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「椎名ぁ!昼食おうぜぇ。」
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ってからすぐ、俺の元へ近寄って来た内海敦稀に声を掛けられる。
授業中はいつも眠そうにしてるくせに、休み時間はいつだって元気そうな敦稀は人懐っこい満面の笑みを浮かべながら、俺の前の席に腰を降ろす。
「ねぇ、敦稀。髪に猫付いてるよ?」
栗色に染められた敦稀の短い髪には、クラスの女子がふざけて一つ前の休み時間に付けたパッチンタイプのピン留めが飾られていた。
その事を指摘すると敦稀の頬が少し赤らんで、気まずそうに目を泳がせた。
「……ああ。これね。……可愛いだろ?」
「うーん。可愛くはない!」
「何でだよ!」
恥ずかしさを隠す為に首を傾げて冗談っぽく聞いて来た敦稀に俺は見たままの感想を伝えた。
いかにも見た目が可愛い系の男子がこの猫を付けてるならまだしも、ばりばりの短髪野球少年に付いているので可愛いわけがない。
だって体が淡めのピンクで、クリクリの目に睫毛が三本生えてて、水玉模様の蝶ネクタイに、パステルカラーのワンピースを着た二足歩行の猫のピン留めだよ。
似合わなさ過ぎて笑っちゃう。
だいたいその短い髪によくもまあずっと落ちずにくっついてるもんだ。
でも、このピン留めを敦稀に付けた女子は敦稀の事が好きで、こんなに似合ってないのにも関わらずたぶん敦稀を好きなあの子には今の敦稀が可愛く見えてるんだろう。
恋は盲目ってこういう事だよね。
そして敦稀もその子の事を意識はしていて、やめろよと言いながらもされるがままになっていた。
今だって俺に可愛くないって言われてるのに外す様子もない。
もどかしい両片思いを見せ付けられて、もう早く付き合っちゃえばいいのにと言いたくなる気持ちはあるけど、可愛い二人の恋に水を差すような事はしたくないのでしばらく見守ろうと決めた。
「頑張れ敦稀!」
「え?何が?」
「色々!」
急に応援されていまいちピンと来ていない様子の敦稀は顔に感情が出やすくておもしろい。
何の事かよくわからないと正直に顔に書いてあった。
「敦稀またそのパン食うのか?よく飽きないな。」
敦稀を弄って遊んでいると、お弁当と一緒にいつも敦稀が食べているお気に入りのチョコレートデニッシュについて隣の席からそう意見をする声が聞こえる。
甘い物が苦手なせいでチョコレートデニッシュに注がれる顰めっ面。
何の罪もないチョコレートデニッシュが少し不憫に思えた。
「あ、縁お帰り。」
「んー。」
購買から帰って来た縁は俺のお帰りに短く返事をすると、椅子にドカッと座って買って来たサンドイッチとカレーパンを早速食べ始める。
今日のサンドイッチはたまごサンドらしい。
因みに縁だってサンドイッチの具が変わるだけで、ほぼ毎日同じメニューだから敦稀の事は言えないと俺は思う。
「エニーだって毎日ストレートティー飲んでんじゃん!よく飽きないな!」
「これはお茶みたいなもんだろ。それみたいに甘くねぇし。」
「そんな言うほど甘くねぇよこれ!」
「こないだお前にそう言われて食ったら死ぬほど甘かったぞ。」
「エニーは舌が大人すぎるんだよ!もはやおじいちゃん並だよ!老化だ老化!」
窓側の一番後ろが俺の席で、その前と横を昼休みには自然とこの二人が囲む。
昼休みになると俺の周りはいつもこんな感じでぎゃあぎゃあ煩くなるけど、そんなお決まりの楽しい光景に俺は気が緩んでふっと笑みをこぼした。
「……その無理矢理アメリカネームみたいな呼び方恥ずかしいからやめろって言ってんだろ。」
「いいじゃんエニー!かっこいいだろ!」
「かっこよくねぇよ!」
さっきから敦稀にエニーと呼ばれているのは、このクラスになってからできたもう一人の友人である本城縁。
日本語が上手い外国人じゃなくて、日本生まれの日本人である。
見た目も性格も大人っぽく落ち着いていて敦稀とは真逆に割とクールな奴だけど、冗談も通じるし無口なわけでもないので意外と会話も弾む。
敦稀が最近気に入って呼んでいるエニーというアメリカ人みたいなあだ名がクラスに浸透しつつあって、敦稀以外からもたまにエニーと呼ばれているところを見かけるけど、エニーと呼んで来た奴にため息を吐きながらもその都さっきと同じ対応している。
「お前のせいで最近瀬崎からもたまにエニーくんって呼ばれてんだぞ。」
「まじ?やったじゃん!」
「いや、全然やったじゃないだろ。」
「照れんなよぉ!嬉しいくせに!」
「……じゃあ、嬉しいついでに今度お前のグローブにその頭の猫のイラスト描いてやろうか?」
「……いや。それは勘弁……。」
「遠慮すんなよ!タダで描いてやるから。その可愛らしい猫ちゃん。」
「い、いらねぇよ!」
すごい悪い顔で敦稀のグローブに落書きしてる縁の姿が手に取るように想像できて俺は二人の会話を聞きながら思わず吹き出した。
「敦稀はわかりやすいなぁほんと!」
「何が!?」
「いやいや、こっちの話。ね。縁。」
「わかりやすすぎてこいつめっちゃゲーム下手だもん。」
猫のピン留めの件に触れられると、たちまち照れて焦り始める敦稀は弄りがいがあり過ぎて何回同じネタで弄っても全然飽きない。
本当にこの二人と居るのは楽しくていい。
「ゲーム下手なんじゃなくて俺は正直者なだけ!」
「言ってろ下手くそ!」
「エニーだって瀬崎さんに全然勝てないくせに!」
「瀬崎には勝てなくてもお前には勝てる!いつも圧勝だろうが!」
「あ。ねぇ、縁。瀬崎さん元気?最近会ってるの?」
度々会話に登場する瀬崎っていうのは縁の彼女さん。
縁の中学の同級生で中一の頃からずっと付き合ってるんだって。
だから今年でもう四年目という長続きカップル。
瀬崎さんは別の高校に通ってるけど、縁が紹介してくれた事があるから何回か敦稀と一緒に会った事がある。
聞き上手で控え目で、笑うとえくぼができる小動物系の可愛い子だった。
でも、見かけによらずゲーマーな彼女は縁をいつもボコボコにしてるらしい。
未だにどのゲームでも気持ち良く勝った事がないし、負ける事の方が多いとこの間ちょっと拗ねたみたいな顔で縁がぼやいていた。
きっとクールな縁の小さい男の子みたいな表情を引き出せるのは瀬崎さんだけだ。
毎月バイトの給料が入る日は、瀬崎さんと新しいゲームソフトを買って二人でやるんだって。
この話を聞いた時は二人が可愛い過ぎて敦稀と一緒にニヤニヤしてしまった。
「ああ。先週会ったよ。でもあいついい大学受験するから今の時期からもう来年の受験の対策に入ってるとかで忙しくなってるから前みたいに頻繁には会えてないけどな。」
「え。この時期からもう忙しいの?瀬崎さんどこの大学受けるの?」
「T大だってさ。」
「瀬崎さんはこっちで進学するんだ。……じゃあ、卒業したら遠距離って事?」
「たぶんな。……俺はまだ向こう行くかはっきりとは決めてないけど、今んとこ遠距離が濃厚。」
縁は去年の末に両親が離婚して、母親の実家で一緒に暮らす事が決まってるんだけど、母親の実家は地方にある旅館らしくてわざわざ編入試験を受けるのが面倒なのと、転校もしたくないと縁本人が希望した事もあり、高校を卒業するまではこっちで父親と暮らす事になったそうだ。
卒業したら進学はぜず母親の実家で働くと言っていたけど、父親には進学を勧められているようでまだ決めかねているとうのが本音なんだろう。
さっきまでの楽しそうな表情がほんの少し曇っているのがわかった。
「……そっか。縁はそれでいいの?」
「……わかんねぇけど、母さんを一人にしたくない気持ちが今は強い。瀬崎もその辺はわかってくれてるよ。ちゃんと話したし、卒業したら遠距離になるかもしれないって。」
「そうなんだ。……でも縁が向こう行っちゃったら俺も寂しいな。」
「たまに帰って来るし、お前らも来ればいいじゃん。部屋は腐るほどあるから。それにこっちで進学の件もまだ考えてるし予定は未定。」
卒業までの日々なんできっとすぐに過ぎてしまう。
そう考えると途端に寂しくなって眉を下げた。
すると縁がそんな俺をあやすように仕方ないなという風に笑う。
そして寂しさごと流し込んでしまうかのように残り少なかったストレートティーを飲み干すと、もう何も言わずに空になったペットボトルを机の上に置いた。
やっぱり大人っぽいなと俺は縁の横顔を見て思う。
ストレートティーが絡め取って流し込んだ寂しさは、縁の表情から少しの曇りを消してしまっていた。
「卒業したら毎年夏休みに俺と椎名と瀬崎さんでエニーの実家に遊びに行くから寂しくないぞ!エニー!」
「だから、エニーって呼ぶな!やめろ!あと、お前らが来る時に瀬崎は呼ばなくていい!」
「何でだよー!四人の方が楽しいだろ!」
「何で彼女と久しぶりに会う時にお前らも一緒なんだよ!おかしいだろ。瀬崎は俺が勝手に呼ぶから心配してくれなくていい!」
「あー!エニーのえっち!やらしいぞ!」
「うるせぇ!」
「あーあー!いいなぁ。俺も彼女欲しいなぁ!誰か俺と付き合ってくれないかなぁ!」
「……………………。」
「……………………。」
「今年の夏休みには彼女できてる予定だったんだけどなぁ……。何で俺こんなに彼女できないんだろ!こんなにかっこいいのに!」
「……………………。」
「……………………。」
縁からお前は早くあの子に告れよという呆れを含んだ無言の圧力を感じる。
そして俺もその圧力に乗っかって敦稀の彼女欲しい発言にスルーを決め込んだ。
「何で黙るんだよ!」
「椎名ぁ。明日帰りにちょっと本屋行かね?お前が前に欲しがってた小説古本屋で見付けたんだけど。」
「え。ほんとに?ネットで探してもなかったから助かる。ありがと縁。」
「なあ!何で無視すんの!?俺さっきから彼女欲しいなって言ってるんだよ!?恋バナしよ!?」
「あ。ごめん。俺、もう行くから二人で食べてて。」
「俺もう食い終わったし、ソシャゲするわ。」
俺と縁の敦稀弄りは止まらず、解せないという顔をしている敦稀に二人で顔を見合わせて笑った。
言っておくけどこれは俺と縁の愛情表現だから、決していじめではありません。
「二人して全然俺の話聞かないじゃん!椎名またどっか行くの!?エニーは相変わらず早食いだね!何のゲームするの!俺もする!」
お前らの弄りには屈しないぞというように俺と縁の二人と会話しようとしている敦稀を置いて、俺は昨日母に教えてもらいながら作ったクッキーを持って席から立ち上がる。
「じゃあ、俺ちょっと裏庭行って来るね。」
「なあ!椎名最近ずっと昼休みすぐ裏庭行っちゃうじゃん!何してんの!?俺とエニーも行く!」
「俺は行かねぇよ巻き込むな。」
「ええ!?気にならないの!?」
「うるせぇなぁほんとお前はぁ。」
うんざりした顔で縁は制服のポケットからイヤホンを取り出すと、両耳にはめてしまった。
だけど縁は、とうとうふくれっ面になった敦稀を完全な置いてけぼりにしないようにしれっと隣の席から俺が空けた席に移動して敦稀にもゲームの画面が見える角度で椅子に座った。
流石彼女持ち。
ケアを忘れずさり気ない優しさが滲み出てる。
「ああ!それこないだ教えてくれたゲーム!俺もやる!俺もやる!」
「わかったからお前はとりあえず早く飯食え!昼休み終わるぞ!」
敦稀の興味はすっかり俺が裏庭で毎日何をしているのかからゲームへと移り、拗ねている様子も伺えなかったので、二人の声を背中に感じながら安心して俺は教室を出た。
昼休みは一時半までで、今は十二時四十五分。
ちょっとでも早く裏庭に辿り着きたくて俺は教室を出てからすぐ足の動きを速める。
校舎の外には桜の木が何本もあって、昼間は暖かくなって来た風に吹かれた花弁が舞っては落ちて行く。
もう四月も終わりに近付き、ちらほらとピンクに混ざる若々しい緑が初夏の訪れを示している。
風に吹かれた花弁が何枚も地面に落ちてできた桜の絨毯を踏みしめながら進み、裏庭に行く途中にある自販機で飲み物を二つ買った。
ガコンと大きな音を立てて落ちて来た飲み物を手にすると、当たり前に冷たくて自分の手との温度差に恥ずかしくなった。
自販機の前にある渡り廊下を抜けて、一年生が主に使う北校舎に入り、そこから一階の教師の前を一直線に通り過ぎる。
一階の教室は普段生徒がいる教室ではなく、家庭科室や視聴覚室や自習室などがあってどこも昼休みの今は使われておらず電気はついていなかった。
誰もいない静かな廊下を進み、裏庭へ続く扉へ近付くにつれドクン、ドクンと心臓が期待に満ちる。
ここへ来る前にトイレに寄って鏡を見て来れば良かったと後悔した。
実は敦稀や縁と同じように、俺も今恋をしている。
顔を見るだけで嬉しくて、話すだけで楽しくて、一緒にいるとふわふわして安心する。
敦稀みたいに相手の行動を意識したり、縁みたいに会えない時間を恋しく思って時折寂しさを感じたり。
恋には色んな感情がある。
手に持ったクッキーを渡すかどうか俺はついさっきまで悩んでた。
何回も味見をしておいしいと思ったはずなのに、おいしくなかったらどうしようとか、そもそもクッキー好きかなとか。
こんな事をずっと考えてしまうのはこの感情が恋だと気付いているからだ。
お菓子なんか作った事もなかったのに、慣れない事をして寝不足なのも俺が恋をしているせいだ。
とうとう扉の前に辿り着き、この扉の先にいる人へとめどなく溢れる恋しさと緊張に怖気付いてしまいそうになる気持ちを深呼吸で宥め、ドアノブに手を掛けると回して扉を押した。
「……椎名。おはよう。」
扉を開けた瞬間にすっと顔を撫でた春風が俺の髪を揺らす。
ですでに火照り始めていた俺の頬にその風は心地良かった。
学校の周りにあるどの桜の木よりも大きいのは間違いなくこの裏庭の一本だ。
他の桜の木には緑が顔を出していたのに、ここだけは少し太陽が当たりにくいせいかまだ初夏の気配は訪れていなかった。
視界いっぱいに広がる美しく淡い色の下で清らかに優しく笑う俺の好きな人。
木の下に広がっている芝生に座っていた斎川が、読んでいた本から視線を外しもうお昼なのにおはようとゆったりとした声で扉を開いた俺に挨拶をした。
柔らかい猫っ毛の黒髪に桜が何枚か落ちているけど、本人は気付いてないみたいでじっと俺が側に来るのを待っている。
「……おはようってもうお昼だよ。」
「椎名が来るの待ってたら眠くて寝ちゃってたからおはようって。」
「本読んでたんじゃないの?」
「読みながら半分寝てて、ほとんど内容頭に入って来てない。」
大きな欠伸をした斎川は持っていた本にしおりを挟むと、自分が使っていたブランケットを畳んで隣に置き、その上をトントンと叩いた。
斎川はいつもそうやって俺が座る場所を気遣ってくれる。
出会ってからもう一年が過ぎているのに、こうやって優しくされる事が嬉しくてキュっと締まる胸が甘く鳴った。
「今日は何の本読んでたの?」
促されるまま隣に座り、俺は斎川を見上げて聞いてみる。
眠そうに下がってる眉毛と目尻が可愛い。
欠伸をしたせいで目が涙で濡れていて、睫毛が光っている。
目が合うと綿菓子みたいにまた柔らかく笑ってくれた。
「今日はシェイクスピア。海外文学読んだ事なくて。とりあえず有名なところから手を出してみた。」
「シェイクスピア……。」
「うん。読んだ事ある?」
「ないよ。シェイクスピアってすごい難しそう。ロミオとジュリエットの人だっけ?」
「君の小鳥になりたい。」
この話の流れで何で斎川が人を辞めて小鳥になろうとするのか。
俺にはちっともわからない。
「……君って誰?」
「んー。椎名かな。」
「……小鳥って何食べるの?どうやって世話するの?小鳥小屋はどんなのがいいかな?散歩は……俺の肩の上に斎川を乗せて二人で行けばいいよね!」
近所の野良猫に餌をやった事があるくらいで、ペットなんて今までに飼った事がない。
一向に何の話かはわからなかったけど、とりあえず斎川が小鳥になった時の為に環境を整えておこうと思った。
だから来世は安心して小鳥になって俺の所へ飛んで来て欲しい。
そんな気持ちで話していると、斎川がふっと声を出して笑う。
今日も斎川が俺に向けて沢山笑ってくれるから心が陽だまりにいるみたいに暖かかった。
「さっきのはロミオとジュリエットに出て来る台詞。ロミオが言ったやつ。」
「あ、そうなの?ていうか海外文学読んだ事ないんじゃなかったの?」
「読んだ事なくても有名な台詞くらいは知ってるよ。」
「……俺は知らないよ。」
「それは椎名が本読まないから。」
正直、斎川の言う通り本は全然読まない。
教室で縁が見付けてくれた本も俺が自分から読みたいと思った物ではなく、斎川が好きだと言っていたのを聞いてこっそり探していた本だ。
斎川の趣味が読書だから俺も普段から何か読んでみようかなとは思うんだけど、国語の教科書を見てるだけでも眠くなるのに小説なんて難易度が高い。
でも斎川が好きな物を俺も読んでみたかったっていうただそれだけの単純な思考回路が、明日俺に初めて小説を買わせるわけだ。
恋をすると人間ってみんな単純になるものなのかな。
だからって流石にシェイクスピアに俺が手を出すのはまだまだ早いと思うし、背伸びして手を出したところで五ページ以上読める気がしなかった。
「ロミオはジュリエットの小鳥になりたかったんだ。」
「そうなのかな。あまりその辺の事はわからないけど。……ジュリエットは小鳥になりたいって言ったロミオに、そうしてあげたい。でも、可愛がり過ぎて殺しちゃうわ。って言うんだよ。」
「………ああ……。ちょっと重いね。」
「読んだ事ないからこの台詞に至るまでにどんな背景があるのかは知らないけど、これだけ聞いたら重いよね。だから椎名がさっき現実的な話をし始めたのがおもしろくて気が抜けちゃった。」
「だって斎川が小鳥になるならまず環境を整えてから来てもらわないと!」
「俺が一番楽しみだなって思ったのは椎名の肩に乗って散歩するやつ。」
「じゃあ、小鳥になった時は毎日散歩しに行こ。肩貸してあげる!」
「うん。そうする。」
高校生の男二人がするにはメルヘンが過ぎる会話かもしれない。
でも、今ここには俺と斎川しかいないしちょっとくらい頭に花が生えてるみたいな会話をしても、二人だけの秘密で終わるからいいんだ。
「斎川は今シェイクスピアの何を読んでるの?」
「オセローだよ。」
「……オセロー……全然知らないや。」
日本の作家も知らないし、読む本は漫画ばっかりの俺がシェイクスピアのオセロと言われてああそれねとなるわけもなく、タイトルを聞いてもちんぷんかんぷんで粗筋も登場人物も知らない。
頭にはあの有名な白黒の丸っこい駒を使って遊ぶボードゲームが浮かんだだけだった。
「どんな話なの?」
「まだ少ししか読んでないけど、たぶん椎名には似合わない話かなぁ。」
斎川の独特すぎる説明にはもう慣れてしまった。
いつも斎川は物語を俺に似合うか似合わないかで説明する。
斎川から見て俺に似合うのはどんな物語で、似合わないのはどんな物語なんだろう。
縁は本をよく読むからシェイクスピアも知ってるかな。
後で教室に帰ったらオセローがどんな内容なのか聞いてみよう。
そう思いながらポケットから携帯を取り出してみると、ディスプレイには一時と浮かんでいた。
もうあと三十分も一緒にいられない。
その現実に聞こえない程度に小さくため息を漏らす。
斎川は同じ学年だけど、特進クラスだから教室も離れてるしこの昼休み以外は学校で会う機会があんまりない。
放課後も特進クラスは夜遅くまで授業があって、俺たち普通科より三時間も遅く終わるし、朝は一時間早く授業が始まる。
だから放課後にどこかへ連れ回す事もあまりできないので、俺にとっては昼休みのこの時間がとても大切だった。
惜しんでも惜しんでも俺の意思に関係なく、誰にでも平等に過ぎて行く時間は残酷だ。
高校生が何を大袈裟にと思われるかもしれないけど、そのくらい俺は斎川に惹かれている。
「椎名髪に桜付いてて綺麗。」
「え。ほんとに?」
「うん。ほんと。綺麗。」
「……綺麗って。別にわざと付けてるんじゃないからね?」
「そうなの?」
「そうだよ。俺そんなメルヘン趣味ないもん。」」
「でも似合ってるよ。」
まさか俺の髪にも桜が付いてたなんて予想外だった。
桜を取ってくれようとしたのか、じっと俺の髪を見詰めていた斎川が不意に髪を掬い上げて、指に絡める。
長い指に毛を巻き付けては解いてを繰り返しながら何を考えているのかわからない表情で、時々毛先を自分の鼻先へ持って行ったりしていた。
肩まである俺の髪で斎川はよくこうして遊ぶ。
その仕草にバカみたいな音量で心臓が鳴り始めて、一気に感情を乱された。
「……ねぇ、俺の髪で遊んでないで花弁取ってよ。」
「んー?……もう少し触ってたい。椎名の髪好き。」
「斎川よく俺の髪でそうやって遊んでるよね。楽しい?」
「楽しいっていうか……髪も綺麗だなって思って。……やだった?」
「……別に嫌じゃないけど。」
煩いくらいに聞こえる心音を隠して平静を装っている俺は、曖昧な返事をして頭を少し斎川の方に傾ける。
好きと言われたのは俺自身じゃなくて、髪の毛だけど手入れをちゃんとしていて良かったと思う。
俺は昔から顔立ち的に短いのより長いのが似合うと行きつけの美容室で言われていた。
だからなんとなく中学に入った頃から肩に当たるくらいの長さをキープしていた。
でもたまに気分転換に切ったりもしてたし、去年の夏は暑過ぎて耳下あたりまでバッサリいったんだけど、その髪を見た斎川がちょっと残念そうだったのと、髪が長いと斎川がこうやって触ってくれるのを知ったせいで、今年の夏は暑さと戦う事にした。
夏までに対策を考えないと暑さに嫌気がさして切ってしまいそうだから、母さんに髪の結び方でも教えてもらおうかな。
「花冠してる椎名綺麗だろうな。」
斎川が俺の髪にあった花弁をやっと指で外すと、花弁を摘んでいる指先にふっと息を吹きかける。
そしたら花弁は宙を舞って、ヒラヒラと儚く落ちていく。
斎川の唇に吹かれたピンクは遠くへ飛んで行く事はなく、俺の手の上に落ちた。
その花弁が左手の薬指に落ちた偶然を俺は運命と思ってもいいのだろうか。
「……何で急に花冠?」
「椎名の髪に桜が一枚付いてるだけですごい綺麗だったから。花冠ならもっと綺麗だろうなって。」
「……花冠なんてする機会ないし、俺男だし似合わないよ。」
「そんな事ないよ。椎名は綺麗だから絶対似合う。……花冠してる椎名見たいなぁ。」
斎川は俺をよく綺麗だと言う。
この言葉は昔から聞き慣れているつもりだった。
父親なんていないんじゃないかと思うくらいに母親似の俺は、近所の人は勿論、小中高の友人や同級生から幾度となくそう言われて来た。
白い肌や切れ長の二重が特に母親に似ていて、父親に似た所と言えば身長くらいだ。
小さい頃はよく女の子に間違えられたりもしていたらしい。
別に自分の事を大して綺麗だとは思わないし、見た目に自信があるわけじゃないけどそうやって言われ続けて来た言葉はいつの間にか自分の中で当たり前になって、誰に言われても笑顔で流す程度になっていたのに。
斎川に言われる綺麗は他とは違って特別に思えて、嬉しいと感じてしまう。
「……じゃあ、今週の土曜ハーブ園行く?」
「ハーブ園って……あの山の上の?」
「そう。あそこ色んな花があって、本物の花でアクセサリー作ったりできるんだって。こないだ駅に貼ってある広告で見た。もしかしたら花冠も作れるかも。」
「ほんと?」
「……たぶん?」
「作れたら付けてくれる?」
「……そんなに見たい?」
「うん。見たい。」
即答だった。
それはもう清々しいくらいのいい返事にこっちが恥ずかしく思ってしまうくらいだった。
花冠が作れるなんて広告のどこにも書いていなかったのに、斎川とデートがしたかったからもしかしたらと言ってみたわけだけど、これだけ見たいと期待されたら作れなかった時を思うと申し訳ない気もする。
でもそれ以上に斎川とデートというパワーワードが俺を誘惑していた。
こんな誘い方をしなくても別に斎川は来てくれると思うけど、好きだからこそ丸腰のストレート勝負をする度胸がなかった。
恋ってこういうところが面倒で時々疲れる。
もっと上手く誰もが簡単にできるようになればいいのになぁ。
それはそれでおもしろくないっていう人もいるかもしれないけど。
俺はその方がシンプルでいいと思う。
「ロープウェイで登って行くんだよあのハーブ園。楽しそうじゃない?」
「そうなんだ。初めて知った。」
「しかも今展望台にあるカフェでストロベリーフェアやってるらしい。」
「それは行くべきだ。うん。いいね。絶対行きたい。」
行きたいとそうはっきり言ってくれただけで嬉しくなる。
食べ物は何でも好きなところが可愛過ぎて苦しい。
料理のさしすせそも満足に知らない俺に、料理を勉強しようかなと思わせる斎川は本当にすごい。
「今週補講ないの?」
「うん。今週はクラス内順位が半分以下の人だけだから。俺はこないだの特進テスト六位だったし回避してる。俺より下の人たちとあんまり点差なかったからギリギリだったけど。」
「六位でもギリギリなんだ。」
「特進は二十人しかいないから。」
「あ、そっか。少ないんだよね特進は。」
「うん。……俺も普通科が良かったな。」
「やっぱりしんどい?特進。」
「……うーん。朝眠くて死んじゃいそう。」
「お疲れ様だねぇ。」
労いを込めてポンポンと斎川の広い背中を優しく叩くと、斎川が撫でて欲しい犬みたいに体を寄せて来た。
土曜はよく特進の補講授業があるみたいだったけど、今週は入ってないみたいで良かった。
毎日遅くまで勉強して、朝は早く学校に来て斎川は絶対疲れてると思う。
それなのにたまにしかない貴重な休みに連れ出していいのかなと迷いもするけど、斎川も行きたいって言ってくれたしいいだろうとポジティブに自分を納得させた。
疲れてる中連れ出す代わりに楽しい休みにして、気持ちをリフレッシュさせてあげられればいい。
休みの日に会える嬉しさが大き過ぎて今はまだ週初めの月曜日だから土曜日までの時間を長く感じてしまう。
早く、もう今すぐにでも土曜日になってほしい。
そして土曜がずっと終わらないでほしいと思った。
「……何か椎名から甘い匂いがする。」
「へ?」
近くで眠そうに欠伸をしていた斎川が急に俺の腰に腕を回して引き寄せたので、驚いて変な声が出てしまった。
逃げる隙も与えられないまま、トントン拍子に俺はそのまま斎川の腕に閉じ込められてしまって、斎川はというと興味津々で俺の匂いを嗅ぎ始める。
「……椎名いい匂い。」
「…………………。」
今斎川が察知してる甘い匂いはそこから香ってるんじゃないと言いたかったけど、急な接近に言葉が詰まってしまった。
正面からグッと抱き込まれて、髪にしっかり斎川の鼻が埋まっているし、唇の感触まで頭に感じた。
心臓が慌てて血を全身に送るせいでどんどん体温が上がっていくのがわかる。
頭の方から徐々に下へ降りて来た鼻がすっ、すっ、と空気を吸い込む音が近くで聞こえて、斎川の存在が耳や首筋を通って行く。
「ちょ、斎川。くすぐったいよ!」
斎川が近過ぎるせいで体が痺れたみたいに動かなくなって、背中に電流が走る。
くすぐったいなんてそんな子供じみた物じゃなくて、本当はゾワゾワとお腹の底から確かな欲を持って何かが這い上がって来るような感覚だった。
だけど、その感覚を声にして漏らしてしまうと自分が斎川に向けている気持ちを見抜かれてしまいそうで俺は必死に体や思考を包もうとする熱を抑えて、戯れてきた子供に笑いかけるような声で言った。
「椎名ぁ。これ何の匂い?いい匂い。いつもの椎名の匂いにもっと甘いのが混じってる。」
「わかったわかった。教えてあげるからちょっと離して。」
それにしても鼻が効くなぁほんと。
そう思いながら空気の香りを嗅いでる犬みたいにまだ鼻を動かしている斎川を緩く押し返すと、俺は自分の体の後ろに隠していたクッキーが入った袋を手に取って膝の上に置いた。
「俺から香ってるんじゃないからその匂い!」
「そうなの?」
「ほら!これ!……なんとなく昨日作ったんだけど、食べる?」
「何?」
「開けてみて。」
たまたまクマを象ったクッキーをネットで見付けて、どうしても作りたくなってしまったんだ。
理由は斎川みたいで可愛かったから。
斎川は身長が192㎝もあって、自分から積極的に話しかけるタイプじゃないせいか威圧感があるとか、無口で暗くて怖い奴ってイメージを持たれがちだけど、本当は他人を威圧するなんて事をまず知らないし、怖い一面なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。
すっごくおっとりしてて、一緒にいたら時間がゆっくり過ぎる。
マイペースだから会話の流れとかが急に変わったり、ぼけっとしてて何考えてるのかわからない時もあるし、いつも声が眠そうだけど、優しくて天然で本と動物が好き。
あと、大きい体に比例してご飯はいっぱい食べる。
絵に描いたような人畜無害。
とある童謡に出て来るクマさんみたいな奴。
「……わあ。クマだ。これってクッキー?」
「うん。そう。クッキー!」
「すごい。おいしそうだし、形作るの上手だね椎名。」
クッキーを手に取って、斎川はまじまじと見つめている。
クマがクマのクッキーを手に持ってる可愛い。
無防備に唇が半開きで可愛い。
食べるのもったいないって思ってそうで可愛い。
斎川から溢れる可愛いはどれも俺が斎川を愛おしいと思っているせいだ。
美術が苦手な俺が頑張ってチョコペンで描いた目や口はシンプルすぎて、表情が全部同じになってしまっている事にはどうか最後まで気付かないでいてほしい。
「ねぇ、これ斎川みたいで可愛いでしょ?」
「……俺ってクマなの?」
「うん。斎川はクマだよ。可愛くて優しいクマ。」
「そっかぁ。じゃあ、俺椎名の事食べちゃうよ。クマは肉食だから。」
「食べてもいいよ。」
「……椎名の事食べちゃったら俺が寂しいからやだな。」
俺がいなくなったら寂しいって思ってくれるんだ。
自分で食べちゃうよって言ったくせに、食べたら寂しいとしょんぼり眉毛を下げて困ったような顔になった斎川が可愛くて、俺の顔はついに我慢を忘れだらしないくらいに緩んでしまった。
「でもクマって木の実とかも食べるよね。斎川はほんとにクマになっても木の実とか果物だけ食べて生きてそう。狩りとか苦手でしょ絶対。」
「椎名それ大正解かも。」
納得したように頷いて、斎川は袋からクッキーを掴むと食べ始めた。
クッキーを噛む音が隣から聞こえて来るたび、斎川の舌に合うかどうかが気になって落ち着かない。
様子を伺うようにクッキーに向けられている斎川の顔を覗き込むと目が合って、その後すぐに斎川がふわっと優しい笑顔を浮かべた。
「おいしい。椎名も食べて。」
「俺は昨日味見でいっぱい食べたからいいよ。斎川に全部あげる。」
「……いいの?こんなに沢山。」
「うん。いいよ。その代わり全部食べてね!」
大きな手から差し出されたクッキーを受けとってから、また半開きになっている唇に差し込んで返してあげる。
すると、にっこり笑った斎川の唇からはみ出ていたクマの耳が形を保ったまま口の中に消えて行った。
おいしそうにモグモグ動く口を見て良かったと胸を撫で下ろし、自販機で買って来た紙パックのコーヒー牛乳を渡す。
「あ。俺の好きなやつ。」
「クッキーずっと食べてたら口の中カラカラに干からびちゃうからね。それもあげる。」
「ありがとう。今度何かお返しするね。」
「そんなのいいよ。俺が勝手にしただけだし。」
「……椎名俺のお嫁さんになる?」
自分用にと一緒に買ったフルーツオレにストローを刺して、唇を付けてから吸い上げた時に斎川が真顔で言った脈絡のない台詞に噎せそうになる。
どうしてそうなった……お嫁さんって……。
勿論俺はそういう意味で斎川が好きだけど、斎川はたぶん俺と同じ気持ちでこんな事を言っているわけじゃない。
それはわかっているけど、嬉しく感じてしまう片思い特有のこの無駄な期待。
斎川は天然の人たらしだって事もよくわかってるのに。
うんざりするくらいに俺は今斎川から出たプロポーズのような言葉にときめいてしまっている。
「斎川しってる?俺は男です!」
「うーん。……じゃあ、お婿さん?」
「訂正する場所そこなの?」
「……俺がお嫁さんじゃ変だよね。やっぱり椎名がお嫁さんの方がいいよ。綺麗だし。」
「それを言うなら斎川は可愛いからお嫁さんでもいいんじゃない?」
「……俺のサイズのウエディングドレスはないよ椎名。」
「俺だってないよたぶん。」
「椎名のはあるよ。椎名小さいもん。」
「俺が小さいんじゃなくて斎川がデカイの!俺の身長は平均より上ですぅ!」
そもそもどっちがどっちの立場って問題じゃないんだけど、話しながらみるみるなくなっていく袋の中身に嬉しくなったので細かい事を考えるのはやめた。
まあ、斎川が俺をお嫁さんにしてくれるなら万々歳だし。
ウエディングドレスを着るとなると男としてはしんどい物があるけど、斎川とずっと一緒にいられるなら五千歩譲って着てもいいかもしれない。
いっそ、もう婚約指輪でも強請ろうかな。
「んー。それなら二人でタキシードでもいいよ。」
「ああ〜。それはありかも。斎川はタキシード絶対似合うね。」
「椎名も似合う。」
「ふふ。そう?じゃあ、卒業するまでに斎川に彼女ができなかったら俺をお嫁さんにしてね。」
「いいよ。」
「……いいんだ。」
「うん。椎名と一緒は楽しいから。」
低くて優しい声で紡がれた言葉の後、俺に向けられる柔らかい笑顔に釣られて笑う。
何か幼稚園児がする約束みたい。
大きくなったら結婚しようねって。
ずっと二人でいる未来を疑わない、純粋で真っ直ぐな約束。
その約束が儚い物だという事に気付く年齢に俺はもうとっくになっているはずなのに、信じたいと思わせる恋心が意地らしくて憎くて、大好きで大切だった。
「……ねぇ。ずっと言おうと思ってたんだけど、斎川も付いてるよ。桜。」
愛おしい気持ちに押されて、どうしても斎川に触れたくなった俺はまだ髪に絡まる桜の存在を斎川に伝え、そっと手を伸ばす。
桜を取った時に指先に斎川の髪が触れて、ただそれだけで満たされて。
俺はすごく幸せな気持ちになった。
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