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9. 引力
あなたとは付き合えない。
生田創悟にそう告げてから、1ヶ月が経った。
私は名古屋分院への斡旋を本格的に始めてもらうよう、履歴書を添えたメールを二条宛に送り、中断していた英語面接のオンライン講座を再開した。
6月の形成外科のローテーションは、今までの必修診療科に比べてだいぶ快適だった。
美容外科志望は前評判で知られていたから、先生方も私に病棟業務を強制することはなかった。私は上級医たちの厚意に甘え、勤務時間の大部分を研修医室に籠って、オンライン講座を受講するのに費やし、手術が始まるのを見計らってオペ室にふらりと顔を出す毎日を送った。表層の完成度をひたすらに上げていく地道な作業は、心臓外科手術のようなダイナミックさには欠けていたけれど、手術そのものに興味深い点は多かったので、現金な私は内心ほっとしていた。
奨学金の返済と、母親への仕送りを除いた通帳の残高を見て、月々の当直の回数を増やすことにした。
形成外科は定時帰りに寛容だったし、創悟のために空けていた土日をフルで使えるようになったのでスケジュールは組みやすい。これを機にと、1ヶ月半おきにメンテナンスで通っていた美容院に行くのも辞め、根本が黒くなり始めた髪を、後ろで1つに結ぶようになった。
有泉ソラは夜職の男に貢いでいるらしいという噂を実しやかに立てられもしたが、風俗より当直代で稼ぐ方が健全でしょと言い放ってからは、腫れ物扱いされる代わりに何も言われなくなった。
形成外科病棟は6階で、心臓外科病棟からは幸い距離が空いていたが、病棟間の移動は同じエレベーターを使わざるをえず、創悟を完全に回避することは難しかった。ローテーション中の女子研修医を従えているところに何回か遭遇したが、私たちは模範的な元上司・部下を気取って、軽く会釈を交わした後は、お互いの存在を礼儀正しく無視していた。
「生田先生、筋肉すごいですよね〜!ジムとか通ってるんですか?」
緊迫したエレベーターの中で、件の何も知らない女子研修医が、無邪気にそう尋ねたことがあった。
創悟は私の存在を気遣ったせいか、まぁ、土日とかオフの日にちょっと、と口籠もりながら答えて早々に会話を切り、その子はちょっと傷ついたような不思議そうな顔をしていた。私に会わなくなってからジム通いが捗ったのかもしれない、黒いスクラブから覗く二の腕を盗み見ると、より一層はち切れんばかりにバルクアップしていたのが可笑しかった。
循環器内科志望の彼女に創悟はしっかりと指導を施しているらしく、研修医室で漏れ聞いた話から推測するに、人間関係上もそこそこうまくやっているようだった。私にも貸してくれていた愛用の手術書をその子が大事そうに抱えているのを、オペ室前で見てしまった時は、エレベーターでの世間話よりも随分と堪えた。
その夜は甘口の白ワインをボトルで買って、何も食べずに一滴残さずひとりで飲んだ後で、数時間かけて胃の中のものを全部吐いてしまってから、予備で持っていた睡眠薬を流し込んで寝た。創悟のアパートに行った夜以来ろくなものを食べていない胃からは、どんなにえずいても酒と黄色い胃液しか搾り出せなくて、今までの嘔吐の中で一番苦しかった。
ある泣き疲れた夜は、生産的な活動を諦めて、高校生のときお気に入りだった海外医療ドラマをシーズン1から徹夜で観返したりもした。
女性外科医を主人公にしたロングランの人気ドラマは、勤務初日の初期研修医にメスをいきなり持たせたり、患者と共に閉じ込められたエレベーター内で緊急手術を始めたり、現実の病院では起こり得ない荒唐無稽な展開を繰り広げる。人間味溢れるキャラクターたちが、壁にぶつかりもがき、遂に自らの手で命を救った瞬間の笑顔の輝きに、他人事のように初心を思い出す。
ーーーそうか、こういう仕事に憧れて、私は医学部に入ったのだったっけ。
ブロンドの女優が演じる敏腕心臓外科医の活躍を、私は照明を落とした部屋で布団を被り、ぼんやりとただ眺めていた。美しい女性であることと、泥臭く真摯であること。その二つが違和感なく同居している架空の世界が、羨ましかった。
かつて関係をもっていた他の男性たちと会う気力も湧かず、二条とだけは唯一、事務連絡と別に週1回くらいは個人的な連絡をとっていた。
名古屋に行ったらなかなか会えないね、とふと送ったら、1分と空けずに返信が返ってきた。
『衛星と衛星のスイングバイくらいが、僕はちょうどいいと思ってる』
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