四章

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四章

「伊沢、少しいいかい?」  使用人としての生活もしばらく経つ。ヘアセットにもだいぶ慣れた頃には武内の補助がなくてもある程度のことは出来るようになっていた。と言ってもこの広大な敷地に何があるかまだまだ把握できていないので半人前であることに変わりはない。  今日も尊の送迎から帰ってきたところに誠から声をかけられた。 「珍しいっすね、この時間にいらっしゃるのは」  誠は宝来不動産ホールディングスの長として多忙な日々を送っている。使用人よりも早く起きて仕事に向かっている時もあった。寿は尊の生活に合わせて生活しているのでこの家の主である誠とあまり顔を合わせる機会がない。 「先方のトラブルで打ち合わせ時間が変更になってね。家の近くまで来たから少しでも休もうかと」 「働き詰めっすからね」 「経営者として当たり前のことさ。実際、亡くなった父は私の倍以上働いていた」  武内から宝来家の事情はざっくりとであるが聞かされていた。明治の頃から政府から委託を受けて土地の管理を生業としていたこと。それが形を変えて〝宝来不動産ホールディングス〟という大企業になったこと。誠の父親は短命であったこと。そして妻──尊の母親の死。 「尊はとても君に懐いていると聞いているが、ちゃんとやっているだろうか」 「はい、とても」  流石に寝かしつけや着替えの手伝いのことは黙っておく。ワガママな部分にも手を焼いているがそれも寿にとっては可愛いと思える範囲なので良しとしよう。 「私はあまり尊に構ってやれないからな……」  寂しげな表情を浮かべる誠。確かに尊と話している場面をあまり見たことがない。本人も気にしているのだろう。慌ててフォローを入れる。 「いやいや、尊……坊っちゃまも、めっちゃ頑張ってますよ! そのモチベーションが旦那様らしくて、テストとかすごいっす。本当、この前も小テスト満点でしたよ? パパに褒めてもらえるかなって!」  するとしょげていた顔に少しだけ明るくなる。少しでも仕事の癒しになるようなことを話してやりたい。いつも多忙な誠が何の心配も持たずに仕事に打ち込めるようにするのが寿の役目だ。 「伊沢、ありがとう」 「いえ、事実を述べたまでなんで」 「尊は今日も家庭教師の予定はあるのか?」 「ありますけど今日は一科目だけなんですぐに終わると思うっす」 「……そうか。そうしたら私も今日は仕事の予定を変更しよう。たまには尊と食事をしたい」 「分かりました。武内さんにも連絡しておきます」  尊が知ったら飛び跳ねて喜ぶだろう。迎えについたら一番に知らせよう。仕事に向かう足取りが軽い。尊の笑顔を考えただけでこんなにも心が上向きになるなんて、まるで魔法みたいだ。  運転中も自然と鼻歌が漏れる。最近は送迎用の車にもだいぶ慣れてきた。何より尊の送迎の時間が寿の楽しみの一つになっている。嬉しそうな顔を見るときはもちろん、クラスメイトから理不尽な扱いを受けて泣きそうな顔をしている時も寿が一番に慰めてやれる。寿だけが尊を笑顔に出来る、なんて優越感さえ抱いていた。  ただ、どうしても納得いかないことがある。どうして尊がいじめに遭わなければならないのか、未だに分からずにいるのだ。尊はやられたことを寿に話してくれることはあっても、何故いじめられているのか、いつ頃からどのような理由でなど話してくれない。 「今日はメソメソしてねぇといいけどなー」  尊が笑うと寿も嬉しい。尊が泣いていると寿も悲しい。最近、特にそう思うようになった。  今日は誠との夕食というサプライズが控えている。伝えたらどんなに喜ぶだろうか。尊の笑顔を見るのが待ち遠しい。バックミラーに写るニヤけた顔に気付いて、慌てて表情を引き締めた。  いつもの時間ぴったりに車を正門付近に停める。帰路に着く生徒の群れの中から、尊をすぐに見つけることが出来るようになった。 「今日はなんかあったか?」  こちらへ向かってくる尊の足取りは重い。こういう時は大体、いじめっ子達に何かをされた時である。今すぐにでも尊に手を出した奴らをしばき倒してやりたいがそれが出来ず、歯痒い思いをしながら話を聞く。今日は一体何をされたのだろう。怪我などしてなければいいのだが。 「お疲れ様」 「うん」  いつもなら尊の方から今日は何をされた、などと話し始めるのだが今日は一向に口を開こうとしない。心なしか顔色も青い気がする。 「どうした? ちょっと遠回りして気分転換するか?」 「……いい。まっすぐ帰る」 「分かった……何かあったか?」 「何もないよ」  すぐに嘘だと分かった。目が赤い。直前まで泣いていたのだろう。膝の上でギュッと硬く結ばれた拳。きっと泣きたいのを堪えているのだ。唇を真一文字にしながらただ目の前を真っ直ぐに見つめている。  今までにない尊の表情に寿は話しかけることが出来なかった。思えば今までだって尊が戯れてくるのを受け止めていただけ。それを自分が尊の支えになっているなんておこがましいことを考えていた。 「なぁ、今日親父さんが一緒に飯食べれるってさ」 「パパが?」 「おう。なんか仕事の調整が出来たんだって。尊が親父さんと飯食べれるのってなかなかないだろ? 良かったなぁ」  せめて少しでも笑顔になってもらいたい。その一心で誠の件を話す。しかし尊の顔が明るくなることはなかった。それどころか涙が一筋、ポロリと溢れる。突然の涙に驚いて思わず近くのコンビニに車を停めた。 「なぁ、甘いモン食うか?」 「お腹に入らないよ」 「じゃあ、ちょっと休もう。何か飲み物でも……」 「僕の側にいて」  手を握られた。握る力がいつもより強い。ポロポロと絶えず溢れる涙に、寿の方が心臓を握り潰されるように苦しい。呼吸が上手くできない。 「ねぇ、寿。ギュッてしたい」 「……うん」  シートベルトを外してやると身を乗り出して抱きついてきた。体制が辛そうだからそのまま抱き抱えて膝の上に乗せてやる。誰かに見られたらまずいかもしれないが、今はそれ以上に尊の言うことを全て聞いてやりたい衝動が優った。 「なぁ、尊……俺は味方だよ。だからさ、泣くなよ。泣くなって言っても無理な話かもしれねえけどさ」  尊からの返答はない。自分は無力だ。絶望が重くのしかかる。五億なんて大金で買ってもらったのに、尊に対して何も出来ていない。ただ背中を撫でながら、自分の情けなさにギリリと歯を食いしばった。
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