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「ねえ、あの人、おいでおいでしてるよ。あの屋上へ来てって意味じゃない? 行ってみようよ」
彼女が少し興奮して提案すると、彼はスマホに視線をくっつけたまま、怒ったように言った。
「は? 僕は行かない。今、大事なところなんだ。大体こんな気味の悪い建物に、よく入る気になるよね」
気味悪いって。ひどい。
私がレトロ建築が好きなこと、よく知ってるくせに。
彼女はもう一度、屋上を見上げてみる。
確かにその女性はそこにいた。ウインクをして、両手で何かジェスチャーをしているのが見える。
それじゃ、彼は置いといて、あなただけ上がっておいでなさい。
そのジェスチャーは、そういう意味だと彼女は理解した。
「じゃ、私、ちょっとだけ、行ってきてもいいかな」
彼女は遠慮がちに彼に言ってみる。
「勝手に行けば? 屋上見るだけだろ。僕はここで待ってるし」
以前はこういう場合、一緒に行ってくれた。
彼女の興味のあるものに、自分も興味を持ってみたい。そう言って。
最近は、そんなことも全くなくなってしまった。
<君は、僕の水になってくれそうだったから>
彼と交際を始めてすぐ、自分のどこが気に入ったのかと訊ねると、そういう言葉が返ってきた。
水。生命の源。それがないと人間は生きられない。
彼は、その大切な水を自分に例えてくれたのだ。
その言葉は常に彼女の頭にあり、年月を重ねて付き合い方が変化していく中でも、彼女の糧になった。
自分は信頼される水になれるよう、頑張らなくては。彼のために。
けれども、最近、少し疲れてきたような気がする。
「じゃ、私、行ってくるね」
「ごゆっくり」
彼がスマホを見たまま、片手を上げた。
彼女が、かつて胸をときめかせた素敵な仕草だ。
「すぐ戻ってくるからね」
彼女は振り返ってもう一度声をかけたが、彼は面倒だったのか返事もせず、手を上げるポーズも取らなかった。
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