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その患者が来た夜は、朝降り始めた嫌な雨が、何時間もかけてだらだらと降り続いていた。
その週の2回目のウォークイン当直で、私は込み上げる疲労感を隠せずに、浮腫んだ足を引きずって救急外来へ赴いた。
「またお前か、有泉。今日もケバいな」
救急医の周藤が、すれ違いざまに私に対して不機嫌そうに唸った。現在35歳、今年で医師11年目を迎える彼は、気分屋で気難しい。
「がっつりメイクしないとテンション上がんないんですよ。こんな雨の日は特に」
引き攣った笑顔でそう答える。この人物に好かれてはいないのは知っている。
彼は私の返事が気に食わなかったらしく、何やら嫌味を言いかけたようだったが、矢先にホットラインの着信音が鳴り響き、舌打ちしながら外来の固定電話の受話器を取った。
「はい、こちら中央病院ER。……どこの救急隊?なに?アル中??」
中学生の頃から変えていなさそうな垢抜けないデザインの眼鏡は、何処かの誰かと同じ黒縁だけれど、持ち主の気性には雲泥の差があるようだ。
電話の向こうの救急隊に向かってぞんざいな態度をとり続ける周藤のだみ声を背中で聴き、相変わらず空気も幸先も悪いな、と思いながら外来を通り抜けて、救急事務室に向かった。
全員の名前が載った当直表を事務担当者から受け取り、研修医の指導にあたる予定の上級医をざっと確認する。
先程私に難癖をつけた周藤が救急車外来担当、目の下に青い隈を作った睡眠不足の中堅外科医、膠原病内科専門のおどおどした若手内科医がそれぞれ外科・内科担当と、当直医の面々はなかなかにいかついラインナップだった。
できれば誰とも言葉を交わさずに一晩を終えたいと願いながら、勤務簿に丸をつける。
空が雨で覆われていたせいもあるのか、こういう類の祈りというものはなかなか天まで届かないもので、17時のシフト交代から僅か15分もしないうちに、看護師によるトリアージを終えた待ち患者のファイルが3枚、私の前に積み上がった。
欠伸と溜息を噛み殺し、軽症群にトリアージされた緑色ファイルを脇に避けて、準緊急を表す黄色ファイルに入れられた患者の名前を確認し、電子カルテを開く。
この病院での研修医のウォークイン当番は、救急車を利用することなく徒歩や自家用車で直接来院する患者たちを、時間外で診るための窓口となる。挟んだ指が腫れただの、昼からの風邪で咳が辛いだのという軽症例の対応に始まり、walk-in SAHに代表されるような、隠れた重症患者をスクリーニングし入院治療に繋げる役割も担っている。
いずれにせよ初期研修医による単独診療は原則として許されていないので、当直上級医にコンサルトし承認を得てからでないと、帰宅や入院の最終判断は下せない。私たち研修医は、その窮屈なルールによって医療ミスや法的な糾弾から守られ、同時に、縛られてもいる。
ーーーわかりもしないくせに勝手なことをするな。
ーーーそれくらい自分で考えろ。
寝不足で苛立った上級医から浴びせ掛けられる罵声と理不尽なダブルバインドに悩まされ、すっかり諦めた私は、最低な決め台詞を身につけてしまった。
「……すみません勉強不足で。美容外科志望なもので」
診察を終えた軽症患者の処方をオーダーしながら、さてどのタイミングで誰に電話しようか、と考えを巡らせながら謳うように呟く。
創悟がこんな腑抜けた私を見たら、何を思うのだろうか。
せめて思い出の中くらいでは、誇らしげに胸を張っていたいけれど、流れる単調な日常に埋もれゆくひとときを、彼はいつまで覚えているだろう。
止まない雨の中で、救急車のサイレンが、ひっきりなしに鳴り響く。
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