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「スイングバイって、なんだったっけ」
一人の部屋で虚空に向かって呟きながら、iPhoneに打ち込んで調べると、wikipediaのページが最初にヒットした。
「……天体の運動と万有引力を利用し……宇宙機の運動ベクトルを変更する技術……」
軌道設計だとか飛翔体だとか、難解な用語が並ぶwebページのリンクを辿って彷徨い、引力によって数年に一回だけ邂逅する地球と人工衛星の図解を見つけ、なんとなくだけ理解した気になった。果たして学問的に正しいのかは知らないが、付かず離れずの関係を天体運動に例えるなんて気障だなと思って、一緒に行った博物館で宇宙船の常設展示を真剣に見つめていた姿を思い出し、ふと懐かしさが込み上げた。
『よくわからんけど、わかった。巴哉さんぽいってことがわかった』
『教養がついたわ』
2通続けて適当に送ったメッセージに、2通続けて通知が返ってきた。
『教養www』
『僕はいいところたくさんあるので、ぜひ今後もご活用ください』
特に返信をせずにiPhoneをベッドの上に放り投げ、生田創悟はそういうタイプじゃなかったんだろうな、と遠い過去のことのように考えた。
別の軌道を描く二人の人間が、たまにだけ重なってまた離れていく。摩擦も責任も、干渉もなく。そんな在り方を許せる彼だったなら、私だって愚直に突き放したりはしなかったはずだ。
彼の真摯な生き方が、私の自暴自棄な脱出計画によって害されるなんて、あってはならない。そんな呪いに近い決意を持ちながらも同時に私は、いつ終わるとも知れない蟻地獄でもがくしかない自分自身が、心臓外科医として着々とキャリアを積んでいく彼の隣で正気を保っていられる気はしなかった。
網戸を開けて、職員寮の窓から上半身を外に出す。
遠く彼方を飛ぶ人工衛星の光が見えないか、と幼稚な期待を抱いて見上げた狭い夜空に、星はひとつも見えなかった。
窓を開ける動作だけで、最後に残された体力を失った私は、へなへなと情けなく窓際の床に蹲った。しばらく掃除をしていないフローリングの上には、抜けた髪の毛や飲み損ねたサプリメントの錠剤、脱いだ服やらが、自分と一緒に落ちて散らばっていた。
「……もう、やめようかな」
意識せずに漏れ出た弱音を他人の声のように聴いて、もう自分は、半ば諦めているのかもしれないと思った。
医学部の勉強と並行してアメリカの医師国家試験を受けた。心身の健康を犠牲にした深夜バイトで、多額の教材費と受験料、顔面整形費用を自力で稼いだ。本業のはずの臨床研修をサボって対策を重ね、省エネ研修医と揶揄されながらも卒後1年目で密かに挑んだ、アメリカのマッチング試験に呆気なく敗北した。
失敗体験を抱えて擦り減った不安定な自分が、日本であろうとアメリカであろうと、心臓血管外科研修のハードな労働に耐えられるとは思えなかった。そろそろ絵空事を捨てて、現実を見るときがきたのかもしれない。
地に足をつけ、美容外科医になって、私のようなコンプレックスに悩む人たちの人生をちょっとずつだけ救う。そこそこ稼いで、コロナ禍が終わってから余ったお金で海外にバカンスに行けばいい。二条巴哉と、彼の飼い猫とでも一緒に。
夢を売ってお金が手に入るならそれは何であれ誇るべき仕事だし、そのお金で作り出す束の間の夢さえあれば、なんとか人間の形を保っていることくらいはできるだろう。
気味悪いほど無音だった曇天の空に、水が地面を叩く音が混じり始めて、見上げているうちに本格的な雨がぱたぱたと降り始めた。
濡れた土の匂いが部屋を満たし、私は窓枠にもたれてうなだれたまま、網戸を通して水が吹き込んでくるのを、あらがわずにぼんやりと眺めていた。
今夜の空気は、雨を含んでずっしりと重い。
もうすぐで、この街にも梅雨が来る。
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