四章

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 一通り泣いたらすっきりしたらしく、尊は大人しく助手席へ戻っていった。車内に気まずさが重くのしかかる。寿の腕にはまだ尊の体温が僅かながら残っていた。 「ねぇ、寿。僕の目、変じゃない?」 「変じゃないよ」 「……今日のことは内緒にしてね。僕は大丈夫だから」 「言わないよ」  泣き腫らした目をしきりに気にしている。きっと武内や誠に泣いていたことを悟られたくないのだろう。自分だけが尊の弱った部分を知っている。本来ならイジメの事実を報告した方がいい。分かっているのだがなかなか踏み出せない自分がいた。 「尊は俺にどうしてほしい?」  どうしても尊と昔の自分を重ねてしまう。兄に比べられて〝学校〟という場所から逃げて、将来を棒に振った自分。あの頃は何を言われても受け入れられなかった。差し伸べられた手を全て払いのけて生きていたのだ。  尊は今、イジメという現実に真っ向から立ち向かっている。そこに自分が手を差し伸べて何になるのか。もし報告をした結果。宝来家が動き、いじめっ子達が相応の罰を受けたとしてもそれが尊の為になるのか。  尊が大切だ。  だからこそ尻込んでしまう。 「寿が、側にいてくれればいいよ」 「側にいるなんていくらでも出来るよ。もっと、なんかさ、ねぇの?」 「じゃあ、ギュッてして、手を繋いで、ちゅーして、って言ったらしてくれるの?」  ちょうど宝来家の駐車場に着いた。このタイミングでそんなこと言われても……なんて困ったように目線を向けるとしたり顔の尊。寿の膝の上でメソメソと泣いていた姿はもうない。  まだ少しだけ涙の名残で赤くなった目尻。目が悪戯に細まった。寿の主人はどうも意地っ張りで強がりな部分がある。 「そうだな」 「え?」  悪戯な顔、前髪を手で払い除ける。露わになる端正な顔立ち。つるんとしたおでこ。真っ黒な瞳。ツンとした鼻。もちもちのほっぺ。それぞれにキスをする。 「ひゃあ」 「変な声出すなって」  自分自身でも予想外の行動に一気に気恥ずかしさが増した。尊もさすがに予想していなかったらしく顔を真っ赤にして何度も瞬きを繰り返している。あまりにも可愛い表情をするものだから、もっとしてやりたくなるけれど堪える。これ以上したら、寿が我慢出来なくなってしまいそうだ。 「ね、ねぇ! 一番大事なところには?」 「大事なところって?」 「ここ」  唇を尖らせて強請ってくる。真っ赤に頬を染めながらギュッと目を閉じて。頭の中で何かがグラリと揺れる。しかし、最後の部分でグッと踏ん張った。 「そこはダメ」 「どうして?」 「……ダメなもんはダメなんだよ」  人差し指でチョンっと突くと思い切り拗ねた顔をする。それでも無理強いはしない。 「分かった……早く行かなきゃ武じいに怒られちゃうね」  パタパタと早足で逃げるように去っていく。まさか寿が唇を外したとは言えキスをしたことに驚きと気恥ずかしさがあるのだろう。去っていく背中に先程の翳りはもうない。あまりにも衝動的な行動であったが少しでも尊が元気になればもうそれだけでいい。 「ん?」  尊が座っていた助手席に白の封筒が置き去りにされていた。長方形の封筒に「宝来くんへ」と書かれている。その字は小さいながらもやけに目を引く。随分と達筆だ。封筒は開封されており中身も入っている。  送り主は友人だろうか。だが同級生からもらったのであればもっとカラフルなレターセットなどを使うだろう。謎が深まる。もしかしたら教員が保護者に宛てて書いたプリントなどが入っているのかも知れない。  ちょうどいい。今日は誠も在宅している。だとしたらプリントを渡すにはいいタイミングだ。寿は既に剥がされて粘着力が弱まったシールを剥がし、中身を取り出す。しかしそれはプリントではなく、便箋が一枚入っていただけだった。 「なんだこれ……」  この時ほど自分の行いを後悔したことはない。そこに書かれていたのは寿が目を覆いたくなるような事実。気付いたら便箋をクシャクシャに握りつぶしていた。目眩がする。吐き気が止まらなくなって思わずその場にしゃがみ込んだ。  心が抉られたまま、夕食の準備を手伝う。  尊も久々に父親と一緒に夕食を共に出来るのがよほど嬉しいのかそわそわと落ち着かない。一方で寿はミスを連発して武内にその都度注意されていた。 「伊沢さん、シルバーの位置が逆です」 「すんません……」 「随分と顔色も悪いようですが何かありましたか」  先程の手紙の件を口にすることも出来ずに曖昧に誤魔化す。寿の煮え切らない様子に武内も次第に心配をし始める始末。 「少しお休みになられたらどうですか?」 「その方がいいっすかね?」 「次の日に支障が出ても困りますから、今日は早めにお休みになって下さい。色々と環境も変わってお疲れも出たのでしょう」  確かにこのまま無理をしても夕食の準備を邪魔してしまうだけだし、明日の仕事に支障が出てはお荷物になるだけだ。武内の申し出を素直に受け入れ、一人自室に戻る。尊は誠を前にはしゃいでいた。あんな手紙をもらってもなお、いい子でいようとする尊に心が痛んだ。  着ていた背広を脱ぎ捨て、ベルトを乱雑に外すと床に投げた。いつもなら皺にならないようにクローゼットにかけるのだがそんな気力もない。  ベッドに寝そべると疲労がどっと押し寄せた。眠気とはまた違う重だるい感じが身体中にまとわりついて気持ちが悪い。何回寝返りを打ってもそれから解放されることはなかった。 「尊、どうして……」  今すぐにでも尊に手紙の件を問い詰めてしまいたい。だがそれをするのはあまりにも酷だとも分かっている。頭の中はぐちゃぐちゃだ。  丸められた便箋の皺をゆっくりと伸ばす。一度自分の頭を整理しようと何度も読み返したが怒り、そして悲しみが湧き出ただけだった。  現実から目を背けたくて、瞼を下ろす。それでも苦しみは寿を逃してはくれない。眠ってしまいたい、今すぐ。  耳が痛くなるほど静かな部屋で、一人横たわり身体を小さく丸めている。尊を救いたいと思えば思うほどに、自分の無力さが影のように付き纏う。  結局、落ちこぼれはどこまでも落ちこぼれなのだ。  死ぬほど悔しいけれど、どうにも出来ない。
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