終(つい)の人

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   皿に張り付いた玉ねぎがこの先の数時間を瞬時に頭に描いていく。食器を運んで、洗って、冷蔵庫に足りないものをみつけ、エプロンの汚れを気にして、今日洗濯しようと思う。明日は生ごみを捨てられるのだったろうか。台所の床掃除をしたいけれど疲れた。明日の支度をして風呂に入って眠る。ほんの数秒で今日の終わりまでが見える。そして朝がくる。六時四十五分に起きる。化粧して会社に行く。絵里にはもう怒る情熱も嘆く自己憐憫もみつからない。ただ見せられた夜を抜けるだけだ。直人に皿洗いを頼む言葉を口にするのも疎ましい。働くように言いもしなくなったのに食器を片付けるように言うのもあほらしい。 「今日さあ、凄いバイクあったんだよ。別に探してたわけじゃないんだけど、そういうときのほうが出会うんだよねえ。そういうのあるじゃん。何とかの法則とかいうやつ。そろそろ買い替えようかと思ってたしさ・・・・」  直人の言葉が長く伸ばした絵里の細い髪の毛の間を通り抜けていく。また出費か。一体、この男にどれくらい金を使ったか、髪の先を摘まみながら考えた。おもむろに髪を一つに束ねて立ち上がり風呂場に向かった。  絵里の視界に自分が入っていないことを直人はもう気にしなくなった。沈黙で密になった空気の隙間に手を伸ばして絵里に触れようという衝動に襲われることもある。でもその先が楽園とは限らない。  こんなところに黒子ができている。シミ?このまま朽ちていくのか。生き物は残酷にその価値を見せてくる。鏡の虚空を掴んでも落ちていく。逆らうことはできない。生き物は朽ち果てなければならない。もうすぐ終わるのだ。悲しみも感慨も喜びもなく静かに絵里は理解した。四十か。            ******     駅から外堀通りへ大手町に向かっていけば鎌倉橋がある。この辺りは昔、川がたくさんあったらしい。銀座、築地、京橋辺りの川を埋め立てなければ東京もヴェネチアみたいになっていたかもしれない。通勤しながら毎朝同じことを考える。高速の下をくぐって抜ける時はこの橋が今落ちたらと思う。毎朝同じことを考える。落ちてほしいと願う。絵里の願いは届かず会社の看板が見えてくる。古いビルだがリフォームを重ねてそれなりのお洒落な構えになっている。フランスが本社の家具屋には見た目も重要だ。 「おはようございます!絵里さん、聞きました?」  薄いピンクのブラウスは斎藤の明るい頬を照らして一層可愛らしく輝く。下の名前で呼ぶのは帰国子女のせいか、今どきの子なのか、彼女の印象を軽くさせる。男に媚びることを躊躇なくこなす斎藤に絵里は安心していた。きっと上手に生きていくのだろう。 「おはよう、何の話?」 「来期のカタログのことですよ。河田さんがやっと承認が下りたって・・・」    斎藤はどんな人に出会って、どんな人生を作るのだろう。白いふっくらした頬とすらっと伸びた指先のネイルが楽し気に笑っている。斎藤がこれから誰かと出会って恋愛して結婚して一から関係を築いて、と想像すると可哀そうでならない。 「河田さんに絵里さんが来たら会議室に来るように伝えてくれって言われて。」 「ありがとう、わかった。すぐ行くから。」  新卒だから二十二、三かぁ、自分のほぼ半分である斎藤がもはや羨ましくはない。 「おはようございます。すみません、お待たせしました。」 「いや、大丈夫。今度のカタログの企画が昨夜通ったんで、朝一で呼んだんだ。」  奥さんの発布する法令の下、会社という小さな土俵から落ちないように毎日生きるってどんな感じだろう。河田の右袖のボタンが一つ緩くなっている。絵里は見ないように書類に視線を落とす。 「今度のカタログはこの前の会議の企画でいくことになったから、去年とそんなに変わりはないんだ・・・でも新人カメラマンを起用することになって、むこうではちょっと知られてるらしいんだけど、日本じゃ誰も知らないよな・・」  河田は不満げな様子で眉を上げて絵里を見る。同調してほしそうな視線を感じながら、絵里は、 「まあ、いい写真を撮ってくれればいいんじゃないですか。カメラマンを売るんじゃなくて家具を売るんですから。」とそっけなくかわす。 「そりゃそうだけど、フランスはいちいちうるさいんだよ。なんでも口出したがって。日本のことなんか何にも知らないくせに。」  いつものこの種の愚痴にはもう慣れた。変わらぬ河田を許容できる自分に成長すら感じる。いや男というものに全く期待を持たなくなっただけかもしれない。それとも自分こそ変わっていないと気づいたら打ちのめされてしまうから、読んでもいない資料をめくるのかもしれない。 「それにもう向こうで勝手にスケジュール決めててさあ、来週末にそのカメラマンが来るんだよ。なんかそこしか時間押さえられなかったとかで、急なんだけど三週間マネージしてくれる?現場は任せるから。」 「はい、わかりました。スタジオとアシスタントも三週間分押さえておきます。イメージとかも企画書どおりでいいんですよね。」 「そうそう、この前の企画書で進めて。日本の風景をいれるから、新幹線とかホテルとかの手配も頼むよ。全部込みでスケジューリングして俺んとこ送っといて。」 「わかりました。明日までに送ります。」 「カメラマンの滞在中のホテルとかもろもろも頼むよ。往復の飛行機しか決まってないから。じゃあ、そういうことで進めて。来月の取締役会の報告まとめなきゃならないから、こっちは任せるよ。あとで詳細送っとくから。」  結局、何でも屋なのだ。デザインダイレクターなんて恰好いい肩書だけどヴォーグの編集長じゃない。フランスの本社ほど人がいないから、日本では一人でなんでもこなさないと仕事が回らない。器用な絵里にはそれが苦痛ではなく、かえっていろいろできることが気晴らしになった。そのせいかヘッドハンティングがあっても、もう十年以上続けてこられた。  会議室から戻ると、机に青いマカロンが一つ、外界と同調するのを拒んでいる。青い色の食べ物が主張している。自然には存在しえない青が居心地悪そうに見えない。それどころか堂々とこちらを見ている。絵里はいつものように自分の席に座ると、離婚しようと思った。もういい。  河田からのメールを見てスケジュールを組み始める。やることが一度にたくさんあると他のことを考える余裕を喪失できて絵里は嬉しかった。  ハンス・ピーターセン。デンマーク人。ヨーロッパでは賞も取っているようだ。ウィキペディアに情報がこれ程載るのだから海外では有名なのだろう。 「絵里さん、見てますねえ。」 斎藤はオフィスをひらひらと舞ってはよく絵里の机に止まる。 「この人、今度のカタログの写真撮る人。」 なぜ自分に止まるのか絵里は不思議な蝶をいつも持て余す。 「イケメンですよね。もう四十近いけど。ずっとモデルやってて最近カメラマンになったらしいですよ。」 「だからこの年で新人なんだ。もう随分調べてるじゃない。」 「イケメンには嗅覚が働くんですよ。絵里さんいいなあ、三週間一緒でしょ。でも芸術家だから変わり者かも。」 「そうねえ・・どうでもいいわ、仕事だもん。仕事、仕事。」 「この際、不倫とかどうです?私、口は堅いんで大丈夫ですから。」 「何が大丈夫なのよ。もういいから早く先月のデータまとめたのちょうだい。支店ごとのやつ。」蝶を追い払うにはこの手に限る。 「はーい。あ、それ、マカロン、私の差し入れです。食べてくださいね。」  ハンス・ピーターセン。絵に描いたような白人。彫刻みたいだ。タイプじゃない。企画書の縁をいじりながら絵里は我に返る。何を考えているのか、毎朝、橋が落ちてこないように、絵里を包む空気は動かない。力づくでこの重力を切り離したい熱に駆られる。離婚する。いつ話そう。            ******     ハイアットのロビーは鼻持ちならない気障な男のようで、絵里のお気に入りの場所だ。全体の空間の色を邪魔しない勢いで豪華な花があちらこちらに飾られている。そこに咲くことが初めから決められていた花たちが美しさを誇っている。岩の隙間から光を求めて伸び出す花の強さはないけれど、生を知り尽くした強さがある。だからこそ美しい。  ロビーの隅の真っ赤なソファに長い足を組んで座っている金髪の人がいる。きっとハンス・ピーターセンだろう。そう思いながら一応ロビー全部を探す。他にそれらしき人はいない。諦めて近づく。 「こんにちは。エファージュの藤村です。初めまして。」 「初めまして。よろしく。コーヒーでも飲みますか?」  金髪、白い肌、長い手足、皮膚のような生成りのスーツ、世界を征服した自信、無精にみせる整えられた髭。絵里はマネキン人形に日本人らしく微笑んで、 「そうですね、コーヒー飲みながらスケジュールをご説明します。ラウンジでいいですか?」感じよく答える。 「せっかくだから外に出たいんだけど。日本は初めてなんで。構いませんか?」 「ええ、いいですよ。」  目。青い目。硝子の瞳からは何が見えるのだろう。自分とは違う世界で生きていると絵里は確信した。白い砂の上に満ちる海が浅くなり容赦ない太陽の光を通して薄くされた青がハンスの目の中で光を保っている。黒い瞳と同じ世界が見えるはずがない。ハンスの英語は聞き取りやすく、妨害電波を発せずに絵里の中にすんなり入ってきた。思ったより物腰の柔らかいマネキン人形に安心してホテルのロビーを出る。      ハンス・ピーターセンが選んだのはよくあるチェーンのコーヒー屋。ハンスはエジプトの壁画より難解な象形文字に囲まれて、子供の時のマルメの遊園地にまた来ていた。それ以上に不可思議な街に迷い込んだようだ。 「ケーキとか食べます?」 桜の季節限定のケーキをデンマーク人に振る舞うべきかと真面目な日本人は考える。 「食べる、食べる。甘いもの好きなんだ。コーヒー飲めないから紅茶にしてくれる?」  ハンスは日本のすべてを吸収するつもりだけれどコーヒーは眠れなくなるから飲まない。運ばれたケーキには桜のつぼみが乗っていて抹茶とピンクの層が小さな日本庭園を思わせる。 「んんん、美味しい。食べないの?」 「ありがとう、どうぞ召し上がれ。」  気さくなマネキン人形に微笑みつつ、タブレットをバッグから取り出し説明を始める。何も珍しくないケーキとコーヒーは絵里を喜ばせることはできない。説明する順番を考える。ハンスは賢いのか阿保なのかまだわからない。モデルだったという知識は絵里を不安にさせる。しかし全くと言っていいほど偏見というものはない。絵里はただその人に合わせた説明がしたいだけだ。時間を節約し無駄な努力はしたくない。 「Who are you? あなたは誰?」 「え?私・・エファージュの藤村です。」 やはり阿保のほうなのか。マネキン人形だから仕方がない。 「それは聞いたけど、あなたのこと何も知らないから。何しているの?」 「あぁ、宣伝広報です。一応デザインダイレクターで、ブランディングのために撮影からすべてチェックします。出来上がった広告をチェックするだけじゃなくて作るところから、スケジュールから全部管理してます・・・」 「仕事じゃないときは何するの?日本の人って何するの?」  目の前の小柄な絵里はリスが木を駆け上がるように話す。ハンスは最後の一口をゆっくりと舌で押しつぶしアールグレイを流し込む。絵里に聞きたいことが次々と浮かんでくる。ジパングに紛れ込んだ海賊のような気分が楽しい。 「スポーツしたり、映画見たり、人によっていろいろじゃないかしら。」  これは早く仕事を進めたほうがいい、お尻の決まったプロジェクトだから早めに進めよう。絵里は自分の力で引っ張ったり、止まったり、制御できる仕事が好きだ。全能の神のように海も二つに分けられる。 「じゃあ今日はこれで。明日からよろしくお願いします。朝ホテルにお迎えに来ますから。」 「今夜、絵里を夕食に招待したいんだけど、どこかレストラン予約してくれないかな。どこがいいかわからないから。明後日から僕のアシスタントが二人来るから。」 「え、あ、はい、聞いてます。わかりました。後でお店をメールします。」 「じゃ、あとで。」  190センチのマネキン人形は絵里の三倍の歩幅で人込みに消えていった。ビジターとの食事会はいつものことだし慣れている。絵里はこの前使った神楽坂の日本料理屋を予約する。河田も誘うべきか。でも今日の今日だし、それにもうこれから会社に戻る予定ではなかった。絵里は早めに帰宅して大仕事を片付ける予定を組んでいた。           ******    「ただいま。」 「あれ、早いじゃん。」 直人はヘッドホンを片耳だけ外して部屋から出てきた。 「夜また出かけないといけないから。」 絵里は何年ぶりかの心臓の鼓動を感じ始めた。拍動。忘れていた心臓が動いている。 「話があるんだけど。」 「何?ちょっと待って。」  ゲームを途中で中断するのは耐えられない。直人は切りのいいところでコントローラーを手放しリビングにやって来た。 「俺、あんま腹減ってないから夕飯もう少し後でいいや。」 「私出掛けるから適当に食べて。」 「ふうん、わかった。」 「・・・離婚したいんだけど・・」  心臓が喉で鳴り、こめかみが痛い。離婚を考え出したのは最近のことではない。結婚して十三年。考えなかったのは最初の数年だけ。離婚という反旗がはためき出しても風はその日によって強さを変え、吹かなくなるのではないかとも思われた。足元の土から耕し直すには継続した力が必要だった。力が湧くほど絵里の心は健康ではいられなかった。だから風が吹く。風が収まらないのをわかっていながら、包まれた空気に波を立てられなかった。 「何言ってんの。なんでだよ。俺が悪いのかよ。浮気だってしたことないぜ。」  絵里がもう一緒にはいないことに何年も気づかないふりをしてきた。そのまま隠してしまっておきたい。少しでも長くこの決して居心地がいいとはいえない我が家を守りたい。絵里とは一生を共にすると一度決めたのだ。 「結婚したときからずっと定職に就いてって言ってるじゃない。その場しのぎで分かったって言うばっかりで何も変わらない。もういい加減無理。」  何度吐いた台詞だろう。言い慣れた文章は脳を通らず口から滑り出してくる。 「仕事行ってるじゃん。今たまたまないだけだよ。」 「新しい仕事の面接行った?いつ行った?」 「・・・また行くよ。」  絵里には直人の気持ちがよくわかる。自分が直人なら絶対に離婚なんかしない。一日中好きなことして、住むところも食べるものもあって何も困らない。なんでそんな生活を捨てるようなことをするだろう。直人をこの家から出すのは難しい。出ていくわけがない。結婚した時に絵里の貯金と信用で手に入れたこのマンションもくれてやろうと考えていた。絵里には一人になる自由のほうが不動産より価値があった。何の未練もない。 「私、住むところ見つかったら出ていくから。」  初めて聞く台詞に直人の言葉がつまった。絵里が出ていくわけがない。十年以上の時間は何にもまして直人には説得力がある。 「どうすんだよ、このマンション。俺が管理費とか払うのかよ。」  直人の返答は絵里の腑に落ちた。離婚という選択肢が正解であることを答え合わせの前にわからせてくれた。私は愛されていないのだ。ぼやけていた事実は焦点が合って際が明確になる。私は愛されない。 「家賃よりずっと安いでしょ。それくらい働きなさいよ。」 「俺は絶対離婚なんてしないからな。」  独立を宣言して国旗を掲げたジャンヌダルクが、無言でリビングから続く狭い廊下を凱旋し絵里の部屋に入っていった。終わった。もう決めたのだ。なぜこれまで瓦礫の下でうずくまっていたのだろう。戦火で崩壊した世界は過去になり、手にした自由に喜びが湧いた。心臓の高鳴りが全身に広がり消えていく。もういい。もう我慢はいらない。 *******  神楽坂の大通りから一本入ると、駅から続く喧噪がぱたりと収まる。見番横丁を突き当たって小栗通りにつながる路地は、石畳みが黒塀と一緒になって時間の錯覚を起こしてくれる。芸者小路の細い路地を抜けると、約束した日本料理の店がある。古い一軒家の出で立ちで、入口の足元に四角錘の行灯が置かれてある。ぼんやりとした明かりに店の名が「ひより」と浮かんでいる。看板というには小さすぎ、しかも日本語で書かれた目印にデンマーク人が気づくとは思えない。絵里は駅で待ち合わせるべきだったと後悔した。まだ約束の五分前だが携帯で連絡を取る。店の前で携帯の画面から目を挙げると、路地の角から背景には馴染むことのない細長い白人が絵里を見つけて手を挙げた。 「すごく素敵なところだね。今日はありがとう。」 ハンスの高揚した観光客らしさが絵里を安堵させる。 「よかった。わかりづらい場所だから見つけられないんじゃないかと思って。ごめんなさい、駅とかで待ち合わせればよかった。」 「大丈夫。僕はボーイスカウトやってたから道には迷わないんだ。携帯もあるし。」  靴を脱いで座敷に上がる。女将さんが注文を取ってくれる。今日のおすすめや飲み物やこの前に来た時の話やら、絵里は数回来ただけなのに常連客のように気持ちよく接客してくれる。流石に評判の店だけある。ハンスは二人の日本女性のやり取りを映画のシーンのように眺めていた。言葉がわからなくても絵里のそつのなさは伝わる。店の人に敬意をもって優しく話す絵里が鮮やかだった。  運ばれてきた白ワインで乾杯をする。 「じゃあ、プロジェクトの成功を祈って。」 「僕の初めての日本上陸を祝って。」 「乾杯。」  次々に登場する日本料理は、美しく桜の季節を表現している。ハンスは本物の日本料理に一つ一つ感激の言葉を伝えようとする。ヨーロッパの日本料理とは全く違う。ぎこちなく箸を使う大きな長い手を、絵里は新鮮に見ていた。きっとたくさんの高級レストランで高級料理を口にしてきただろうに、小鉢一つに興奮して話すハンスが可愛く見える。大の男を可愛く思えるなんて、恐ろしく年を取ったように感じた。でも素直で可愛い。若い時から売れっ子モデルで高級車、高級ホテル、高級女、高級シャンパンしか知らないんだろうとぼんやり思う。派手な生活を想像する。 「絵とか文学とか映画とか好き?」 ハンスは仕事の話も業務連絡も端折って、絵里の鍵をこじ開けようとする。 「ええ、大好き。オスカーワイルドとか・・」 「えっ本当?」 ハンスはテーブルをコンコンと叩いて驚いた顔を作る。 「僕も大好きだよ。画家は?現代美術が好きなんだ。でもキスリングとかも好き。」 「えっキスリング、知っているの?私の一番好きな画家なの。」  二人の周りの空気は少しずつ、しかし劇的に混ざり合っていく。二人を一つの空気が包むまでそれほど時間はいらなかった。  こんな東の果ての国で興味の同じ人と同じ空気の中で話をしている。ハンスの好奇心は瑞々しくジパングから絵里に移っていく。  「絵里は恋人いないの?」 「・・・もう別れたところ。」  嘘をついているのだろうか。まだ離婚は成立していない。でももう終わった。絵里は薄いグラスの縁から白ワインで言葉を流し込んだ。 「僕は二年前に六年付き合った彼女と別れたんだ。ひどい別れ方だったからもう当分恋人はいらないよ。仕事もすごく忙しいしね。」  ふとハンスの横顔が、冷たい彫刻の大理石になり絵里の心を捉えた。派手な生活の薄っぺらい日常にハンスを置いていた絵里は、自分のステレオタイプが恥ずかしい。冷たい大理石の中に閉ざされた暖かい蒸気に触れてしまったような気がした。  絵里は仕事関係の人間にここまで心を開いたことがなかった。正式に離婚が成立していないのに、別れたなどと決して言わないだろう。私的なことはほとんど一切口にしたことがない。他人の私生活にも興味はない。なのにこの遠い寒い国から突然現れた白人に、自分のことを話している。自分ではない自分に困惑しながら滑り出す言葉の羅列を見ている。いずれにせよ三週間で去って行く黒船にきっと害はない。絵里はグラスに残った白ワインを飲み干す。 「じゃあ、そろそろ行きましょう。明日は機材の確認とか、必要なものを揃えたいんですけど、アシスタントの方と相談したほうがいいですか?」 「いや、僕がいつも全部やっているから。明日昼頃連絡くれる?」 「はい、わかりました。タクシー呼びますね。」 「電車に乗ってみたいんだけど。」  もうすぐ四月だというのに駅のホームは風が強く冷たい。風の少ない場所を探して、ハンスはkioskの裏を陣取り絵里を呼ぶ。向かい合った絵里の手を花束のように持ち上げて暖かい息を吹きかける。ハンスを運ぶ電車が来るまで数分あっただろうか、絵里には永遠の一秒になった。  翌朝、後悔が絵里を目覚めさせた。なぜ仕事相手に私生活を話してしまったのか。馬鹿だった。距離を保ちたい。それは仕事のための安全なのか自分のための安全なのかわからない。ただ絵里はハンスの無邪気さに付き合うほどの軽い心は持ち合わせていなかった。三週間だけの仕事の付き合いなのだから。  取り敢えずウィークリーマンションを契約した。兎に角、すぐに家を出たい。休みの日に探せばひと月のうちに新しい部屋が見つかるだろう。午前中に家を出る。午後にはハンスと待ち合わせている。荷物は持てるだけ詰め込んで、残りは部屋が見つかってから送ろう。決断すれば後は流れていく。絵里は自分が流れを堰き止めていたことを今では説明できない。  直人は部屋から出られなかった。絵里の音が玄関から聞こえる。もう引き留める根拠がない。声を掛ける勇気もない。ドアを開ける愛もない。絵里がドアを閉める音がいつもと違って聞こえる。  絵里がいなくなった部屋に直人は足を踏み入れる。段ボールに二人の十三年は入っていないのだろうか。テーブルに離婚届が黙って置いてある。封筒には会社の住所があり切手も貼ってある。直人の署名を待っている。絵里はいなくなった。ほんとうに。  台所で食べられるものを探す。得意の野菜炒めを作る。絵里の嫌いなスパイスを多めに入れて好みの味に仕上げる。直人は真空の中で続いていく生活を一口一口味わって食べた。  ウィークリーマンションに荷物を置くともう約束まで時間がなかった。新しい人生の幕開けとなる最初の生活の舞台で大きく深呼吸をし、化粧直しもせず足早に池袋の家電量販店に向かう。  入口は相変わらず大音量の宣伝が流れ多くの人が行き来している。絵里の頭痛が始まる。人込みは苦手だ。ハンスはまだ来ていないようであちこち探してみる。今日の場所は神楽坂よりわかりやすいはずだ。店の奥のレジの行列からまわりより頭ひとつ抜き出たハンスが絵里に長い手を振っている。何か手に持って並んでいる。入口の脇で会計が済むのを待っていると、絵里は仕事であることを忘れそうになる。結婚して十三年、最後のデートはいつだったろう。終わったばかりの結婚生活を今は思い出したくない。 「早く来て必要なものを買ったよ。今日はもういいや。」 ハンスの屈託のない笑顔に、絵里は彼の子供の頃の顔を想像する。 「了解。じゃあ、明日の打ち合わせをして今日は解散しましょう。ランチします?」 「和食がいいなあ。」  あてもなく取り敢えず人込みを抜けて歩き出す。三倍の歩幅に絵里は小走りでついて行く。 「ここ行ってみても大丈夫?」 ハンスは日本食レストランではなくゲームセンターをみつけた。 「ゲームするところよ。」 「一度やってみたかったんだ。」  二人はピンク色の氾濫する店内に入っていき、ハンスはゾンビと戦うゲームを始める。主人公になったハンスは襲ってくるゾンビから逃げたり、戦ったりするのだが、何度やってもすぐに食べられてしまう。ゲームの中で逃げまどう様と元モデルとのギャップが、絵里のお腹を捩らせ笑わせた。こんなにゲームの下手な人を見たことがない。真剣な顔のハンスにまた笑った。  最後にこんなに笑ったのはいつだっただろう。直人を視界に入れないようにしてから絵里は本当に笑ったことがなかった。数年?いやもっと久しぶりかもしれない。  ハンスは面白くなさそうに顔を顰めて、 「もういいや、行こう。」とシューティングゲームの音に追い立てられて外に出た。絵里は目じりの涙を抑えて、ハンス少年の後を追いかける。    アシスタントも合流し、翌日からはスタジオでの撮影が淡々と進んでいった。絵里はただ流れが滞らないように、撮影の順序から空調や飲み物まですべてに目を光らせた。厳しいハンスに最高の仕事をしてもらうように、彼の周りの空気まで制御したかった。普段の優しい眼差しとは別物の鋭い青い目線は絵里を突き刺してしまう。スタジオの空気は張り詰め、アシスタントたちが地面を這うように動き回っている。  短い休憩に差し出す紅茶は、緊張して動かない空気に湯気を漂わせる。ハンスの僅かな微笑みが絵里の視線の軌道に乗ると、暗号が音のない空気を通して伝達される。二人しか知らない時間が極秘機密になって交わされる。お互いの視線に乗った暗号は、二人の心で解読されていく。誰にも気づかれずに。  数日スタジオ撮影した後、金沢に移動し二泊三日の屋外での撮影が始まった。夕方、金沢駅から金沢港方面にタクシーで向かう。最近できたばかりの高層ホテルは穏やかな辺りの景観から浮き上がり、合成写真のように聳え立っている。  絵里は各人の部屋をチェックインし、夕食のアレンジをする。寿司が食べたいというハンスに反して、ベジタリアンの二人が難色を示す。結局二手に分かれて食事を取ることになった。絵里は寿司屋とベジタリアンレストランを手配してタクシーを呼んでもらう。フロントと絵里のやり取りをハンスはまた無意識に見ている。絵里の横顔に揺れるピアスも、話しながらトントンと床を蹴るつま先もハンスの視界を独占する。  フロントで勧められた寿司屋は客が十人くらいしか入れない小さな店だった。店先には笹が植えられ暖簾の下の足元は打ち水をしたようで黒い石が光っている。カウンターに六人、座敷に四人といったところだろうか。入った途端に香る酢飯と檜が混ざったような寿司屋独特の空気が溢れる。この清潔感が絵里は大好きだった。金沢の寿司をハンスにたっぷり味わってもらいたい。ハンスは高揚した面持ちでカウンター席に着く。店中をぐるりと見渡し、 「本当の寿司屋だね。」と相変わらずの少年ハンスになった。撮影中の人物はどこに行ってしまったのか、絵里は少年にもどったハンスに優しく話しかける。 「板前さんにお任せしましょう。食べられないものはないでしょう?」  美しい濃紺に近い青いボトルの加賀鳶で乾杯する。柔らかい華やかなうま味のある大吟醸は、仕事を忘れさせ二人を楽しませた。 「日本酒飲んだことある?」 「初めてだよ。こんなに美味しいんだね。」  寒い国の人はいくら飲んでも酔わないし変わらない。それでも味はわかるようで絵里はほっとした。次々と目の前で踊る新鮮な寿司に、ハンスは毎回飽きずに喜ぶ。絵里は食べるのを忘れてハンスのすべてを胸の中に受け入れた。  二人は今、日本の端っこで現代美術から日本の柳の木の下には幽霊がいることまで話した。尽きることなく二人からは言葉が溢れてくる。音符と音符の間でも、文字と文字の間でも二人は心地よかった。むしろ、音のない、文字のない虚空にある二人の繋がりに無抵抗に包まれていった。  金沢の夜景を後にタクシーに乗る。ホテルには十分程度で着いてしまう。ハンスはもっと絵里のそばにいたかった。ただそう思った。絵里との時間を終わらせる勇気がない。絵里は自分の部屋の前に着くとドアを大きく開けた。何か言いたげなハンスの顔の前で絵里はドアを閉められなかった。 「見て。夜景がすごく綺麗。」  絵里は部屋の明かりをつけずにそのまま夜景に向かった。二十二階の壁一面の硝子窓の外には港の光が揺れて見える。東京の明かりは空まで照らすがここは夜空が夜空である。真っ暗な空に月が穴を開けている。暗黒の海にホタルが浮かぶ。漁船だろうか。月から黒い海に白い塗料がこぼれている。   ハンスは絵里の肘から手を滑らせて指を絡める。硝子窓を背に絵里の両手を握りしめて抱き寄せようとしてみる。 「顔が真っ暗で何も見えないわ。」 「僕は見えるよ。」とハンスは絵里と入れ替わり外の光が彫刻の顔を際立たせる。絵里は甘い日本酒のため息をつき、 「マディソン郡の橋って知ってる?」と聞く。 「あぁ、知っているよ。」ハンスは悲しげな真剣な顔で絵里を貫く。 「あんなのは嫌なの・・・」  僅かに残った自尊心と慎重さを使い果たして、絵里はハンスの胸に額を寄せる。金沢のせいにするか、いつもは飲まない日本酒のせいにするか、絵里の頭は責任の所在にあたふたしている。しかし心だけは真っ直ぐにハンスに向かっていった。もう止められない。止めたくない。心より先に体が惹かれる。  ハンスの大きな手のひらが絵里の両頬を包み込み、柔らかい唇が扉を開く。探し求めあう。ハンスの唇は絵里の耳から首筋をゆっくりと這っていく。月の下で交じり合う皮膚は境界を越えて通り抜ける。ハンスの息は絵里の耳から荒々しく爪先まで駆け抜ける。長い腕が絵里の背中を支えて華奢な体を地上に捧げる。指先でも唇でも飽くことなくすべてを味わう。体の奥底から絵里はハンスを求める。求められるままハンスは絵里の熱に近づいていく。自分の熱を与えて熱はさらに大きく激しくなる。四肢が千切れていくような甘い痛みが背中を仰け反らせ絵里の長い髪が泳ぐ。熱い痛みがいつまでも続いて欲しい。閉じた瞳の中でハンスを抱きしめる。形のない二人の熱が月に昇華していく。 「シンカンセン・・・シンカンセン・・・」  先に現実に引き戻されたのは絵里だった。寝言?ハンスの謎の言葉に目覚めて寝顔を見つめる。初めて乗った新幹線のことだろうか。ゲームの下手なハンス少年の肩に小さなキスをしてまた目を閉じる。幸せというものがどういうものだったか、体の中心に今感じられるものがそれなのかもしれない。絵里は幸せが消えないように固く抱きしめた。 「がぁーごぉー・・・がぁー」 今度は何?絵里は元いた世界に戻る前に、また現実に降りてきた。いびき?こんなに整った顔からいびきが聞こえる。合成された映像と音声のようでおかしい。起こされたのに怒る気はせず、早朝にシャワーを浴びる。絵里は後悔ではなく暖かいシャワーを浴びた。  シャワーから出ても小さな恐竜は唸り声をあげている。そろそろ起こさないと今日も予定が詰まっている。ハンスの髪を撫でながらこめかみにキスをする。 「いけない、寝ちゃったよ。どれくらい寝た?えぇもう朝?」 「そんなに焦らなくていいけど、9時に迎えの車がくるから。」  絵里の胸元に唇を寄せ小さなキスを返すと、脱いだ洋服をかき集めてハンスは裸で部屋を出ていこうとする。 「駄目よ、洋服着なきゃ。」 「大丈夫だよ、隣の部屋なんだから。」 「でも誰かいたらどうするの?」  ハンスはドアのレンズから外を確認し、静かにドアを開けると一気に走り出して、誰にも見られずに自分の部屋に辿り着いた。洋服を抱えて焦る裸の後ろ姿が元モデルとは到底思えない。コメディ映画の一シーンは朝から絵里を笑わせてくれた。こんな朝が自分に訪れるとは。絵里は髪を乾かしながら色のない生活を思い出した。 「楽しい夜だったね。」  ハンスは壁一枚隔てただけの絵里にテキストする。シャワーを浴び髭にハサミを入れる。 「魔法のような時間だった。マジシャンはどこに行ってしまったのかしら。」  ドアを閉めた瞬間からもうすでに絵里はハンスが恋しかった。 「ここにいるよ。今、迎えに行く。」  金沢の武家屋敷跡に移動する。ハンスに続いて絵里はタクシーに乗る。今朝の太陽は透き通った空気を通して煌めいている。ハンスの瞳は空気よりも青く透明で、白い光の滴がぽろぽろと零れ落ちた。初めて見る光。零れ落ちた光を手のひらで掬い集めたい。でも一瞬で空気に溶けてしまう。光の刹那を知りながら狭い座席で触れ合う体が昨日とは違う。少しの躊躇いもなく触れるハンスの長い脚が愛おしい。  武家屋敷の「こも掛け」はもうすでに外されていた。土塀と石畳の対比をハンスは慎重に選んでいく。アシスタントの動作が急に忙しくなり、撮影が始まる。小一時間するとハンスは納得した様子で次の指示を出し、絵里は次の撮影場所である茶屋街に案内する。時代劇の一場面を歩いているような楽しい錯覚を味わっていると、手をつなごうとする長い腕が伸びてくる。ハンスはアシスタントの存在など少しも気に留めない。自分以外はみな西洋人だからか絵里は時代劇の舞台で手を繋いで見せる。男の人と手を繋いだのは何年ぶりか十年以上か。自分の中の少女がまだ生きていたとは思ってもいなかった。スカートの裾が翻ることなどお構いなしに駆け出す少女を止めなかった。このままついて行きたい。どこまでも。小さな驚きの笑顔がハンスには新しく美しく見える。    木造二階建ての家々が連なる茶屋街は整然と観光客を迎えている。細い路地の遠近が気に入ったらしくハンスはしばらくシャターを切り続けた。次は野村家に移動し、屋敷内部や甲冑の撮影が始まる。屋内の光の調整に手間取ったが、予定の時間を少し残して日本庭園の撮影に進んだ。ハンスは二人の僕を従えて王国を支配していた。絶対的な権力を振り回し世界を構築している。決して妥協することはなく、外からの言葉では絶対に動かない。自分の世界を信じ切っている。王国の君主として君臨する。 「ご協力ありがとうございました。お世話になりました。お陰様でいい写真が取れました。」  絵里は野村家の屋敷を管理している人にお礼を言い、丁寧な日本人のお辞儀をする。アシスタントの片づけを手伝う。喜んで僕の一人と化す。  外に出ると薄暗い景色の中に気の早い行灯が灯っている。機材とアシスタントをタクシーに詰め込んで、王様は絵里と歩いてホテルに帰るとお達しを発布する。  石畳は何度も舗装し直されているのか、道によって石の形が違っている。肌寒い空気を行灯の明かりがところどころ溶かしている。ハンスは建物の影や看板の裏に死角を見つけると、 「comeおいで」と素早く言う。  小鳥が羽ばたいてくるのを知っているから。デゥミ・ポワントの羽ばたきでジゼルがやって来ては自分の胸に停まる。小さなキスを渡すと小鳥はまた忙しく飛んでいく。朝日がこの美しい月の後ろで、静かにジゼルを見つけるのを待っていることは誰も知らない。いや、賢い絵里は勘づいていたかもしれない。ただ無意識に意識して目を背けたのかもしれない。光の中で朝露になるまで踊り続けたい。 「日本では公共の場でキスしているのが見つかったら刑務所行きなのよ。」 ハンスは目を見張って極東の掟に唖然とする。絵里はその顔がとても雑誌には使えない素材に見えて笑い声をあげてしまう。 「嘘よ。」 「冗談だろう。信じかけたよ。」 絵里の笑い声はハンスの笑い声に重なっていく。  少し先にボート乗り場が見える。ハンスは急に走り出してチケット売り場や入口を探している。 「もう暗いから終わりよ。」 絵里は諦めきれないで柵の中を覗き込むハンスに声を掛ける。 「今度見つけたらボートに乗ろうよ。」 「また今度ね。」  今度などないと冷たく頬を叩かれても、絵里はどこかから伸びているオールを手繰り寄せようとする。掴んだ手を放さない。そうすれば消えることはないと信じた。  翌日早く東京に戻る新幹線に乗り込んだ。絵里はハンスの隣で、金沢に来るときの新幹線にはなかった二人の間の引力の不思議に酔っていた。お互いの皮膚がお互いを弾かずに重なり受け入れて通してしまう。  分厚い本を読み始めたハンスは、絵里がパソコンで仕事をする姿を視覚の隅に捉えている。タップダンスを踊る細い指先が疲れているように見える。トントンと自分の右肩を叩いて、絵里に頭を預けるように合図する。東京までの二時間半、ハンスは絵里の甘い香りに囲まれながら、自分がまた人を好きになっていることに驚いた。もう当分誰も愛せないと思っていた。二年以上こんな感覚になったことはなかった。地球の端に、自分だけが見つけられる宝石が落ちているとは想像もしていなかった。この宝石を見つけるためにここに来たのかもしれない。   残り時間を毎日カウントダウンする。明日のことは考えたくない。スタジオで大量の家具の撮影。ひとつひとつに拘るハンスの要望をアシスタントと一緒に叶えようと絵里は懸命になった。ハンスの望むようにしてあげたい。  撮影以外の休みの日も、いつもハンスのそばに絵里がいた。二人は互いに絶対に開かない台本を持ったまま、愛し合った。台本は読みたくない。お互いの結末に同じ台詞があるのかわからない。知りたくない。今、愛しているのに他に何がいるだろう。過去も未来もいらない。今、愛がある。  スタジオの近くにハンスのお気に入りの和食チェーン店がある。絵里には珍しくないが、写真の豊富に揃ったメニューにも、味と釣り合わない安い値段にも、西洋人は感嘆する。スタッフも連れて度々ランチに訪れた。アシスタントの前では平静を装い毅然とした会社員を演じる絵里が、ハンスには可愛く面白く、民族の違いを楽しんだ。  交通量の多い道路は信号が長い。近所なので薄着で出掛けてきた絵里が互いの腕をこすりながら体を揺さぶっている。寒がりな小さい生き物を、ハンスは後ろから抱きしめる。そうせずにはいられない。温めてやりたいからか、逃げてしまいそうだからかわからない。もうすぐ消えてしまうことはわかっている。消さなくてはいけないことがわかっている。  絵里は臆せず人前で手を繋ぎ、抱きしめるハンスにもう驚かなくなっていた。背中から覆われる愛で心を潤わせ、その流れで溢れさせたい。その海の底に沈んで暮らしたい。静かに黙って砂に座り、頭上の海面の光を眺めるだろう。ずっと。でも今はもっと触れていたい。もうすぐ消滅する幻だから。幻だと信じない悲しみは、絵里の喉を裂く。血まみれの絵里を海の底に引きずり下ろす。海面に藻掻き上がろうとする絵里の足首は海底に引き込まれる。潮に身をまかせて落ちていくしかないのだろうか。絵里にはまだ流す血が残っているのに。  スケジュール通りに最後の夜がくる。帰りの飛行機に変更はない。ハンスも絵里も台本通りの結末を予想している。二冊の違うシナリオを手に、二人は地下のバーに降りていく。週末の人込みはバーの中にまで押し寄せ、話し声から笑いから怒鳴り声まで頭から浴びなければならない。もっと静かな場所を最後の舞台に選ぶべきだったかもしれない。でもハンスには、喧噪が二人の間を綯い交ぜにしてくれてよかった。絵里を傷つけたくはない。それだけはしたくない。  「どこでも行くよ。私を必要としてくれるなら喜んでついていく。北極でもどこでも。」 ハンスの恐れている言葉を絵里は真っ直ぐに投げてくる。 「駄目だよ。今は誰かのパートナーにはなれない。仕事が山積みだし、昔の傷がまだ癒えていないと思うんだ。絵里にはピッタリの人がいるよ。僕じゃない。」 「・・・」  ハンスの前で扉は閉ざされた。それは扉の意思ではない。ハンスが閉めたのだ。自分は絵里を幸せにする人間ではない。何万キロも離れて続くわけがない。求めても離れても辛いなら、ゼロにする。そして決めた心は溶岩が冷めて岩になるように固く固く硬直していく。それでいい。もう溶けることはない。それが絵里のため、二人のため。仕事がある。  ビルや店の明かりが人いきれと混ざって絵里を囲う。地面を踏む感触もなく足は帰途につく。涙を流すべきなのか。明日の朝早くハンスは帰国する。その後も世界中を飛び回るのだろう。平行線なら同じ間隔でどこまでも続くけれど、傾きの異なる関数なら交わるのは一点だけだ。もう永久に交わることも近づくこともない。離れるだけ。でもなぜか絵里は必ずまた会えると信じ切っている。なんの裏付けもない自信が涙を堰き止める。自分の愛の深さだけは真実だから。ハンスの愛が偽物だとはどうしても思えない。きっと結ばれている、どこかで。この人生で最後の人なのだから。静かな海の底に沈んだほうが楽になれるのかもしれない。それでも絵里は海面に顔だけを出して何とか息をしようとする。海はもう赤く、青の美しさも透明もない。藻掻けば藻掻くほど痛みが襲い、塩辛い海水は苦痛を増すだけだ。血が尽きるまで絵里は沈めない。    搭乗のアナウンスが始まった。ハンスは駆られるように携帯電話を取り出し急いで絵里を探す。 「絵里?今飛行機に乗るところ。いろいろありがとう。」  日本を発つハンスの声に、考える間もなく涙がこみ上げた。 「・・・気を付けて。」 「着いたらまた連絡するよ。」 「待ってる。」  何も言えなかった。約束もできない。通りすがりの旅人なのだと言い聞かせる。ハンスに愛されているのだと信じる自分を説き伏せるように宥める。それでも愛している。彼は戻って来る。何の根拠もない思いを溶かすことができない。電話を切ってハンスが日本から消えていくことを想像する。一緒に過ごした時間が小さくなって消えていってしまう。絵里は時間の断片が蒸発する前にしまい込む。  飛行機の窓から振り向いて微笑む絵里の優しさが見える。ハンスは絵里の写った記憶をすべて窓の外に置いて、いつもは見ない機内雑誌に手を伸ばした。鮮やかな記憶も必ず褪せていくことをよく知っている。真実ですら時間が溶かしてしまうことをハンスは知っている。           ******    「どうしている?元気なの?」  絵里は思い切ってテキストしてみた。日本を去ってから二週間、連絡を待つ自分がそろそろ嫌になってきた。数時間後、絵里の二週間が瞬時に圧縮される。 「週末友達と海に行っていたんだ。国境のところだよ。」とハンスは海辺ではしゃぐ様子の写真を送ってきた。夕陽の蜂蜜がかかった海辺もハンスもとろけるように美しい。 「綺麗な海ね。寒くないの?」 「海にはまだ入らないよ。」 つまらない天候の話をつつくと、膨大な距離が二人に襲い掛かって来る。無抵抗に降参するしか手立てはない。 「風邪ひかないようにね。」 「絵里も気を付けて。」  久しぶりの会話は絵里を慰めるでもなく、ただアルファベットが空しく漂っているだけだ。絵里は色のない生活に戻り、昨日と同じ時間を畳んでいく。  曇りの日が多くなった。ここ一週間、いや十日はお日様を見ていないのではないか。このまま梅雨に入ってしまうのかもしれない。初夏の勢いを感じる間もなく、恐ろしく暑い夏がやって来るのかと考えただけでめまいがする。デンマークは夏と言ってもたいした暑さではないのだろう。ハンスが絵里からいなくなることはない。いつでもどこにいても絵里の髪にハンスの手があり、背中にハンスの胸がある。  絵里は引っ越してもまだ開けていなかった夏物の入った段ボールに手を付ける。こんなことをしていると、休みの日はすぐに消えてしまう。仕事と家の雑用で擦り切れる消しゴムだ。小さくなって捨てられるのかしら。妙な想像をしてため息をつく。  携帯電話が呼んでいる。WhatsAppにハンスの文字が浮かんでいる。 「今実家に帰っているんだ。子供の時の部屋にいるよ。変な感じ。」 ハンスは自分が気弱になっていることが不思議だった。ちょっと体調がよくないことなど珍しいことではないのに。 「もう夜中の三時じゃない。大丈夫?寝られないの?」  絵里の朝十時はハンスの夜中だ。ハンスはいつも絵里といるからハンスの生きている時間がわかる。 「久しぶりに熱が出て。たいしたことないんだけど。」 「大丈夫?私が傍にいられたらね・・」 「・・うん・・・時計の音が昔と変わらないんだ。聞こえる?」 「・・・聞こえる。柱時計?大きい時計みたい。」 「だろう、でも全然大きくないんだ。音だけが大きいんだよ。古いのにまだちゃんと動いている。」 「・・・・・」 同じ音が二人を繋いで同じ空間を生んでくれる。 「ごめん、じゃあ、寝るよ。お休み」 「お休み、ゆっくり休んで、お大事に。」  なぜ絵里に電話したのか、ハンスには明確な理由がわからない。布団をかぶって熱い足先を外に出す。冷たい空気が足の熱を冷まし静かに眠りに落ちる。  少しの間でもハンスと共有した空間を取っておきたかった。ハンスの中に自分はいるのか。私はいつもそこにいるのだろうか。自分の中にいつもいるハンスに絵里は尋ねる。           ******     熱は下がったのだろうか。体調はよくなったのか。とっくに熱も下がっているに決まっている。起きた瞬間から、ハンスと過ごした時が過ぎた。四か月何も連絡はなく思い出と過ごす。長い時も、人を殺すほどの暑さも、時が経てば必ず去って行く。  繋がれた時は記憶の底にしまわれ、どれだけ経ってもまだ掘り起こされる。輪郭がぼやけても絵里には大事な時だった。時計の音が聞こえてこない。沈黙が絵里を縛り付け動けなくしている。耐えきれなくて送ったテキストにも返事はなく、いつまでもいつも待ち続けている。  家では飲まなかったお酒を飲むようになった。毎日飲んでいると少々の量では酔わなくなる。自分が娼婦のように思えてならない。妄想が酒の力で喜んでいるのか、いや、この自己分析が大量のデータから割り出された正確な統計であることを認めざるを得ない。自分を愚かだと笑い飛ばす力は既にない。すぐいなくなる人をなぜ本気で愛してしまったのか、自分がつまらないくだらない人間にみえる。軽い女だと言えるなら幸せだ。恋する娼婦は惨めなだけ。本当に愛されている、真実の愛だなんて、憐れだ。ハンスのほんのお遊びだと判決がでているのに、愛することを止められない。絵里は自分を持て余す。いくら飲んでも酔わせてくれない酒にも頼れない。一番好きな人とは一緒になれないのよ。昔、女友だちが言っていた口癖を思い出す。    昼休み、気晴らしに外に食事に出ると来年のカレンダーが店先に登場し始めていた。今年も終わりか。新しい年が来ることに興奮していた子供の頃が懐かしい。今は毎年同じ。橋が落ちてくることはない。半年。離婚して、家を出て、引っ越して、一人暮らしが始まったのに少しも新しい興奮がない。標本にされた絵里の心は小さなピンでとめられてガラスケースの中で乾燥剤の匂いを吸収している。干乾び始めた心はそれでもケースの中でハンスの連絡を待っている。身動ぎ一つせずに静かに耳を澄ましている。私は男に愛されたことがない。利用されるだけ。絵里は黙って見ている。愛されない絵里の心が標本ケースの中で動かない空気と一緒にじっとしていた。  オフィスに戻ると廊下の向こうで河田が呼んでいる。 「ちょっと会議室に来てくれない。話があるんだ。」 「はい。」  河田の後に続いて会議室に入りドアを閉める。 「来年からオランダに支社を作ることになったんだけど、立ち上げのブランディングを手伝ってほしいんだ。一年だけ行ってくれないかな。フランスから行く予定の人が産休になっちゃって、一年繋いでくれたらその後はその人が引き継ぐから。産休明けるまで。」  独り者で身軽な自分に白羽の矢が当たったのだと絵里は直感した。いい機会だ。日本に何も思い入れはない。橋が落ちてくることはないが、急に環境が変えられることがあるのだと、人生の仕組みに驚く。 「はい、わかりました。」 「いいの?そんな二つ返事で。」  絵里が離婚したことは知っていたが、こんなに簡単に承諾するとは河田の予想に反した。顔に出さないが大変なのだろうと自分なりに絵里を気に掛けていたつもりだが、女は思っている以上に強いのかもしれない。河田は抵抗できず自分の結婚生活を重ねる。  絵里は席に戻り、すぐにマンションの契約を確認する。荷物の発送やら、税金、住民票、銀行、生きているうちに絡みついてくる蜘蛛の糸を一本一本確認して外していかなければならない。連絡先が変わることを知らせておかなければいけない人を携帯電話でチェックする。ハンスには赴任のことは言わない。的外れな意地だろうか。淡い未来の期待を戒めたいのか。絵里はハンスに拒絶されたのだと哀れな心に何度も言い聞かせる。           ******     エスキルスチュナでひと月の展示会を終え、ストックホルムに用意されたパーティーも大盛況になった。バンドのかき鳴らす音が人いきれと混ざって店中に充満している。無機質な会話を散々通り抜け、ハンスはようやくカウンターに辿り着いた。頗るよかった展示会の評判が、ハンスよりもエージェントの頬を緩ませていた。ほぼ完売となったことを耳打ちされ微笑んで見せるが、意図的に使われた頬はすぐに無表情に戻る。群衆はハンスの成功ではなく己の自由を謳歌している。音楽が彼らを躍らせるのか、恍惚が音を操っているのか。いつもの光景はもう何も呼びかけず孤独にしてくれる。ぼんやりした視界の端に黒く長い髪が揺れている。「絵里?」ハンスの瞳は意識を取り戻して揺れる髪を追いかける。黒髪は翻り、北欧の美しい女性の顔が現れた。ふっと力の抜けるままにワインに口をつける。  東京の街は、にわかクリスチャンで賑わっている。クリスマスの飾りつけも音楽も毎年代わり映えせず絵里を浮き立たせることはない。それなのに北欧のクリスマスを想像する。自分で自分に放つ罠にみすみすかかっていく堕落した心が恨めしい。忘れるべき亡霊を絵里の心は無邪気に追いかける。どうしても止めることができない。何か月も音信不通の携帯電話から、絵里を呼ぶ音がするのではないかと、四六時中どこかで待っている。気づかない振りをして時間をやり過ごす。亡霊から引き離してくれるはずの時間の密度は濃くなって、絵里に纏わりつく。もう追いかける足は時間の粘り気で前には進まず、身動きが取れなくなった絵里を亡霊は逃げもせずいつも傍で見ている。追いかけなくてもいつも傍にいる。  今年最後の出勤を終えた。来年から一年オランダだ。              ******     スキポール空港には同僚になるスティーブン・ホーフトが迎えに来てくれた。スティーブンは赤毛で髭を蓄え縦も横も巨大に見えた。絵里は見るからに優しそうなスティーブンに初対面から安心する。 「オランダへようこそ。」 「初めまして。お迎えありがとう。」 「車でここから三十分くらいだから。」 スティーブンのエスコートは自然で気負いがなく、絵里は昔からの友人に久しぶりに会ったような心地がした。スティーブンは安心感を与えてくれる。車窓からは牧場のような光景が続く。「牧場のような」ではなく牧場なのだろう。牛や羊や馬が放牧されている。アムステルダムの近くなのに。新宿から十分で北海道があるようなものだ。空が広い。徐々に建物が増え始め車や人が多くなる。ビルも見えてくる。街のようだ。 「・・・だからまず販路を確立して、ロジを確保して全体のシステムを一回まわしてみないといけないんだ。」 「えっ、そうね、・・・一度回せば改善点も見えるし・・」 スティーブンの話は、道中のBGMになっていた。絵里は聞き返すこともせず話を合わせる。 「もうすぐだよ。そこが駅だから。オフィスはアムステルダムに一応借りてあるけどみんな家で仕事してるんだ。会議はオンラインでできるしね。絵里も使いたかったらオフィス使ってもいいし、家でもいいし。」  オランダでは在宅で働く人が多い。オフィスにいなければできないこと以外は自宅で十分だ。まず一つ、会社員の縛りがほどけて絵里は爽快感を味わった。 「ここだよ。到着。荷物を降ろそう。」  絵里の仮住まいはアムステルダムから電車で十五分、車で三十分ほどの郊外にあった。小さな町には要塞の跡も教会もある。店もたくさんあって観光客が来るほどかわいい街だ。運河が街の中を縦横無尽に走っている。一年でもここで暮らせることが絵里の心を弾ませる。石畳の隙間から顔を出す紫の小さな花に歓迎される。名前も知らない黄色い花も家の壁と石畳の間から窮屈そうに光に向かって伸びている。誰が植えたのでもなく光のままに生きている花たちは寒さにも震えず凛としてある。    部屋に入ると、絵里はハンスと同じ時間を生きているのだとふと思った。それだけで幸せを感じる。こんなことを思うとは想定していなかった。同じ時間の帯にいる。ハンスの朝は絵里の朝、絵里の夜はハンスの夜。  玄関のドアを開けるとすぐに五段の小さな子供用のような階段がある。レンガでできた階段は中央が少しへこんでいる。削れるほど人が通ったのだろうか。小さな階段で降りた先は右手にキッチンがしつらえてある。キッチンの突き当りは三枚の硝子が入った小窓になっている。半地下だから窓枠の下は地面と同じ高さで、視線は外を通る人のひざ下くらいになる。自転車で通っていく人の顔は見えにくい。それでも家の前の教会が通りの向こうに見えて、洗い物が楽しくできそうだ。左手にはまた五段の階段があり、上がるとリビングだ。大きなエル字型のソファとダイニングテーブルがある。白いタイルの床、白い壁、白く高い天井。一人には広すぎる。 「荷物ここに置いておくよ。これからサッカーなんだ。なんかあったら電話して。明日昼頃にみんなでオンライン会議する予定だから、アドレス送っておくよ。」 「ありがとう。休みの日に付き合ってもらっちゃってごめんね。また明日。」  今日は日曜日。教会から鐘の音が響く。家の前には大きな教会がそびえたっている。十五世紀に建てられたゴシック様式の教会だと観光案内に書かれてあった。街のほぼ中心にある家の周りには小さな店が並んでいる。本屋、バー、カフェ、洋服屋、雑貨屋、図書館、花屋、レコード屋・・・石畳の中から出てきた店はレンガでできた古い入れ物にすっぽり入っている。木の窓枠の前には小さなテーブルと椅子が客を待っている。  絵里の家のお隣は骨董品屋のようだ。ガラス窓から中に置かれた古い農耕器具のような鉄器やら子供の人形に額縁、仏像まで見える。店は閉まっていて人はいない。日曜日は休みなのだろう。  一息すら新しい。絵里は肺いっぱいに辺りの空気を吸い込んでみる。絵本の住人になったようだ。ここに来てよかった。  しばらくすると教会の鐘の音にも慣れてきた。時差ボケも収まり、鐘の音で浅い眠りから一気に現実に引き込まれることもなく朝まで眠ることができるようになった。  土曜日。運河沿いに花屋、チーズ屋、生地屋、魚屋、八百屋が軒を並べる。いつにも増して多くの人がやって来る。絵里は一つ一つの店を覘いては客同士のやり取りを眺める。市場にもスーパーにも遠くの公園にも地図なしで自転車遠征できるようになっていた。もう立派な住民だ。 「おはよう、元気?」 「おはよう、うん、元気よ。」 お隣の骨董品屋は土曜日だけ店を開ける。主人のヤンは七十過ぎに見えるが身のこなしから六十代に違いないと絵里は予想していた。 「これ可愛いだろう。二百年くらい前の絵本なんだ。」 ヤンの手は優しく絵本を取り上げ、絵里に差し出す。表紙の少女が微笑みかける。赤や緑やピンクが淡い色使いで暖かくさせてくれる。 「古いのに保存がよかったのね。しっかりしてる。」 「レポレロ型っていって、ページが折りたたまれていて伸ばすと2メートルくらいになるんだよ。」 「えーこんなに小さな本なのに?!」 驚く絵里を見るのが楽しみで、ヤンはいつもシルクハットの中に鳩を仕込んでおいた。  市場へ買い物に行く習慣は、ヤンに会うことを含めた楽しみになっていた。運河沿いにゆっくり歩く。水面の光が寒い冬の終わりを待っている。行き交う人たちはみな大柄で絵里は子供のように小さい。ガリバーの逆バージョンの物語が書けそうだ。 「あっ・・」  人込みにいつもハンスを見つける。近づけば違う人だとすぐにわかる。背が高いだけ。金髪なだけ。そんな人どこにでもいる。でもハンスはいない。ハンスは近づくと消えてしまう。海のあぶくのように。  オランダ支社の立ち上げは日本と違って緩やかだ。いや、遅い。のんびりしている。苛立っていた絵里も、徐々にヨーロッパのペースに慣れてきた。ハイヒールで小走りに動き回っていた日々が、スニーカーで風を楽しみながら歩いている。立ち上げメンバーは五人、フランス人一人とスティーブンを含めたオランダ人三人と絵里。オランダ人は開放的で裏表がない。少なくともわずかな経験から絵里はそう思っていた。付き合うのがとても楽だ。いいことも悪いこともなんでも話す。そして次の日に持ち越さない。絵里は心地よく仕事していた。こんなにのびのびと働いていいのだろうか。ほとんど家で仕事をし、会議はオンラインだから、生活の中に仕事がするりと溶け込む。生きている実感がある。どうしても会わなければならない時はオフィスに行ったり、自転車で十分の家からスティーブンが来てくれる。たまに絵里が行くこともあった。              ******     「どうしてる?元気?」  無邪気なハンスのテキストは喜びよりも驚きで圧倒してきた。何か月ぶりの連絡だろう。絵里は鼓動が急に激しくなるのが憎らしかった。オランダにいるとは言わない。 「近所の公園で桜を見たんだ。こんなところにあるとは知らなかったよ。一本だけだけど。」 「日本を思い出したの?」 「うん、ちょうど桜が咲いていたと思って。綺麗だった。」 「そうね、いい季節に日本に来たわ。」 「元気?」 「ええ、変わりなく元気にしている。」 「そう、よかった。」 「あなたも元気?」 「うん、大きな展示会が終わってからちょっとのんびりしているよ。」 「そうなんだ。元気そうでよかった。」 「じゃあ、絵里も元気で。」 「うん、ありがとう。」   何か月もひたすらに待ち続けた瞬間が終わった。社交辞令の裏には暖かい息があるのだろうか。なぜオランダにいること、二人の距離が縮まっていることを告げないのか。ハンスとの三週間が一瞬だったように、二人の線はもう離れていくだけと諦めているから。薄くなり消えていく。喉の奥が熱い。熱は鼻の奥まで上がって来て一気に涙になって弾けた。声をあげて泣くのは五歳の時以来だろうか。声が出なくなるまで、喉が枯れるまで泣き続けた。哀れなのか、愚かなのか、誰か笑ってくれればいい。  ハンスが恋しい。テキストのやり取りの間はお互いの時間が繋がっていた。その時だけ。今はもう違う空間に隔離されて絵里の頭の中にだけぽつんと浮かぶ。消えることなく漂い続けている。恋しい。ただ恋しい。ハンスのすべてが恋しい。    オランダは一日のうちに晴れ、曇り、雨、すべての天気がやって来る。黒い雲が遠くの空に現れるとその後必ず豪雨が訪れて、少しすると何事もなかったように日が差してくる。夏を迎える準備なのかスコールのような雨が新緑を鮮やかに染める。オランダが花の国なのはこの雨のお陰なのかもしれない。  ずぶ濡れの熊が絵里の家に避難してきた。スティーブンにタオルを渡し熱いコーヒーを淹れる。 「少し待っていれば止んだのに。」 「もう家を出ちゃったから引き返すのも面倒だし。」  オランダ人は雨をあまり気にしない。傘を差さずに慌てることもなく雨の中を悠々と歩いている。スティーブンもオランダ人だ。 「本社からのメール見た?」  二人の仕事が始まる。半年近く繰り返されると当たり前のようだが、わざわざ会わなくてもできる仕事だ。それはスティーブンも絵里も承知している。そして二人とも気づかない振りをして仕事を続ける。 「休憩!」 絵里はコーヒーを淹れに立ち上がる。スティーブンも座りっぱなしの体をほぐしながら席を立つ。台所の小窓から覗いた空は敷き詰められた雲に煙っていた。 「また、雨が降りそうよ。」  絵里のつぶやきに、束ねた長い髪、小さな背中、狭い肩に固まっていたスティーブンの視線は、小窓に切り取られた空に一瞬追いやられた。 「そうだね・・」  軽く相槌を打ち、視線を長い髪に戻す。ふいに振り向く絵里の小さな微笑みの端に、スティーブンの唇は引き寄せられて、自分ではない細かい皮膚に触れた途端に抱きしめていた。考えもなく、心から抱きしめた。絵里の戸惑いに気づいたが、スティーブンの想いのほうが遥かに大きかった。絵里は暖かい大きな塊に包まれた。予期していた突然だったのかもしれない。些細な躊躇には罪悪感という心地よさがあった。スティーブンを愛しているのだろうか。向き合いたくなかった。自分の中に住んでいるハンスを追い出せない。ハンスを愛している。成立しない愛への当てつけだろか。求められるままに抗いもせずスティーブンに体を委ねて唇で応じていた。絵里はスティーブンにもハンスにも抱かれていた。不誠実という言葉で簡単に説明がつくとは思えない。本気で愛していないなら罪なのだろうか。嘘つき?誰に嘘をつくというのだ。自分に?それは一番辛いことかもしれない。スティーブンを好きなのは嘘ではない。愛しているかと聞かないでほしい。愛にも種類があるのならスティーブンを愛していると言える。愛が一つしかないのなら、ハンスにしかあげられない。           ******     朝から雨。ハンスは携帯電話で撮った写真を整理してみる。ストレージが限界だと数日前からしつこく警告されていた。紅茶のマグを手にソファにうずまる。薄暗いリビングで次々に日本の写真を消去していく。ゴミを捨てるのに躊躇することがないように写真を捨てるのに戸惑いはない。  ハンスは三週間の航海で奇妙な国の珍しい女に触れてみたくなった。罪の意識など皆無だ。自分の眼差し、自分の指先が重罪を犯していることなど気づいていない。東京の趣味の悪いビルの明かりはハンスを麻痺させ、下水道の汚臭さえアジアの香水に変わった。絵里との未来などもともとないのだから、聞かれても答えはない。絵里との時間は甘いカクテルのような思い出になった。ハンスの人生のどこにでも散りばめられている赤いカクテルだ。  雨の音が頭に肩に落ちてくる。絵里は美しかった。恋しいのか?そんなはずはない。過ぎたことに囚われる性分ではない。言い聞かせるように立ち上がり、机に向かう。終わったのだ。雨に濡れながら次の企画に目を通す。そう、終わった。           ******     仕事が一段落すると、食事を作るのがお決まりになっていった。クロケットもスティーブンから教わった。日本のコロッケと大差ないが衣の固さが違っていて食感がたまらない。スティーブンが一人の絵里をいつも気遣ってくれるのがわかる。絵里は一緒にいると心が穏やかでいられることに気づき始めていた。二人の時間が増えていく。赤毛の髭が笑うと暖かくなる。  オランダ人らしくスティーブンの骨格は大量の肉を支えている。絵里にお腹の肉をからかわれると、一度テレビで見ただけの相撲取りの真似を始める。何度やってもけらけらと笑い転げる絵里を引き寄せてずっと抱えていたくなる。  スティーブンは絵里の中に誰かの気配をずっと感じていた。その邪魔者が退場しないと自分の居場所はないのかもしれない。しかし退場しなくてもいい、自分がそこにいられればいい。問い詰めて小鳥が手のひらから逃げてしまうのが怖い。気づかない振りをしていればいつか邪魔者が気にならなくなるはずだ。いくら時間をかけても構わない。  週末はスティーブンとサイクリングに行くことが絵里の恒例行事になっていた。短い夏の日差しをオランダ人は隅から隅まで味わい尽くそうとする。絵里にはオランダの夏が日本の初夏くらいにしか感じられない。日差しは強いがちっとも暑くない。今年は日本の夏から逃れられたことを心底会社に感謝した。  近所の公園から遠出して海に出かけることもある。海までも自転車で一時間かからない。 「お子様はペダルにちゃんと足が届くかな?調整しようか?」 「また馬鹿にする。」  小柄な絵里は子供用の自転車を買った。オランダ人用の自転車だと足が地面に届かないのだ。スティーブンは自転車に乗るたびに子供自転車をからかってくる。実際、絵里にとってスティーブンは父親のようだった。チェーンが外れても、サドルの位置がおかしくても、すぐに手を真っ黒にして直してくれる。甘えられる自分が新鮮でもあり嬉しくもあった。いつも自分一人で問題を解決しなければいけない、自分一人で頑張らなければいけないと染みついた性分がスティーブンの前では顔を出してこない。  結婚しても直人に頼ったことはなかった。生活費を稼ぐことからすべて一人でやらなければならなかった。甘えるということがこんなにもしあわせなことだと初めて知った。絵里はスティーブンのタイヤの跡をもう一度なぞるようにペダルを漕いだ。スティーブンは何度も後ろを振り返り、絵里の様子を確認してくる。彼の眼差しに入り込んで、頼るということ、安心ということに身を任せてみる。愛されるというのはこういうことなのだろうか。スティーブンの作り出した柵の内側で絵里は好きなだけ走り回った。日差しは白く温かく風は澄んで心地よい。  十月が近づくと肌寒くなってくる。夏は二、三日しかなく、扇風機すら必要なかった。長い秋、部屋に差し込んでくるお日様の位置が日に日に低くなる。もう床には日が指さなくなった。  午前三時、絵里はぱちぱちと弾ける音で目を覚ます。外で何か起きているのか、眠りの世界に片足を置いたまま重い体を音のほうへ動かす。外ではなく音の正体は家の中にあった。天井の梁から水が滴り落ちている。雨漏りなんて初めてだ。絵里はなんだか笑いたくなる。取り敢えず不動産屋にメールしておく。床がタイルなのが有難い。雑巾を滝つぼに投げて、片方の足をもう一度眠りの世界に戻す。 「おはよう!滝ができたって?見に来たんだけど。」 ドアの外に立っている作業服の髭のおじさんを部屋に通す。子供の時に読んだ不思議の国のアリスに出てきた人だ。 「おはよう、そうなの夜中に滝が流れ出して、こっちだから、見て。」  早速、朝から作業の人が来てくれた。しかしどうすればあんなに太れるのだろう。骨の作りからきっと日本人とは違うのだろう。オランダ人の規格の違いに、絵里はいつもダーウィンを思い出す。 「雨が入ったのかな。屋根裏を修理していくよ。当分は大丈夫だろう。」 「ありがとう、お願い。もう夜中に起きたくないから。」 「古い家だから仕方ないねぇ・・」 「どれくらい古いの?」 「三百年以上だろう、軽くね。十七世紀の終わりごろだよ。」 「三百年?!」 「俺と同じで古いから修理しないと。」  髭のおじさんを不思議の国へ見送り、受験で叩き込んだ日本史の知識を蘇らせようと沈黙した。三百年前。井原西鶴、徳川綱吉、元禄時代、新井白石、享保の改革?松尾芭蕉が奥の細道を作っていたころにできた家なの?江戸時代中期後半ってところか。絵里は床のタイルを踏みしめてみる。  エファージュの画像が巷でどう動いているのか調べる。帰国まであと数か月。そろそろ産休明けの引継ぎのために、これまでの動向をまとめておきたい。絵里はネットを操っていく。大量の家具の写真の中に人物の写真が混ざっている。写真の下には「ハンス・ピーターセンとパートナーのソフィア」の文字。体が視覚だけを残して崩れ落ちて消滅していく。これまで避けて目を向けないようにしていたのに、突然現れてしまった。嫉妬と言うのだろうか。鳩尾から食道に熱い塊が転がって藻掻いている。痛い。こめかみから熱が上がって耳の後ろから食道に入っていく。二つの熱が喉で一つになって燃え上がる。心臓が炎に包まれる。体がこんなに反応しているのに頬の筋肉は一筋も動かない死人だ。瞼を閉じたいのに閉じられない。ソフィア。すらりとした長身にシャンパン色のロングドレスが似合っている。巻かれた金髪が輝いて見える。あのハンスの手を握って歩き出す。  どこかで予感していたのに実際に目の前に突き付けられて、絵里は瞬時に粉々になった。ようやく動けるようになってきた指先を使ってはじけ散った自分の破片を拾い集める。ただパソコンをクリックした指を恨む。  前の恋愛の傷が癒えないからまだパートナーはいらない、付き合える心境ではないと真面目そうに話していたハンスが蘇る。絵里とは気まぐれに付き合っただけ。黒い瞳が珍しかっただけだ。終わりのわかっている観光客の遊び。納得させたはずなのに、本気で愛されたのではと期待した可哀そうな自分を憐れむ。馬鹿な自分を罵る。飛び散った欠片を拾う。美しいパートナーを見せつけられて粉々になった細胞は、またひとつに集まって形作られると飽くことなく亡霊への愛を誓う。繫ぎ目となった無数の傷に血が滲む。どこまでいったらハンスへの想いは止むのだろう。自分を持て余す。あてにならない約束をひたすらに待っている。絶対にボートに乗ることなどないのはわかっているのに。  もうハンスから連絡がないことはわかっている。そしてどこかでひたすらに待っている。愛であったのだと可哀そうに信じている小さな絵里がいる。消えていかない想いを文字にして弔ってやろうと手紙にしてみた。気持ちを洗い流して先に進みたい。愛されていないことを自分にわからせるのだ。手紙は自分を蔑み、ハンスを悪魔のように書き立てた。文字はどす黒い静脈血になり体中の血管を流れる。やがて美しい芥子の花は阿片になって絵里の全身を巡り恍惚とさせた。愛を憎しみに変えて味わう。憎悪は骨の中まで染みとおってひととき楽園に連れて行ってくれた。冷たい現実に戻りたくない。絵里は何度も読み返す。 愛する人をなぜ憎んでしまうのか。 濁って醜い愛はどす黒い静脈血になって全身を満たす。 その恍惚から逃れるのは難しい。 愛憎の意味が長いことわからなかった。 Body & Soulを歌うとき Billie Holidayのように言葉と言葉の間が埋められなかった。 でも今ならやっと空白を表現できる。           ******     いつもの土曜日。ヤンの店には数人のお客が熱心に古道具や古本に見入っている。変わらない古い空気の匂いに絵里は安らいだ。  店の隅に飾られた木箱は長財布くらいの大きさで高さが五センチくらい、アールヌーヴォーのデザインのような草花が彫り込まれている。おそらく緑で塗られていたのだろう。ほとんど塗料は剥がれ落ち、深い溝に少し緑の名残が見られる。蓋は開かないけれど箱として使うより彫刻として飾っておくほうがいい。もう十分仕事はしてきただろう。 「綺麗でしょう。三百年くらい前の書箱(ふみばこ)だよ。そのデザインが流行ってた頃だから。」  ヤンはいろいろと当時のことを説明してくれる。十七世紀のオランダの繁栄、貿易、貴族、商人、教会。絵里は自分の住む家と同じ年齢の書箱に急に親近感がわいてくる。滅多に衝動買いなどしない慎重さが、骨董品屋ではみつからない。 「高いんでしょ、この箱?」 「120で売ってるけど、絵里なら100でいいよ。」 三百年前の書箱が100ユーロ。絵里には相場がわからない。そんなに珍しいものじゃないのだろうか。しかしなぜか惹かれる。 「もらってく。」 「じゃあ、このボタンおまけだよ。好きなの持っていって。」 「ありがとう。」  絵里はボタンが山盛りにされた器から、木でできた一番大きなボタンを手に取った。誰のコートについていたんだろう。オランダ人?長年ご主人様のコートに寄り添って、終焉を得体のしれない東洋人の手の中で迎えるとは・・数奇な運命に心を馳せる。  書箱のステージを部屋のどこかに見つけなければならない。家の中心に鎮座してもらうことにした。おそらく暖炉があったであろうリビングの壁には旧暖炉の上に板が張り出している。すでにいくつかの植木が自分の居場所として主張しているが、その間に置くことにした。蓋の美しい彫刻が見えるように立てかけてみた。  本当にこの蓋は開かないのか。絵里の好奇心はナイフを持ち出して書箱をこじ開けようとする。絵里の慎重さは箱を傷つけることを恐れる。無理やりナイフを当てたら確実に箱に傷がつく。ヤンだって試したに違いない。開けたら売り物にならなくなるからきっと止めたんだ。絵里の好奇心はどうせもう自分の物なんだから壊れたってどうだっていいじゃないかと急かす。最後は合理的な絵里が采配を握り、書箱は傷を負うことになった。  ナイフを蓋と本体の隙間にねじ込み、てこの原理でこじ開ける。ナイフを動かすたびに書箱は痛々しく変形していく。続ける勇気を失いかけたとき、本体の縁が見えた。ナイフを深く差し込んで今までより大きく上下させ、指が入るほど開き両手で引っ張ることができた。  三百年前の空気が、中から小さく溢れ出す。浦島太郎のように白髪になったらどうしようかと真剣に考える。黴のような、古い木のような嗅いだことのない匂いが一瞬鼻にやって来た。中には三百年前の空気だけではなく数枚の紙きれが入っていた。三つ折りになった黄ばんだ紙にはたくさんの文字が書かれてある。考古学者となった絵里は、そっと書箱から紙を出して広げてみる。文字は見えるが理解できない。オランダ語だから。オランダ人はみな英語を話すから、絵里は赴任が終わるまでオランダ語を学ぶ気はこれっぽっちもなかった。 しかし、そう、いまは十七世紀ではない。Googleという賢い秘書が二十四時間体制で控えている。絵里は紙にかかれた文字をワードに落として自動翻訳してみた。 『私はお母さまのように夫を愛することができるのだろうか。他の女の人と恋人のような振る舞いをするお父様を、どうしてお母さまは愛するのだろう。たとえ相手が娼婦でも貴婦人でも。フュラウド公爵夫人とのこともただの噂と思っているのかしら。愛ではなく生きていくためなの?私にはどうしてもわからない。心から愛する人と暮らして一生愛していきたい。』  父親の不倫の話?二十一世紀と変わらない。人類は本当のところ何も進歩していないのかもしれない。 『新しい屋敷へ越してきて少し落ち着いた。ルイーズと別の部屋になったことが一番うれしい。ルイーズの毎晩の質問の嵐にはもううんざり。私も十五の時はあんなだったのかしら。数年前だけど、もう少し思慮分別があったと思う。もちろん好奇心は今より多かったような気もする。私に姉がいたらきっとルイーズのようにあれやこれや話していたかもしれない。』    姉妹のお姉さんのほうが書いたものらしい。日記だろうか。当時はノートがなかったのだろうか。数枚だけ残っていたのか。そんな謎よりも三百年前のオランダ人の女の子が考えていたことを、三百年後日本人が読んでいる不思議。映画の登場人物になったようで、陳腐な内容にも壮大な興奮が起こってくる。  手書きの文字を起こすのはちょっとした労働力だが、絵里は時間を忘れて没頭した。 『台所の小窓はこちらからは見えるけれど、外から私を見つけることはできないだろうから秘密の窓ね。誰も足元に目があるなんて思わないもの。 なぜかいつも小窓から見える人がいる。若い神父様。急ぎ足で通り過ぎるときもあれば、ずっと壁に寄りかかって何か読んでいる時も、ただ立ち止まって考え事をしているような時もある。教会のミサでは見かけたことがない。不思議とよく見かける。教会の前に住んでいるのだから、神父様を見るのは不思議なことじゃないけど。』 台所の小窓?教会の前?もしかしたらこの家のことかもしれない。絵里は飛び上がりそうになる。信じられない。この家に住んでいた人が書いたのかしら。あの窓から外を見ていたの!!あの台所の窓から?! 『アンヌと市場に行った。食料はアンヌに任せて私は花を見る。いつものこと。いつもと違ったのは神父様に会ったこと。もちろん彼は私を知らない。彼は私の小窓の住人だから。神父様は花を選んでいた。店の男の子が手慣れた様子で花を束ねて渡していた。神父様の瞳は青かった。なぜか私の心は勝手にどぎまぎし始めて急に踵を返して反対側の花屋に向かった。橋を渡ると水面がキラキラと輝いていた。今日の日差しは暖かく強かった。』  可愛い。十七、八歳くらいで初恋なのかしら。おそらくアンヌは召使だろう。貴族だったのだろうか。絵里の住んでいる部屋は、リビングと寝室と台所とバスだけれど、他にも三世帯入っているから、この建物自体には十人くらいの人が住んでいる。一家族と召使が住むには十分な広さだ。昔見た中世ヨーロッパの画家フェルメールの映画を思い出す。 『今まで私の小窓に偶然現れていた神父様の出番を私は毎日心ひそかに待つようになっている。用事がなくても足が勝手に台所に行ってしまう。これまで気にしていなかったときは、行くたびに見ていたような気がするけど、今はなかなか現れない。私は何をしているのだろう。』  この女の子、神父のことを本当に好きになってしまったみたい。神父はきっと相当ハンサムに違いない。神父を好きになっても普通に付き合えるのかしら。絵里は三百年前の恋物語の主人公を真剣に心配し始める。 『領地を巡回するためにお父様は数日帰ってこない。こんなに時間がかかるほど領地は広くない。きっと公爵夫人と一緒なのだろう。お母さまには嫉妬というお気持ちがないのかしら。』  この子の父親、まだ不倫しているのね。全くしょうがない。でもヤンが昔はそれが当たり前で、貴族の仕事でもあったって言っていたことを絵里は思い出した。情報収集のためにいろんな人と付き合う。江戸時代には大奥もあったし同じようなものかもしれない。高貴な人たちのすることは、その世界にいなければ計り知れない。それでも若い娘からしたら信じられないし許せないのだろうと思いを巡らせる。そして絵里は自分のこの娘への思い入れがふとおかしくなる。 『お母さまが、とても久しぶりに私の髪を梳いてくださった。お母さまに髪を触られている時は本当に幸せを感じる。お母さまの髪の毛の扱い方がお上手だからかもしれないが、それよりもお母さまの愛情で包まれる感覚が私をうっとりさせる。こんな幸せはない。私はこころから愛されていることを実感する。 お父様の話をした。勇気を出して。お母さまは公爵夫人のことをご存じだった。私はお母さまの前で怒りをぶちまけてしまった。お父様への不満をどうしてお母さまにあててしまったのか。お母さまはお父様を愛していると言う。すべてを。そして私にはまだわからないだろうと言う。ええ、わかりません。すべてを愛するって。』  母親は承知の上で不倫を許していたんだ。嫉妬しないのか。結婚は仕事だと諦めていたのか。でもこの女の子は理解できてないから、時代のせいじゃないのかもしれない。それとも若いからわからないのかしら。絵里は直接会って話が聞けないものかとまどろっこしく爪を噛む。最近見たSF映画を現実に引きずり込んでみる。  当時の女性の生きる道は結婚しかなかったのだろう。貴族の娘が魚を売ったり、工場で働くわけにはいかないし、嫁いで夫に養ってもらうしか道はない。だから離婚などできない。どんな夫でも文句を言わずに我慢するのだろうか。結婚も仕事か。  それとも・・・母親は娘に嘘をついてはいなかったのかもしれない。他の女を愛する男を愛していた。夫のすべてを愛して幸せだったのかもしれない。頭の上から冷たい塊が絵里の胸まで降りていった。相手のすべてを愛することが本当の愛なのか。何をしようとされようと愛することが止められない。それが本当の愛なのかはわからないけれど。自分が愛されていないと確信しながら夫を愛する。愛する人の愛は決して自分には与えられない。愛されるから愛するのではなく、ただ愛する。指先が氷になり、立ったまま固まっていく。底のない漆黒の泥濘を覗き見てしまった。恐ろしい愛の深さが絵里のつま先まで氷にする。  豪華な鏡台の前に座り髪を梳いてもらう娘と梳いてやる母。琥珀に閉じ込められた美しい母娘は息をせず微笑んでいる。娘は母の愛に納得し同じ道を歩いていくのだろうか。母はそれが幸せだと生涯をかけて娘に示して見せるのだろうか。二人は静かに絵里に微笑みかける。 『太陽が落ちてきた。私は焼け焦げてしまった。今の私はもう違う私になっている。太陽が家にやって来てノックをした。ドアを開けるとあの神父様が立っていた。きっと私は驚いた間抜けな顔をしていただろう。神父様は教会の硝子細工の寄付のことでお父様に話にいらしたようだ。そんなことどうでもよくて・・・神父様はヨハネス・ファン・ロイスダール。そんなことどうでもよくて・・・神父様は私のことを覚えていて、花屋にいたことを覚えていて・・・神父様は私をエリザベートと呼んでくださって、私にヨハネスと呼ぶように言ってくださって。ヨハネスは私を見つめて微笑んで、瞳が青く優しくて、勉強会にも誘ってくださった。ああなんてこと。なんてことが私のこの退屈な人生に起きてしまったのだろう。』  この子エリザベートっていう名前なんだ!名前を持った主人公は急に彩られて話しかけてくる。絵里はますます引き込まれていった。とうとう恋が始まった。神父はヨハネス。両想いになれるのか。高校時代に友達の恋愛を応援した時を思い出す。好きとか嫌いとか、くっついたとか離れたとか、今から思えば可愛い遊びも十代の自分たちにはいたって真剣な一大事だった。  しかし中世ヨーロッパの平均寿命は四十代後半くらいらしいからエリザベートの年齢なら現代の日本の平均寿命に換算したらもう四十近くになる。二十歳過ぎたら人生の半分が終わったところだ。きっともうとっくに結婚しなきゃいけない年だろう。どうするのだろう。神父と結婚するのかしら。絵里は文字を拾うのがまどろっこしく感じてきた。早く先が知りたい。はやる心をなだめる。 『彼の愛に包まれて今ここが天国になる。彼の抱擁は無限の広がり。どこまでも尽きることなく私を満たしてくれる。こんな幸せがあるなんて。彼の唇は優しく、愛の言葉を注いでくれる。暖かい愛を口移しで与えてくれる。』  よかった。読書好きの絵里でも、本の主人公にここまで思いを重ねたことはなかったのに、心から安堵した。エリザベートの想いは通じたのだ。自分のことのように嬉しくなって一人白ワインを開ける。神父なら浮気しないだろうし、きっと若い二人は幸せに暮らしていくのだ。羨ましいというより安心した。若いエリザベートに幸せになってほしかった。赤の他人で三百年も前の人だけれど、本当にここで生きていた人。ただ幸せになってほしかった。自分の分まで。ここに本当に生きて暮らしていた人だからそう思うのかわからない。みんな幸せになってほしい。幸せであってほしい。自分にはかなわないことだと思っているからだろうか。絵里には自分の心が掴めない。   オランダにいられるのもあとふた月余り。産休明けの同僚のために引き継ぎ書を作り始めた。育った町へ帰る。家々が隙間なく立ち並び、張り巡らされた電線で切り取られた小さい空、アスファルトで覆われた町。オランダでの一年を懐かしみながら日本で朽ち果てていくのだろうか。もう終わりたいとも思う。十分生きたような気がする。  スティーブンの愛は優しく温かい。優しければ優しいほど、絵里の心は擦り抜けて遠ざかる。愛されるということがわからないのかもしれない。愛されたことのない心は逃げるしか術を持たない。公然とした時間の終わりがスティーブンへの都合のいい言い訳になる。愛していないわけではないが愛され方がわからない。帰国の日が近づくほどに絵里の心は凪になる。この瞬間も過去にしまいこむ。もう体温をやっと保つ程度の熱しかない。  変わらずハンスの連絡を心の隅で小さく蹲って待ち続けている自分が哀れでならない。絵里は途切れた糸が決して再び繋がることはないとわかっている。蹲る小さな自分を燃やし尽くすには絵里自身を終わらせるしかないこともわかっている。だから諦めて朽ち果てる自分を眺めているしかないのだ。もう静かに眺めていられる。何もいらない。疲れた。  仕事の合間にもう一つの仕事をする。三百年前のメモの翻訳。あと二枚残っている。これはこの家で終わらせてから日本に戻りたい。この小窓のある家でエリザベートにさよならしたい。 『幸せはずっとこのまま変わらずにあるものと勘違いしていた。いいえ、考えてもいなかった。ヨハネスはアフリカに行く。志願したのだ。私のせい?私から離れるため。』  どうして、どういうこと?幸せな結末ではなかったの?エリザベートはヨハネスと生涯幸せに暮らしましたという物語ではないの?アフリカに布教に行くのかしら。志願したということは強制的に行かされるわけではないのだろう。なぜエリザベートから離れてアフリカに行くことにしたの?二人の暗雲に飲み込まれて、三百年前の悲しみが絵里の前に差し出される。自分の幸せを分けてでもエリザベートに幸せな未来を生きてほしかった。ヨハネスの心変わりなのだろうか。短い文と拙いオランダ語の読解力には限界があった。幸せの想像にも限界がある。 『ヘンドリック・スナイデルス。私の相手。大人が決めた相手。ヘンドリックは優しい人だ。商売もうまいらしい。賢いし私を尊重してくれる。心の綺麗な人だと思った。私はヘンドリックと結婚すべきなのだろうか。運命というものはあるのだろうか。生まれる前から一緒にいる人は決まっているのだろうか。なぜ神様は一緒にいられない人と出会わせて、愛させるのだろう。なぜ神様は残酷なのだろう。』  商人と結婚するのかしら。当時は貴族と商人の結婚はよくあることだってヤンが言っていた。エリザベートはどうするのだろう。ヘンドリックと結婚するのかしら。いい人みたいだし、神父のくせにいい加減なヨハネスは忘れればいいじゃない。絵里は友達に諭すようにエリザベートに説教を始める。エリザベートを苦しめるヨハネスに正義感を振りかざし、ヘンドリックの味方になる。それともアフリカについて行けばいい。そうだ、ヨハネスとアフリカで暮らせばいいんだ。絵里はエリザベートに一緒にアフリカに行くと言うように説得し始めた。当時アフリカに行くということは命がけのことだから両親が許さないかもしれない。絵里は友達から親戚のおばさんに変化して心配を募らせていった。でもまだ希望がある。愛を繋げる希望。自分がなくした希望。絵里は残った力でエリザベートの希望を必死で掬いあげようとしてみる。自分と同じ陳腐な悲しみを味わってほしくない。 『ヨハネスはいなくなる。もう少しで。私をアフリカに連れて行ってほしいと言ってみた。これまで生きてきて、初めて自分の意思を表に出した。彼と離れたら私はちぎれてしまう。切れ切れになったらもう元の私には戻れない。』  よかった、よくやったわ、エリザベート。アフリカについて行けばいいのよ。これでハッピーエンド。説得したとおりエリザベートはアフリカに連れて行ってと言った。絵里は満足だった。若いエリザベートがそれからの人生を苦しまずに幸せに生きていかれる。本当によかった。どんな場所でもヨハネスと一緒にいられるのなら天国に違いない。大切な友達の幸せを心から喜んだ。残りのメモにはきっと新天地での生活のことや子供のことなどが書かれているのだろう。逸る気持ちは絵里を浮き立たせ、オランダ語の文字を拾い集めた。夢中になったタイプの音がせわしい部屋に、ドアベルが割り込んできた。 「絵里、林檎持ってきたよ。」 スティーブンが来るのを忘れていた。 「どうしたの?なんだか嬉しそうだね。」  微笑む絵里のまわりにはいつにも増して光が舞っている。自分にだけ見える幻影をスティーブンは楽しんだ。そして自分にだけ見せてほしいと望んだ。 「そう?いつもと同じよ。引継ぎのレポート作っていたら思っていたよりうまくやれたかなって自分を褒めてたの。自画自賛の笑顔かも。」  世紀の大発見を内緒にしておきたい。スティーブンに見せたら、きっとすぐに翻訳して教えてくれるだろう。それでは味気ない。それらしい言い訳をして繕ってみる。ひとつひとつエリザベートの文字を書き起こし翻訳してみる醍醐味を独り占めしたい。すべて訳し終えたらスティーブンに教えてあげよう。 「今度、フランスから来るクロエって、家族で引っ越してくるんだよ。旦那と赤ちゃん連れて。」 「へえ~大変ね。クロエとはこの前メールでやり取りしたわ。今度オンラインで会議する予定なの。スティーブンも入る?」 「いや、俺はまだ一緒にやることないから。今は家探しを手伝わなきゃいけなくて。」 「子供連れなら広くないとね。」 「うん・・・」  どこか歯切れの悪いスティーブンと林檎の皮を剥き始める。先週約束した林檎ジャム作りのためにたくさんの林檎を運んでくれた。スティーブンはどんなに小さな約束でも必ず実現してくれる。 「これくらいの大きさでいい?」  絵里は手のひらの一かけの林檎をスティーブンに見せる。宿題の工作を父親に褒めてほしがる子供のように見上げる。 「どれくらいでもいいよ。この林檎は煮ると形がなくなるから。」 「そうなんだ。アップルパイに入っているような形のある林檎煮なのかと思った。」 「だってジャムだろう。」 「そうか、そうね。」  ジャムを作る約束から林檎がやって来て二人で皮を剥き鍋に入れている。絵里はスティーブンとの些細な幾層もの時間が愛おしくなる。この優しいせせらぎはもうすぐ流れを止めるだろう。自分が止めるのではなくそう決まっているのだと絵里は予定通りに演じることにした。  スティーブンが帰ったあと、林檎の香りで充満した部屋はまだ暖かく絵里の感覚を鈍らせる。スティーブンとの生活が上映される。幸せかもしれない。誰かに頼っていくら叩いても壊れないシャボン玉の中で遊んで暮らすのは楽しいかもしれない。愛してくれる人を愛することが幸せなのだろうか。絵里の想いは甘酸っぱい香りに乗って家の中をいつまでも漂っていた。  エリザベートの運命を知りたい。一文字ずつ丁寧に囁きを拾っていく。林檎ジャムの甘い瓶の中ですらせっかちな心はやきもきして訳していく。早く幸せを確認したい。 『答えは聞く前からわかっていた。彼は私を拒絶する。彼の信仰は私の存在を許しはしない。違う。彼が私を受け入れないだけ。あの愛は偽りだったのだろうか。悲しい。初めから数か月でアフリカに行くことが決まっていたのだろうか。だから残りの日々をただ楽しみたかったのか。遊ばれただけ?娼婦のように?娼婦のほうが賢明だわ。ちゃんと対価を受け取るんだから。心をぼろぼろにされることもない。 たった数か月の幸せを私にもたらして去って行く。時間は短くても傷は深い。愛も深い。』  ああ、なんてことなの、可哀そうなエリザベートを抱きしめてやりたい。こんなに愛しているのに。ヨハネスはどうしてエリザベートを愛したの?結婚してはいけない宗教なの?だったらなぜエリザベートを愛したの?絵里はエリザベートの動揺を共有し、その痛みを優しく包んで慰めた。一緒に傷つくことしかしてあげられることがない。ヨハネスはエリザベートに出会う前からアフリカに行くことになっていたのかしら。それともエリザベートと別れるためにアフリカに行くことにしたのかしら。絵里にはヨハネスの真意がわからない。 たった数か月の幸せ。愛は時間では測れない。時間と愛の深さは比例しない。絵里は法廷の証人席で宣誓をして証言できた。解剖したハンスへの愛を検死して指さして説明できるだろう。陪審員を全員納得させられる。愛と時間の因果関係を物的証拠として立証するだろう。悲しみを数値にできるなら、傷の深さを測れるなら。 『ヨハネスには信仰がある。彼とは一生一緒にいることはできない。私のためだと言う。私にはもっと相応しい愛があると。そんなことどうしてあなたにわかるの?私に相応しい愛は私にしかわからない。 ヨハネスには信仰がある。それが彼の人生。彼の人生に私は必要ない。信仰と結婚したのだから私とは結婚できない。』  結婚できない宗教なのか。信仰とは何なのだろう。神様は本当に結婚するなとかしろとか指図するのだろうか。絵里は自分の神様があれこれ指示をしてこないことに感謝した。いや、いっそのこと神様に禁じられたら素直に悲しみに沈んで行かれたかもしれない。みすみす愚かだと自分を蔑みながら足掻く醜態を晒すこともないだろう。愛する心の自由を奪い去ってほしい。身動きが取れないほどきつく心を縛り上げて血が止まってしまえばいい。血が流れなければ痛みも苦しみもないだろう。絵里は神様に祈る。ハンスへ愛が届くようにではなく、手に負えない唸る心を握りつぶしてください、と。エリザベートの絶望が悲しい。諦められたのかしら。苦しんだのかしら。この後どう生きていったのだろう。 『ヘンドリックは私に夢を語る。新しい家、新しい商売、新しい家族。彼の瞳はきらきらと力強く容赦なく私の中に入って来る。彼に愛され守られたら幸せだろう。 一生を共にし一人を愛し続ける。お母さまのように。私にできるだろうか。』  ヘンドリックはいい人のようだ。絵里は少し安心した。エリザベートはヨハネスに見切りをつけてヘンドリックと結婚すればいい。高校の友だちを慰めて一人前の恋愛論をぶっていた昔の自分を思い出す。人生なんてそんなものよ。きっとエリザベートの年齢や立場では結婚するしか選択肢はないだろう。生きるための結婚をするのだ。でもそれでエリザベートが幸せなのか、絵里は頭で考える愛をエリザベートに押し付けられない。彼女の幸せは彼女にしかわからない。 『今朝は濃い霧が小窓に溢れていた。ヨハネスの最後の場面に気取った演出だ。次の幕でも登場しないだろう。霧の中で彼は涙を浮かべていたのだろうか。顔はこわばっていたのかしら。それとも晴れやかだったのかしら。 小窓にはもうヨハネスは登場しない。どんなに待っても。 小窓から枯れ葉が風に巻きたてられるのが見える。意思もなく飛んでいく。留まることもできず、思うところにもう行かれない。』  台所の小窓から見える教会には大きな木が一本植えてある。青々と茂っていた葉が、いつの間にか一枚も見えなくなっている。冬支度だ。ヨハネスは行ってしまった。もう会えないのかしら。絵里は台所に立ち尽くし、枯れ葉が意思を持ったように通り過ぎ消えていくのを無心で見ていた。携帯電話もWhatsAppもない時代の別れは消滅に等しい。二人の運命のつなぎ目は解かれてしまったのだろうか。ほどけた糸は風に舞い、離れていくだけだ。  きっとエリザベートはヘンドリックと結婚して幸せな生涯を送りましたという物語に違いない。ヘンドリックは成功した商人みたいだし、優しそうだし、きっと幸せになったはずだ。その当時結婚せずに女の人が暮らしていくことなんてできるはずがない。ヨハネスのことも淡い昔話になったのだろう。ヨハネスを思う気持ちも次第に褪せていき現実の日々に紛れていくだろう。まだ若いのだから新しい恋に飛びついて楽しんだに違いない。絵里はもう一枚のメモを残して自分なりの筋書きに納得していた。エリザベートに幸せになってほしい。   「絵里、このままオランダに残らない?」 スティーブンが思い切ってやっと言ったこの一言を、絵里は真に受けなかった。 「だって、一年の約束だから産休明けてフランスから人がくるよ。彼女に引き継ぐから大丈夫だよ。」 「いや、仕事じゃなくて・・・」 「仕事じゃなかったらビザないから帰らなきゃ。」 「何とかなるよ。一緒に暮らさない?」  プロポーズ?何?どうしたらいい?スティーブンの愛情は抱えきれないほど感じていたけれど、自分が愛しているのか絵里にはまだ確信が持てなかった。一緒にいれば楽しい、安心する、それは愛情なのだろう。でも愛しているのか。ハンスを愛した時の愛があるのか。スティーブンの言葉は嬉しい。有難い。素直にそう思う。このまま一緒にいたらこの愛はハンスを愛する愛に変わるのだろうか。形も中身も色も熱さも濃さも変わっていくのだろうか。わからない。何か返事をしなければ。スティーブンを困らせたくない。 「・・・少し時間をちょうだい・・」    スティーブンに返事をしなければいけない。数日経っても答えは見つからない。即答できない答えは探さなければ出てこないし、作らなければ形にならない。絵里はクリスチャンではないから、死が二人を分かつまで愛することを誓わなくてもいい。でも今、今愛しているのだろうか。いくら尋ねても返事が返ってこない。絵里は途方に暮れる。すぐにイエスを言えなかったことが答えなのだろうか。昨日のスティーブンの唇よりも一年半前のワイシャツ越しのハンスの胸のほうが暖かい。ヘリンボーンを通り抜けて絵里の手のひらにハンスの胸の筋肉からほのかな熱が広がる。自分の熱と交じり合って境界が消えていく。幻影を追いかけ亡霊と暮らしていくのか。愚かだと笑われながら静かに沈んでいるのか。  ハンスからはもう何か月も連絡がない。これから先の未来など空想の世界にもない。美しい長身の白人女性が笑いながら絵里の周りを眩いドレスで舞っている。笑い声が音符に混じって、金髪が空中を回転している。絵里の手には届かなかったハンスの愛情を浴びて、シャンパン色のドレスが輝いて踊っている。絵里はみるみるうちに小さく乾いて縮まった枯れ葉になる。  スティーブンの愛は大きくてどんなに暴れてもはみ出ることすらできない。追い求めなくてもそこにある。走り回って転んでもすぐに怪我の手当をしてくれるだろう。安心できることも愛なのだろうか。もう十代ではない。エリザベートの初恋とは違う。でもエリザベートのように結婚しなければ生きていかれないわけでもない。考えれば考えるほど思考の罠にかかって引きずり回される。  幸せが何だったのか、もうわからなくなっていた。それなのに愛が何かなんてわかるはずがない。絵里は渦巻く波に抵抗する力さえ持てなくなってきた。   今まで相談に乗ってきたエリザベートに、今度は相談してみることにした。あなたはどうしたの?ヘンドリックと結婚して幸せ?ヨハネスを忘れられた?結婚生活は幸せで、ヨハネスのことは若い時の楽しい思い出となって引き出しの奥にしまわれたのだろうか。絵里はおとぎ話のお姫様が王子様のキスで目覚め幸せに暮らしましたと下ろされる幕を見るために、最後の一枚に散らばった文字を拾い出す。 『ルイーズに手紙を書いた。私の所有するすべてを妹に渡すことにした。これで身の回りの整理はほぼ完了した。このだるさが教えてくれる。きっとお医者様がおっしゃるより早くその時がくるだろう。 あなたのことを最後の時にも思い浮かべる。あなたの腕の中で息絶えることができたらと願う。叶わないとわかっていても。あなたの名前を最後の時に呟こう。』  死んでしまうの?まだ十代じゃない。ヨハネスがいなくなった悲しみで病気になってしまったのかしら。財産を妹に渡すということは両親も死んだ後なのか。まだ十七、八だと思っていたエリザベートがもうすぐ死んでしまいそうで絵里はうろたえた。あなたの名前って誰の名前?ヘンドリック?恋の成就が知りたかったのに、いきなり死の場面まで飛んでしまった。絵里は慌てて書箱の中にもっと紙が入っていないかと確かめてみる。確かめようもないほど箱は空っぽだ。 『あなたが私の小窓に現れてから三十年が過ぎました。あなたと過ごした数か月を胸の中で燃やし続けてここまで生きてきたけど、もう炎も燃え尽きる時がきたようです。』  三十年も経っていた。十代で死ななくてよかったけれど、突然五十近くになっていたエリザベートに、初対面の絵里はどう声を掛けていいのかわからない。どういうことだろう。エリザベートはもうすぐ死んでしまう。ヘンドリックは傍にいるの?寂しいの?エリザベート、あなたは三十年をどう過ごしたの?幸せだったの? 『私の選択は誤りではなかったとあなたにも思ってほしい。ただあなただけを生涯愛し続けることができたことは、幸せだと思ってほしい。小窓にはあなたはもう現れなかったけれど、いつかあなたを見つけるのではないかといつもどこかで信じていた。絶対に現れないとわかっていたけれど。あなたをこうして一生愛せたことが私の幸せでした。そう言わせてください。 あなたの名前を最後に唇に言わせよう。ヨハネス』  最後の文字を訳し終えて、絵里は胸の奥に漂う波が収まるのを待った。水鏡は絵里を真っ直ぐに映し出す。この家を出なかったということは、ヘンドリックと結婚しなかったのだ。ここで三十年を過ごして五十になる前に亡くなったのだろう。私が寝起きするこの家で。三百年も前の骨董品の愛がここでまだ息をしている。肌に沁み込んでくる。エリザベートは台所の小窓から毎日外を見ている。探している。待っている。決して登場することのない登場人物を見つけようとしている。小窓の前に立ち尽くすエリザベートは、絵里の問いかけに振り返りもしない。ただひたすらに外を見つめている。ヨハネスを愛し続けて後悔など微塵もなく、一人この世を終えて旅立っていったのだ。エリザベートの潔さが凛と背筋を伸ばして絵里の心に映し出される。絵里の涙で波紋ができても必ず水面は何にも侵されることない鏡に戻り、エリザベートの選択を浮かび上がらせる。絵里は振り向かないエリザベートが、きっと微笑んだ顔で佇んでいると信じた。エリザベートの頬は薔薇色に、瞳は瑠璃色に必ず輝いていると信じた。そうであってほしい。そうでなくてはならない。  ありきたりだけれど今ならわかる。愛するために生まれてきた。愛すればいい。ただ愛すればいい。愛は生きている。ここにいるということは愛があるから。ここにいるのは愛するため。愛しなさい。ひたすらに愛しなさい。迷うことも、躊躇うことも、止めることもない。愛を止めない。本当の愛ならば尽きることはない。枯渇する愛はない。この体で生きている限り、愛を放とう。愛は源から溢れてくる。枯れることは絶対にない。恐れないで。愛することしかできないのだから。それでいい。 愛して 完
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