕、妙に震えている体。そのすべてが、僕に一つの事実を伝えようと必死だった。嫌気がさした。だから、吐き出した。 「死んだの?」 「え?」  優紀さんの赤く腫れた目が葡萄のように丸くなったかと思うと、すぐさまその視線は何もない道路へと注がれる。 「お父さん、死んだの?」  僕の言葉を受けた優紀さんの反応を見て、眩暈がした。彼女は唇をかみしめて小刻みに頷いたかと思うと、数多いる演技派女優を余裕で凌ぐ迫力で、激しく泣き始めた。それはきっと、演技ではない。 ——ああ。 こんな時、激しく動く心臓とそれにより震える体とは対照的に、思考は怠惰になることを知った。僕の見えない内にある細い糸がぷつりと切れる音がした。  立ちすくむ僕を無視して嗚咽する優紀さんは、何を思っているのだろう。兄である僕の父を亡くしたことへの純粋な悲しみに満たされているのか、それとも、ひとり残された僕への同情や憐みを爆発させているのか。少しでも後者が含まれているのなら、今すぐその泣き声を止めてほしかった。正直、五月蠅かった。  そんな僕の想いが伝わったのか、優紀さんはこれまた演技派女優を凌ぐ切り替えの早さで泣き止むと、僕に車に乗るように合図し、自分もすぐさま車に乗り込んだ。  車が動き始める。死んだ父のもとへ向かう車。外には笑顔で談笑する大学生たちが多くいる。僕は今いったい、何をしているのだろう。何をさせられているのだろう。死んだ父は、今どこにいるのだろう。思考がほぼ停止し、無気力で、体を動かすこともままならない自分は、首の座っていない赤子のように車に揺られた。青い空に触れていた雲は散り散りに消え、カラカラの空は、寂しそうに、偽の笑顔を浮かべていた。  
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