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「クククッ」とその魔王と呼ばれる存在は、眼前で剣を構える勇者と呼ばれる存在に対して、嘲笑を漏らした。
「何がおかしい!」と勇ましい声で勇者は言う。その傍らには誰一人おらず、ただ勇者という男一人である。
それに反して、大きな角を、翼を生やした大男たる魔王の隣には、ローブを纏った側近らしき者がいる。表情は隠れて見えないが、魔王と同じく笑っている。
「いや、何」とあくまで魔王は落ち着いている。「つくづく人間は愚かと思ったまでよ。若造一人に世界の命運を託し、知らぬ存ぜずを通して、ただ己の無事を祈る。全く嘆かわしい……」
人間に絶望し、魔族に転じた魔王からすれば、それは丁度いい絶望の餌だったのだろう。嘆かわしい、とは口で言えど、世界を滅ぼす理由がまた補強されたと、ほくほくしているに過ぎない。
「違う!」とこちらはやっぱり勇ましい。「俺は刃なき人々の希望を背負って、ここにいるんだ! 人間を……俺の愛する人々がいる世界を! お前なんかに破壊されてたまるか!」
「そうかい」と魔王は澄まし顔。側近に指示を伝えると、後は事の行く末を笑って見つめている。
異常を察知する暇もなかったようだ。勇者が突然苦しみ出し、頭を抑えて苦悩するような素振りを見せた。剣こそ手放さずに持っているが、とても戦えそうにはない。
なんてことはない。魔王の側近が得意とする、精神攻撃だ。人間の記憶に干渉し、溢れんばかりにある悲しみ、後悔、虚無を増大し、以って戦闘意欲を失わせるのだ。この術に陥り、魔族に翻った人間も数知れない。
しかし、その苦痛は長く続かなかった。勇者は気合を込めて剣を振るうと、魔王達をきっと睨みつける。ここに至って側近が怯み「馬鹿な……!」と驚きの声を上げる。
「まぁ慌てるでない」と魔王。「これで片が着くとは、貴公も思ってはいまい。戦いに疑念を挟み込んだだけでも……」
「いえ!」と側近が珍しく反発する。「そんな筈はありません。ある訳がないのです。奴の記憶を探ってみたのだから、分かります。これで奴が戦えるというのならば、それは異常としか言えません」
そこまで言われると自信も失くすというもので、魔王は顎を撫でると「では、もう少し申してみよ。彼奴も気が変わるかもしれん」と小声で伝えた。魔王と名乗ってみたはいいが、元はたかが人間だからか、威厳が足りない。
「必至!」と側近は眼光強く――とは言え全く見えないが――返し、勇者の方に向き直った。こちらは既に臨戦態勢に入っている。
「どうした! これで終わりか!」
「いや、まだだ勇者。一つ……否、何個かお前に聞きたい、良いか?」
「いいだろう!」
止せばいいのに、勇者も自信満々で応答する。側近は頷いて、その疑念をぶつけることにした。
「これは、お前がこの城へ来る前、雪の町を訪れた際のことだ。お前は暫らく、不眠不休で歩き続けていた。にも関わらず、あの町の住民はお前を歓迎するどころか、近くの洞窟に駆り立てて、魔物退治の任を与えただろう。それでも、なんとも思わないのか」
「思わない!」
「その後も、誰もお前を休ませてやろうとはせず、それを見かねた少女の家に泊めてもらうことになった。そんな扱いを受けても……」
「だからどうした!」
「ではその少女が、勇者を恨んでいた子供達に石を投げられ、他の村人達からも冷たい目で見られていたことはどうだ」
そこまで直接掘り起こされて、ようやく勇者が口をつぐんだ。側近は会心の笑みを浮かべ、新たに追及の手を伸ばす。
「やがてその少女が、恰好の的として酒狂いの暴漢達に絡まれて、乱暴されそうになっていたことは? お前が間に合わなければ、あの子は……いや、傷つけられていただろう」
「それは……」
勇者はボソリと言ったきり、言葉に詰まってしまった。魔王は如何にも嘆かわしいという風に、大きな溜息を吐いている。
「多分、それはさ」と勇者が気弱に言葉を繰り返した。その語調の変化に、側近がおやと眉をひそめる。
「仕方のないことだよ、きっと」
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