豚を抱いた日

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 きいーっとけたたましい音をたてながら、電車はせせこましい住宅街のなかをむりやり急カーブで曲がっていく。金属でできているまっすぐな車両たちが、こうも曲がりくねった線路を無事とおりぬけるのはなぜだろうか。中山望海(なかやまのぞみ)はいつもふしぎに思っている。  貴大に話せばきっと目を輝かせながら、ああ、それはね、とわけを説明してくれるだろう。いや、すでになんどか聞いたかもしれない。鉄道やまちづくりのことになると目を輝かせてなんでも語る彼の表情が好きなのだ。それが見たくて聞いてしまうし、貴大は常にこたえてくれる。  ピンク色のICカードは見た目がかわいらしいからと学生の時に作ったものだが、今はこうして職場に出る時の定期券として役に立っている。駅からバスに乗って十分ほどの、海にほど近い巨大な商業施設が望海の目的地だ。香苗に雑貨屋をやることになったから手伝ってほしいと言われ、かんたんな経理とレジ打ちくらいならできそう、と答えたのがきっかけだった。週三回、平日午後のそんなに忙しくない時間帯をあてがってもらっている。香苗ができる最大限の配慮だった。  望海と香苗は中学から大学まで一緒だった。香苗は大学で中国に留学し、帰国したときに望海のひとつ下に編入され、就職先が決まらず留年した望海と同時に卒業した。留年と間違えた望海が楽そうな単位を教えようとすると「それもう取ってる」と真顔で返されたのが変に思い出に残ってしまっている。  麻の糸で編まれた妙なかたちの帽子や革ひもに妙な色の石を通したイヤリングなどが雑然と並んでいる。望海はそれをせっせと整えて、店の奥に入った。 「おはよ」  香苗はけだるげに言った。望海はレジ台の脇を指でなぞった。指の腹が灰色に染まる。 「レジ台くらい掃除したら?」  その流し目どきっとする。  貴大に珍しくそんなことを言われたのが急に脳裏に浮かんだ。 「じゃあしてよ。あんたのほうが得意でしょ」 「はいはい。タイムカードよろしく」 「ん。頼んだ」  香苗は望海が入るといったん抜ける。商業施設にある喫茶店でお昼を食べにいくそうだ。ついでに煙草も吸うのだろう。結婚するとき、頼んでいないのに貴大は煙草をやめたが、香苗はやめそうにない。そもそも、香苗が結婚するとは思えないし、結婚を迫られる人生を歩みそうにもないと望海は思う。貿易商のひとり娘としてなに不自由なく育てられた香苗は昔から変わらず気が強く利発で、女子校時代は特に後輩から慕われていた。成績はもとより運動神経も抜群で、香苗の周りには絶えず女子がいたが、一方で大学に入ってもなぜか男の噂をまったく聞かなかった。  店の中は商品ばかりがこみ合っている。平日の昼間だからこんなものだと思っていたが、それにしても望海がいるときにレジをたたいた記憶が数えるほどしかなく心配になることもある。帳簿には一応土日にある程度の売り上げがあるようだが、平日は売り上げがない日もちらほら見かける。それでも香苗の人件費はないし、従業員は望海しかいない。簿記三級をとったばかりでも十分帳簿をつけられる規模だった。仕入れも父の伝手で安く抑えられるし、ここの家賃も大幅に下がったから店を出せるのだ、とは香苗の談だが、なるほど全体の客入りが悪ければ家賃を下げざるを得ないだろう。働きやすいところとしてこれ以上の職場はない、と望海は思う。  ぼっとしているうちにも客の入りはなく、見逃しも当然なく、香苗が帰ってきてからようやく中高生にネックレスや指輪が少し売れて夕方になった。 「見てこれ。売れてる」  売り上げに四桁の数字を入力して望海はつぶやいた。 「まあ、でももうちょい売れてほしいよなあ」  香苗に売る気があることにいささかびっくりしながら、望海はふんふんと頷く。 「あんたもあたしも商売っけないもんねえ」  同意するのは少し気が引けたのだが、実際その通りであることは隠しようもなく、望海はばつが悪そうに笑ってごまかした。  急カーブを抜けた先の駅は、新津田沼というらしい。その名の割に駅舎も周りも古くさいと望海は思っている。この新津田沼駅でいつも乗客が大量になだれ込むのだ。今日も望海は思わず立ち上がった。座っていた席は彼女が想像していたような気のやさしい老人ではなく、サラリーマン風の中年男性にとられて、だれにでもなくため息をついてしまった。次の駅で降りていくひとの波にうまくまぎれこんだはいいが、いつも寄っている駅前のパン屋が早く店じまいをしてしまっていた。落とした視線の先に銀色の指輪が光る。今日は貴大の職場がノー残業デーで早く帰ってくる日だった。 「ただいま」  貴大は定時からわずか一時間で玄関の扉を開けた。のそりと音がしそうな鈍重な足で廊下を歩けば、か細い手がちょうど冷凍されたご飯を電子レンジに入れるところだった。 「おかえりなさい」 「かってきたよ」  使い古されたビニールの袋からパック詰めされた総菜がキッチンに並べられる。コロッケ、やきとり、ごぼうサラダ。 「カットサラダは?」  言葉通りのものが続けて現れる。 「ありがと」  望海はカットサラダを受け取ると、袋を破いてどんぶりにあけ、コロッケを並べた。  中山家の夕食は、時間帯の差はあれたいていこのような形になる。特に望海が働く日は貴大が駅前から総菜を買って帰る。貴大の好みは茶色いおかずが多い。コロッケ、とんかつ、やきとり、酢豚。このどれかと、ごぼうサラダかポテトサラダがついてくるのがほとんどだった。夕食を夫婦一緒に食べる時間が望海にとってささやかなひとときであった。 「大塚さんがいきなりやめると聞いたからびっくりしました」  勤めていた市役所をやめる日、後輩にそう言われたのを望海は思い出した。隣の席に配属になった彼は国立大学を卒業しており勉強熱心で望海のどんな言葉にも耳を傾けていた。同じ大学の先輩であったこと以上の熱量を注がれていることに感づいてはいたが、そういうつながりがなければとりたてて特技のない自分に対してどういう態度をとっただろうと思うとどこかうすら寒い気持ちになってしまい、なんだか好きになれなかった。彼のみならず、市役所はどうにも好きになれないひとばかり目についた。悪いひとばかりではないのは明らかで、ただどちらかといえば、仕事の同僚をみるたびになんだか自分がどうしようもない存在に思えてくることのほうが多く、それが一番つらかった。 「ご結婚おめでとう」  いろいろなひとに言われたこの言葉を望海は未だになんて返せばよかったのかわからないでいる。ありがとう、ではない。彼らに何か結婚に関して感謝するようなことをされたわけではない。すみません、も違う。謝るようなことをしたわけではない。強いていえば仕事に穴を作ってしまうことくらいだろうが、それだってきちんと引継をすませている。お構いなく、も違うだろう。不幸な出来事ではない。けれども、祝われるほどのことなのだろうか。親から逃げるように去ったみなとまちの市役所は、その問いに気づきもせずただ望海を儀礼的に祝って、追い出した。なにも悪くはない。上司から餞別代わりの金一封を、後輩の彼からささやかなシルバーのネックレスをそれぞれ貰った。金一封は新婚旅行に使ってしまったし、ネックレスは気味が悪くて貴大に相談してフリマサイトで売ってもらった。そのお金で宅配ピザを頼んでふたりで食べてしまった。ピザ屋なのにフライドチキンが柔らかくてとてもおいしかったのを望海は今でも思い出す。いつかまた食べたい。  ぐご、ぐごごごごおおおおおお。  隣の部屋から轟音が聞こえる。貴大が無事眠りに落ちたようだ。望海の不安をいびきは瞬時に消滅させる。ぐご、ぐご、ぐごごお。貴大はリズミカルに轟音を奏でた。ぐご。リズムは途中で消失する。望海はこっそり隣の部屋をのぞいた。セミダブルのベッドを占めている貴大のおなかが止まっている。なんらかの理由で呼吸が途中で止まってしまっているらしい。どうも気になってスマートフォンで調べたところ、いびきが止まるたびに呼吸が気になるようになってしまい、毎夜彼女は部屋をのぞく。身体の上に乗り、首の下をとん、とたたく。おなかが動くまで、とん、とん、とたたき続ける。  ずっ、ぐごごごごごおおおお。  貴大の呼吸は見事に再開され、望海はため息をついて、彼の上に寝そべった。貴大の身体は望海のそれよりも少しだけ温度が低いせいかひんやりしていて、気持ちがよく不思議と落ち着く。  貴大と出会ったのはスマートフォンに入れたマッチングアプリだった。三十を間近にして急に結婚に焦り始めた香苗が半狂乱で始め、みるみるうちに「いいね」がつくことに怖くなって望海に泣きついたのがことのはじまりである。結婚願望も恋愛願望も特になかった望海は、両親にアプリを入れる報告をしないまま、香苗の横でかんたんな個人情報を入力してさっさと始めた。始めて数日で香苗の「いいね」の数を抜き、二週間もすると香苗の三倍を超える「いいね」を獲得していた。「いいね」やメッセージを送ってきたひとすべてに望海が何らかのレスポンスを返しているのを見て、香苗は憑き物が落ちたかのように更新をやめてしまった。昔こんなゲームをやったな、と思いながらメッセージや「いいね」にそれらしい返事をしていればどんどん自分のステータスがあがっていくのがおもしろくて、いっときだけ望海は夢中になった。香苗がいっさいマッチングアプリの話をしなくなったころ、望海のマッチング相手に貴大が現れた。  隣の市役所の職員であったことがマッチングした理由だったようだ。「まちづくりに興味があります」というひとことだけの自己紹介のせいか妙に「いいね」が少なく、最初はなんとなく応援する気持ちで「いいね」を押した。しばらくして見ると何の更新もされておらず、このアプリではもはや「マナー」になっている「いいね返し」すら来ないので余計に気になってしまい、「わたしは隣の市役所に勤めているのですが」というはじまりの、数千字にも及ぶ、仕事や家族の愚痴と上から目線が入りがちな自分語りメッセージを贈ったのがきっかけだった。彼女に真っ先に「いいね」を贈り、メッセージにも好意的に反応し、すぐに「会いましょう」と持っていくような男だったらこんなことはしなかっただろう。まずそんな男が自分と結婚したいのだろうか、と思ってしまうし、仮に感触がよくても、どんな反応をすればよいか、どう振る舞えばいいか考えているうちに成約退会という表示が出てしまうのがいつものことだった。この点に関してだけは望海と香苗は全く同じだった。実のところ、これまでマッチングアプリをやりこんでいたにもかかわらず、そこから発展した関係になるどころか、男性と会うことすらしていなかったという点において、望海と香苗は同じステージにいたのである。  貴大は望海の長い自分語りのメッセージに「大変な身の上なんですね」と極めて興味がなさそうな短い感想をのべ、「調べてみたらその市のこと、なんにも知りませんでした。隣の市なのに、お恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした。もしあなたがよろしければ、いろいろお話をお伺いしたいので、よろしければお会いできませんか」とこれまたかけひきのかけらもないような妙にへりくだったメッセージを返し、その下心以下のお誘いにむしろ、このひとであれば自分の身の上や今までのことを全部話してもいいかもしれないと思い会うことに決めたのだった。  市境近くのファミリーレストランで、貴大は大きな身体を小さく折り畳むようにして望海に頭を下げた。日本でもっとも有名な新幹線と同じ名前であることに貴大は感銘を受けたらしい。ほかの「のぞみ」さんにも同じようにおっしゃっているのですか、と聞いたらちょっと目を丸くして、そうですね、もし出会っていたら、たぶんそう言っていたと思います、といい、それが望海の「つぼ」にはまってしまった。以来順調にメッセージをやりとりし、月に二、三度くらいの頻度で市境のファミレスで合流し夕飯を食べたりしているうちにどちらからともなく結婚しましょうということになった。望海に異論はなかった。けれど、なぜ結婚したのかと問われると、どう答えていいのかいまだにわからなかった。 「いやほんとさあ、いつも思うけどさ」  特に香苗からは何度も聞かれている。 「貴大さんのどこがいいわけ?」  月の売り上げがよかったから、という理由で仕事の後に商業施設に入っているイタリア料理店でワインを飲みながら、香苗はややきつい目つきで聞いた。貴大との結婚を反対する人間は望海のまわりにもいた。両親と並んで熱心に反対していたのが香苗だった。 「うーん、いつも考えてるんだけど、わからないんだよね」 「わかったらすげえわ。あたしも貴大さんと結婚するわそんなん」  はあ、と香苗は深いため息をついた。 「まあ、結婚はいい。あんた変だし、貴大さんもなんか変だし。でも、さあ……」  香苗の言葉はしっくりこなかった。望海は、生まれてからずっと自分が変だと思ったことはない。ただ、ふつうであると思ったこともなかった。  香苗や両親の言い分はそれなりに正しかった。年齢は望海のひとつ上だったが、昇格が遅れているらしく望海より給料は少なかったし、いつも定時で帰ってくる。その理由は望海もよくわかっていた。 「ふつうキスもセックスもしないで結婚して、そのまま一年なんもなしで過ごすか?」  多くのひとびとが別の言葉で置き換えるところを、いつも「セックス」と言うところが望海はこっそり好きだったりする。 「別にそれがしたくて結婚してないし」 「そこなんだよなあ。なんでそんな、赤の他人に自分の人生全部預けられるんだよ。変だよ、変」 「でもみんなやってることだよ」 「いやあんたのはたぶん違うよ」  たしかにどう見ても貴大は見た目もよくなければ経済力が特段あるようにも思えないし、香苗の言うとおり、「人生を預けるには頼りない」ように思えた。今の住居も旧公団住宅のひとつで、公務員であれば敷金礼金がいらないということで借りている。自室をゲーム機や鉄道模型で飾っている彼は一応家計を慮ってはいるものの、貯金をしている形跡はなかった。彼についた「いいね」が極端に少ない理由を望海はとっくに、身をもって知っていた。 「んでそんな男と結婚しておいてふつう仕事やめる? だいたい公務員同士だから結婚したんちゃうんか?」  酔った香苗はなぜかえせ関西弁がでる。語気が強まるのが好きらしく、お説教では必ず使うのだ。いつものお説教を望海はかるいほほえみで受け流す。実のところ香苗は望海がなんとなくほのかにうらやましいのだが、どちらもそのことには気がついていない。 「まあね。でも貴大さんのお給料で暮らせなくはないし、仕事のはなしをしたら『そんな仕事、しなくていい』って言ってくれたから」  したくない仕事もしなくていいし、いいたいことは言っていいよ。ここには君になにかを強制する人間は誰もいない。それだけは、覚えていてほしい。  よく覚えている貴大の言葉だった。望海が貴大と結婚を決めたのは、実のところこのひとことがきっかけだったともいえる。父親に指示されたとおり中高一貫の女子校を受験し、指示されたとおり地元の国立大学を出て、指示されたとおり地元の市役所を受験して結局そこに勤務することになった望海にとって、したくないこともするのが当然だしいいたいことでも言わないのが当然のことだった。  はあ、と香苗は大きくため息をついた。がっくりとうなだれる。深酒すると彼女は落ち込む。 「あたしが言うのもアレだけどさあ、あんたってけっこうなビジンじゃん」 「そうかな、それいうの香苗と貴大さんだけだよ」 「えっ、あの豚気づいてんの、てか言うの?」  香苗ははっ、と口を押さえた。ごめん、と手を合わせる。望海はからりと笑う。 「確かに。貴大さんって豚だわ」  えっ、といぶかしむ香苗に、望海はからからと笑いながら続けた。 「貴大さん、毎日すごい大きないびきかいて寝てて、おなか揺らしながら寝ててかわいいな、って思ってたんだけどさ、今わかった。豚みたいなんだ」  高校の時に、豚を育てて豚肉にする授業あったでしょ。  香苗は、ああ、あったわと答える。高校時代、「いのちの授業」と題されたカリキュラムの一環として、クラスで豚を育てて、それを屠殺場まで連れて行き豚肉として調理するまで行うという授業があった。望海と香苗は同じクラスだったのだが、仔豚に名前をつけましょうという流れで、望海が珍しくいの一番でぴしっと手を挙げ、「ぶた」はどうでしょう、豚ですし、と言ったことがきっかけで望海のクラスの豚は「ぶた」という名前になったのだ。 「今思い出してもウケるな。『ぶた』って」 「あれ絶対ほかの名前にはできないと思ったの。かわいい名前にしたらみんな泣いちゃうなあって」 「マジで? そんなこと考えてたの? なんかあんたってそういうとこあるよなあ」  屠殺場に送るときに、周りのクラスでは反対する声や泣き出す生徒がいた中、望海のクラスは、「うまい肉になれよ」という香苗の声援を筆頭にみんな笑顔で送り出したのだった。間違いなく、望海の考えた通りだった。 「最初からなんか見覚えあると思ったら、あの豚に目が似てない?」 「うん。つぶらな感じが似てる」  なるほどなあ、と香苗は頷いた。 「あのときの豚、あたしらに食われて恨んでないかな」 「ないと思う。食べられるために育てられたわけだし、わたしらだっておいしく食べたし」 「たしかに。ベーコン作ったなそういえば、ほんと懐かしい」  豚肉になった「ぶた」はクラスのひとりひとりに配られた。望海と香苗はたまたま肩肉だったので香苗の家にあった薫製機でベーコンにしてしばらくふたりの朝食になった。 「あのとき食べていただいた豚です」 「豚の恩返しか」  ふたりで申し合わせたように、人差し指で鼻の頭を押した。豚の鼻が向かい合った。 「あたしにも来るのかな、豚」  香苗の低く頼りない声に望海はうろたえた。どう声をかけていいかわからなかった。 「なーんてね。王子様でも豚でも、来なくてもいいやって、最近思うんだよね」  おどけて笑うのをみて、望海は胸をなでおろした。  香苗に必要なのは豚ではないと思う。  望海はさすがに言えなかった。  ぐごごごごおおおおおお。  玄関の扉を開けた望海を、貴大のいびきが迎えた。  なぜ香苗にきちんと言うことが出来なかったのか。それは自分が結婚できたことの優越に浸りたかったからではないのか。  ぐごごごごおおおおおお。  望海のこころの底から出てくる、だれのものともしれない声を貴大のいびきはすべてかき消していく。細い身体が部屋の壁によりかかって、大きくため息をついた。吐いた息がベッドのすぐ下に入り込んでいった。  貴大の身体をいつものように抱きしめる。柔らかいのに、どこかしっかりみっちりしている身体を望海は幾度抱きしめただろう。あの頃豚を抱きしめていたら、きっと同じように感じただろうか。豚がただの肉の組み合わせになったときに、悲しくて涙を流すことができたのだろうか。香苗がいいかけた言葉を望海は誰よりもしっかり感じていた。恩知らず。薄情。サイコパス。香苗ですら言いよどむその性格を、自覚していた。しすぎていたともいえるだろう。貴大もいつか解体してベーコンにして、笑顔でおいしいおいしいといいながら食べてしまうのだろうか。  ぐごごごごおおおおおおおお。  浮かんでくる小さななにかをいびきがどんどんかき消していく。せめて化粧を落とさなきゃ。いつの間にか化粧を落とさないと大変なことになると知ってしまった。いつからだろうか。  ぐごごごごおおおおおお。  望海の言葉をいびきは容赦なく消し去っていった。わたしは豚を抱いていればそれでいいんだ。それが幸せなんだ。言葉が泡のように浮かんでいびきとともにはじけて消えた。  射し込む日光で望海は布団から目を覚ました。姿見から見える顔は昨日起きたときとほとんどかわらなかった。  貴大は仕事に出かけてしまっていた。香苗の店は休みだ。洗濯機が電子音を出して止まった。スマートフォンには「せんたくものおねがいします」と貴大のメッセージが出ている。自分の上で寝ている妻を運んで、布団に寝かせ、化粧もとったのだろうか。いや、貴大が化粧の落とし方を知っているとは思えない。少なくとも化粧は自分で落としたのだ。ただ、確証がなかった。自分のほほをさわっても何も違和感はない。学生時代から数えても酔って記憶をなくしたことはほとんどなかった望海にとって今朝は衝撃だった。意外と覚えていなくてもどうにかなるものなのかしらと思いながら、洗濯物を取りに向かった。  アルバイト情報誌をめくっても面白そうな仕事は見つからない。インターネットの掲示板などを調べても市役所はすこぶる評判がよく、きわめて働きやすい職場だという言葉が並んでいた。多くのひとにとってはそうであったのだという事実が余計に望海をげんなりさせてしまった。退職理由も結婚するというひどく薄弱な名目で、実際のところ香苗が言うようにやめるような理由なんてなにひとつなかったのだ。この情報誌に並んでいる、見るからに単調そうだったり大変そうだったり夜中や朝方働きに出るような誰も進んでやりたがらない仕事が自分に出来るようにも思えなかった。結局のところ、香苗の店の手伝い以外に望海の職はなく、日当たりのいい旧公団住宅のはしっこで体育座りをしてアルバイト情報誌を読みあさることでしかここにいられないような気がしていた。もちろん貴大にそうしろと言われたこともなければ、そうすることを推奨するそぶりも見たことがない。ただ、貴大にはおそらく貯金がなく、何か事故があって多大な金額を必要とする事態になってしまえば、誰も頼ることはできないのは明らかだった。貴大と結婚する際、裏で縁談をまとめようとしていた父親に「失望した」と言われ絶縁を言い渡されたし、貴大の両親はもう亡くなっている。望海の影は自分のそばからいっときも離れずそこにありつづけた。  日が短くなり辺りが暗くなって望海は我に返った。干していた洗濯物をたたみ、貴大のものと望海のもの、どちらのものでもないものに分ける。整理整頓が貴大のもっとも苦手とすることのひとつだったようで、衣類をきっちりたたんで並べて見せただけで貴大は驚いて拍手してくれた。以来洗濯物の仕分けは望海の仕事になった。  帰ってきた貴大はほんのすこしばつが悪そうだった。ありがとうと望海が言っても目をそらしてうん、大丈夫だよと答えるだけだった。化粧の件について、どちらも口にすることはなかった。  ぐごごごごおおおおおお、ぐご、ご。  望海が風呂からあがると、ちょうどいびきが詰まるところだった。パジャマを着て部屋に入ると、大きなおなかの上に乗り、胸をとんとんとたたく。が、いつものようにすぐに息は通らない。とんとん、とんとん、とん。少しリズムを変えても、強めにやってもだめだった。息が聞こえなくなってどれくらいだろうか。望海は怖くなった。貴大が死んでしまう。疑われるのは自分しかいない。夫を殺した罪はどれくらい重いのかわからない。望海は一生懸命貴大の身体をたたいた。貴大には死んでほしくなかった。貴大の肉だけはどうしても食べたくないと思った。 「のぞみさん?」  突然聞こえた声に望海は固まってしまった。 「ありがとうね」  つぶらな瞳に映る望海は青白く震えていた。  何か言うべきじゃないのか。もしかして夜な夜な抱きついていたのを知っていたんじゃないのか。変態だと思われたかもしれない。何か言うべきだろう。何か。何か言えこの役立たず。望海の中から聞こえてきた声はこぞって彼女を責める。望海はただ、泣きじゃくるだけだった。それ以上のことはちっともできなかった。  貴大は望海の細い身体をゆっくりと抱きしめた。 「いつもそうやって呼吸ができるようにしてくれてたんだね、ありがとう。ごめんね、いびきもうるさいし真夜中に息が止まるなんて面倒な人間で」  違う。そうじゃないのに。  望海は大きく首を振ったが、部屋の窓が見えるだけだった。ああ、どうして自分はこんなに「へたくそ」なのだろう。いつのまにか聞こえていた声は徐々に小さくなり消えた。  望海は大きな身体を抱きしめ返した。貴大の何かをどうにかしてこじ開けたかった。そうしなければ彼は、本当に息が詰まって死んでしまうような気がしたから。  望海は貴大を助けたいとずっと思っていた。マッチングアプリを熱心にやっているくせに「いいね」すら返せない。身の回りのものをまったく片づけられないくせに鉄道模型とゲームだけは神経質に何時間もかけて理想の形にする。勤めているまちのことと鉄道のことならいくらでも語るくせに自分や身の回りのひとのことをいっさい語れない。それを助けたいとずっと思っていたのだと今、望海は気がついてしまった。その「へたくそ」さがどこか、自分を見ているようでほっておけなかった。 「そんなこと、言わなくていいよ」  いつか貴大に言われたことを、今言い返した。大きな身体がびくり、と固まる。 「言わなくていいことは言わなくていい、って、貴大さんが教えてくれたんだよ?」 「そうだっけ」 「うん、そう」  すっ、と顔を近づけて、貴大のくちびるを奪った。 「ごめん」  肌に塗料落とし使っちゃった。  貴大の告白に望海は思わずあははと笑ってしまった。明け方、化粧をしたままの望海が眠っていることにびっくりしたが、とりあえず化粧を落としておかないと、と思い、その場にあった模型用の塗料落としを使ってしまったという。自分で落としたのとほぼ同じ仕上げなのも、貴大の集中力のなせる技だ。 「ぜんぜん大丈夫だったよ」 「ほんと?」 「うん、悲しいくらい変わらなかった」  万が一肌にかかってもいいものを選んでいたからためらいはなかったんだけど、と言って取り出した瓶を見れば、製造元が望海の使っているクレンジングオイルのメーカーと同じであることがわかり、ふたりで笑った。 「どうりで違和感なかったわけだ」 「ありがとう」 「いえいえこちらこそ」  豚でいてくれてありがとう。れっきとしたいいたいことだけれど、別に言わなくていいことに望海は感謝した。彼は望海にとってかけがえのない豚だった。  抱き合ったまま、貴大のいびきをそばで聞いた。轟音をたてながら大きく揺れる身体は、いつも乗る電車に似ていた。貴大のレールはまっすぐなのだろうか。きっとそうではない。ぐねぐねと曲がりくねって、特に終着駅に続くところは思いっきり曲がっているのかもしれない。でも、それでいい。  電車に揺られながら、望海は行く先を想像した。不安はもう、どこにもなかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!