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色づく蕾
美沙の家の、カウンターキッチン付きの広いリビングで、わたしはひとり、小さなお弁当を食べた。
美味しくはないが、そもそもが、魂交換するまでは食べ物を美味しいと思ったことが無かったのだから、全く問題無い。
なにより、食事の間に母の声が聞こえないことに、わたしはまだホッとしていた。
けど、『美沙』 がこの2LDKのマンションでひとり父親の帰りを待つのは、寂しかっただろうと、ふと思う。
そして、そんなことを思うようになったのも、わたしが少しは人間らしくなった証拠だろうか、とも考える。それは嫌な感じではない。
わたしが 『優雨』 であった時は、ずっと人間に擬態していなければならないのがつらくて、どうしてウッカリ人間なんかに生まれたんだろう、と自身を呪うばかりだったが……
そうしなくても良い時間を持てるようになった今の方が、人間に近づけている気がするのが、不思議だ。
白くて何も見えなかったわたしの世界が少し色付き始めたから、だろうか。
―― もしかしたら、わたしを覆う固い蕾も、いつかは開くのかもしれない。
その時が来たら、わたしはいったい、何を望むのだろう。
何かしたい、何かが欲しい。その感覚は、まだよく分からないけれども…… 何かを望むようになったわたしを想像すると、また、胸の奥でなにかがコトリ、と音を立てる感覚があった。
壁の時計は、8時半になっていた。
「お父さん、まだかな」
声に出してそう言ってみると、少しだけ 『くすぐったい』 ような気がした。
わたしは簡単に食事の後片付けを済ませ、お風呂にお湯をためながら、シャワーを浴び始めた。
がちゃがちゃと玄関の鍵を乱暴に開ける音がしたのは、その時だった。
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