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残雪
春風が僕から冬を奪います。純白のドレスを召した新婦のように輝く街は、何食わぬ顔で走り去ってゆきました。ガラス窓の向こうから街が僕を見下します。朝日から目を背けて僕はカーテンをぴしゃりと閉じました。
スマートフォンが幾度かリズミカルに震えました。液晶は僕に背を向けているから、誰からのメッセージであるか分かりかねます。手を伸ばすことを躊躇した僕の口から、白い息がやわらかに舞い出ます。冬の冷たさがまだ残ることに胸をなで下ろし、まるで両親に見守られた幼子のように安心しきって、その四角い情報機器を手に取ります。
案の定、メッセージがいくつか、いや何十も表示されています。ほとんどは会社の同僚からで、早く職場に戻るようにという気を遣った文章で書かれた公開処刑の告知でした。
寒さのせいでない震えが起こり、僕の手から情報機器は離れてゆきました。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない、という風には考えるようになりました。早く立ち直って、ここから出て行くことが重要であると。
「スーツを着なければ」
広いベッドから這い出て、クローゼットを開きます。人の教えで買い込んだスーツがいくつかかけてありました。慣れた手つきではありましたが、肌には合わないようでスーツに着られている気がします。新卒の社員のような気持ちで着替え、最後に勢いよくジャケットを羽織りますと、胸ポケットから紙が一枚落ちていきました。
なんだろうと思いまして、特になにも意識しないままにその紙を拾い上げようとしました。白い吐息がその紙へかかるほどに近づいたとき、僕はそれがなんであるか理解してしまいました。おそらく僕が見ているのは裏面なのです。
5年ほど前の西暦と、日付、そして最後に『結婚』と綴られております。
それは、まるで残雪でした。春のおとづれを嘆く、かすかに積まれた雪たち。雪解けのはかなさを感じる、最後の雪です。冬の最後のひとすくい。
紙をめくります。純白のドレスに身を包んだ彼女は僕の手を取り、凜とした強気な笑顔を作ってそこに映っております。僕は恥ずかしさにゆがめた顔をみっともなくさらし、人々の笑いを誘ったものです。思えば、彼女は僕のそういうところが嫌だったのかもしれません。
春が来ました。もう、冬は終わりです。
僕は涙ながらに、写真をくしゃくしゃに握り、その場に崩れました。最後の残雪を、自らの手で、溶かしたのです。
《残雪》 終
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