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たった5文字のその言葉は、温かみを帯びていた。
「ありがとう」
そう、その5文字は相手に感謝を伝える意。僕はこれまでどれだけの人に感謝してきただろう。
真っ先に思い出すのは、母だろうか。
一人暮らしをはじめてもう数年経つが、未だに僕は母に甘えていたんだなとつくづく思う。
「食器を洗ってくれてありがとう。お風呂を沸かしてくれてありがとう。バランスの取れた食事を作ってくれてありがとう。」
言い出したらキリが無いが、これまで当たり前だと思っていたそれらは、簡単な様で難しかった。
今でこそ、「ありがとう」と声に出せる様になったが、学生時代はなんだか恥ずかしさが先に出てしまい、あまり本音を言えなかった気がする。
1番嬉しかった「ありがとう」はなんだろう。そう考えると真っ先に浮かんだのは4年前のあの日だ。
「ありがとう……君の気持ちすごく伝わった…付き合おっか…私たち。」
大学2年の秋、僕は同じサークルの子に恋をした。一目惚れだった。
相手の返事は今でも思い出せるのだが、自分がなんと言って告白したか覚えていない。恥ずかしながらそれくらい緊張していた。
最初はぎこちなかったデートも、徐々に回数を重ねてスムーズに進む様になった。
ある日、僕らは映画を観に街へ出た。
彼女が好きなジャンルは恋愛ラブコメ。僕が好きなのはアクション映画だった。
互いに見たい映画を譲らない。
結局ジャンケンでなにを見るか決めた。
映画を観た感想は、こんなに甘ったるいなんて恋愛映画には何か添加物でも入ってるんじゃないか? と疑うものだった。
けれど、僕とは対照的に彼女は満足気で「楽しかったね〜観たいの譲ってくれてありがとう!」と可愛らしい笑顔を浮かべた。
僕はなんだか、その笑顔を見れただけで自分のことなんてどうでもよくなってしまう。
きっと、このまま彼女と付き合って大学を卒業して、社会に出て働いてそこそこ稼げる様になったら結婚するんだろう。……漠然で理想だらけの僕の考えは、あの恋愛映画を馬鹿にできないものだった。
それから彼女と付き合って四年……突然の出来事だった。
「どうした? お前から呼び出しなんて珍しいな。」
「う…うん、ごめんね。急に。」
どうにも今日の彼女は歯切れが悪い。
「話って?」
「うん、話ね……ここじゃなんだから、カフェに行こうか。」
僕は彼女に言われるがまま、チェーン店のカフェに入った。どの街にも必ず1つはあるであろうその店は、チェーン店ながら珈琲に対する意識が強い。店内のポスターには、『毎週土曜日美味しい珈琲の淹れ方講座開講』と書かれ珈琲信者を増やす活動に精を出していた。
僕はそれを横目にブラックコーヒーを頼む。……本当は甘い物が飲みたかったが、いかんせんこの店のメニューは、カタカナで複雑なのが多い。だから1番簡単なブラックコーヒーにした。
2人で席を探して座り、僕は慣れないブラックコーヒーを啜りながら「それで?」と、問う。
「えっと…出来た。」
え?
彼女の声は小さくよく聞こえなかった。
「なんて?」
「だから…その、Su…出来た。」
やはり今日の彼女はどこかおかしい。
「どうしたんだよ。今日ちょっとおかしいぞ。」
「ごめん。私好きな人できた。」
え……
さっきまで、耳にチェーン店特有の雑音が入っていたのが突然消えた。
目の前に座る彼女は今、何て言った…
「ごめんね。私、他に好きな人出来たの。貴方との4年間は私を人としてとても成長させてくれたわ……本当にありがとう。」
……いやいや。なに勝手に自己完結してるんだよ。
突然のことで僕はなにも口に出せなかった。
「これからは、私のこと応援してくれると……嬉しい。こんな私だけど貴方のこと忘れないわ。ありがとう……さようなら。」
その言葉を最後に彼女は逃げる様に店を出た。
「なんだよ、ありがとうって」
僕は彼女の残したコーヒーカップを見つめながら飲み慣れない苦いブラックコーヒーを啜る。普段なら飲めなかったその味は、少しのほろ苦さを残しつつゴクゴクと飲み干せた。
あぁ、大人になるって言うのはこう言うことを言うのか。
僕は彼女の残したカップと共に返却口に飲み干したカップを置く。
返却口の奥には、従業員が忙せわしなく働いていた。
「…ご馳走さまでした。」
僕の声は自分で思ったよりも、か細いものだった。
きっと目の前の従業員に届いていない。
そのままその店を出る。
すると突然後ろから声を掛けられた。
「お客様! お忘れ物ですよ!」
「あっ…すいません。」
あまりのショックでボッーとしていたせいか席にリュックを忘れていた。
「ありがとうございます…」
その言葉は自然と出てきた。
「いえ、またのご来店をお待ちしております。」
目の前の彼女の笑顔が例え営業スマイルだとしても可愛らしかった。
「はい…また来ます。」
僕はなんとも歯切れ悪くそう答えた。
ありがとうの語源は、諸説あるらしいが仏教用語にルーツがあると聞いたことがある。
なんでも「有ることが難しい」が、「有難い」に転じて「ありがとう」に変化したそうだ。「ありがとうの対義語は何か知ってる?」と、いつか彼女と話した気がする。
「感謝の言葉だから謝罪の言葉かな?」と、その時は無邪気に話していた。
けれど今なら分かる。
『ありがとう』が『有ることが難しい』なのだから対義語は『当たり前』なのだ。
母が当たり前の様にしてくれていた事は、決して当たり前の事ではないし、彼女と過ごした日々も当たり前の日々では無かった。
突然の別れ話をあのブラックコーヒーの様に簡単に飲み込むことは出来ない。
「ありがとう」は、たった5文字だけれどその中には相手に対する深い想いがある。彼女が口にした「ありがとう」はどういう意味があったのだろう?
今の僕は分かろうと思わないし、分かりたいとも思わない。いつか僕も彼女に対して「ありがとう」と心から思える日は来るのだろうか?
考えれば考えるほど目から涙が溢れ出た。
チェーン店を出ると、いつも通りの街が広がっている。僕らが別れた事なんて知らん顔する様に社会は周っていた。これまで普通に見ていたその街並は人々の営みによって成り立っていると改めて実感した。
「当たり前を大切に。」
僕は小さく呟いた。なにに対して言ったのか僕自身分からない。けれどこの一言を知った僕は昨日の僕とは全く違う。
これを機に何か新しいことをしよう。
さっきのコーヒーチェーン店で見た『毎週土曜日美味しい珈琲の淹れ方講座開講』のポスターを思い出す。……それと同時になぜか、僕のリュックサックを届けてくれた店員さんの顔が浮かんだ。
そうだ、ブラックコーヒーを飲めるようになったのだから少し珈琲について勉強でも始めてみようか……
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