0人が本棚に入れています
本棚に追加
1.
「無事かね。怪我はないか。噛まれたりは」
内ポケットから取り出したハンカチで仕込み杖の刃についた血を拭うと、老紳士は床に転がる犠牲者たちの死体を一瞥して、
「ここいらで狂犬病の患者が暴れていると言われてね」
その一つがぼくの足下にも転がっていた。窓から差し込む月明かりが、死体を幾つも保管するこの部屋を儚く照らす。
「あなたは……」
「そうだな。わたしの名前は」老紳士が近づき、「クレプスリー。衛生局の者だよ」
明らかにわかる偽名。胡散臭いけれど、何も考えられなくなったぼくは何の疑いも無しに受け入れている。
と、クレプスリーがペンライトを取り出し、
「これを見てくれ」
「……これは」
「アレだよ。『メン・イン・ブラック』という映画に出てくるアレだ」
その一瞬後に、目の前で閃光が走った。
ウィル・スミスが主演した映画の、目撃者の記憶を消す便利なアレ。
「真冬の肝試しもいいが、ほどほどにな」
とはいえ、クレプスリーは、アレがぼくに効かなかったことに気付いていなかったらしい。カメラのフラッシュでいつも白眼を剥いてしまう恥ずかしい癖が、今回は上手く働いていたのだ。
「連れの男性は残念だが、運が悪かった。お悔やみ申し上げる」
そして、ぼくは現実を受け入れるしかなくなった。
ダレンの死に。シャロンの死に。
「ダレンッ」
胸の前で十字を切るクレプスリーを押しのけて、ぼくはダレンのもとへ駆け寄った。
ダレンの首は骨が見えるほど深く抉れていて、女が噛みついた痕が残る腕は筋肉の腱がほつれている。タイルの床に広がるべっとりした赤い血。
「ああ……そんな……」
「さあ、後はわたしに任せて、きみは帰ったほうがいい。親御さんが心配しているぞ」
クレプスリーが急かすように言う。
ぼくは床に転がる犠牲者の死体を見た。飛び散った血の色は暗くてよくわからないが、それでもダレンの真新しい血の色とは違う。
離れたところでは少女の顔が真っ二つにスライスされて、腐った脳みそをこぼしていた。さっきまで動いていたのが不思議なほど腐乱していて、ニュースによれば、この一ヶ月以上前に死んでいるはずなのに。
「ウイルスに感染しないうちにはやーー」
「これは狂犬病なんかじゃない」
「ーーなに」
最初のコメントを投稿しよう!