四章

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 寿がピアノに初めてピアノに触れたのはいつだったか。記憶にないくらい幼い頃だったと思う。物心ついた頃には兄は幼いながらすらすらと弾けるようになっていて、特別に小学生が出るコンクールに未就学児ながら出場していた。  一方の寿は平均値の才能しか持ち合わせておらず、同じ量の練習をこなしても一向に兄には届かない。今振り返れば、幼少期の数年はとても大きいものだから比べること自体、間違っていたのだが幼い寿には分からなかった。小さな胸に植え付けられた劣等感の種は成長と共に少しずつ大きくなっていく。 「石蕗のようにもっとちゃんと練習なさい」  元ピアニストであり、二人のピアノの師である母はしきりに兄の石蕗の名前を出しては寿を叱咤する。 「母さん、寿には寿のペースがあるんだから」 「いいえ、ここ最近。寿は練習もロクにしていないのよ。ちゃんとやらないから石蕗に追いつけないんだわ」  兄は表面上は心優しい男であった。父や母の前では寿にも優しく接する。しかし、両親の目が行き届かない場所ではまるでゴミを見るような目で寿を見つめ、罵った。 「いいな、お前は。好き放題遊べて。羨ましいよ。頼むから問題を起こして僕に迷惑をかけないでくれ」  どんどんと家に帰ることはなくなっていった。それでも親のコネで無理やり音楽大学に入学させられたが、結局ついていけなくて中退。夢も希望も持たずにアルバイトとして人生を消費し続けていた。  挙げ句の果てに「一発逆転出来る」と騙されて詐欺行為に加担。裏のスジの人間に見つかり多大な借金を背負わされて、あの闇オークションに出品されたのだ。  ピアノは寿にとって最大のトラウマである。  今更向かい合うことなんてきっと出来ない。 「俺が……っすか? ピアノなんてしばらく触れてねえし」 「家庭教師を呼ぶよりも君に頼んだ方がいい。私の判断だ」 「でも、教えられるレベルで弾けるかどうか」 「では、今からピアノがある部屋に案内しよう。実際に弾いて聴かせてくれ。さぁ、こちらに」  誠に招かれるままに着いていく。  招かれた部屋は初めて訪れる部屋だった。大きなグランドピアノが置かれた部屋。防音もしっかりとされている。楽譜が並んでいる本棚に写真立てが飾られていた。  そこには幼い少年。尊だとすぐに分かった。今よりも生意気そうな顔をしている。ぷっくりとして頬はいまだに変わらない。そしてその隣に微笑んでいるのは尊によく似た女性。 「……家内だ」 「奥様……」 「彼女はピアノが上手くてね。よく尊も興味深そうに見てはグランドピアノで遊んでいたよ。幼少期に少し習わせたんだが、あまり身にはならなかった。だから勉学に重点を置くことにしたんだ」  確か尊本人も「音楽は苦手だ」と口にしていた。それを今更、ピアノを習わせるなんてどういう風の吹き回しだろう。 「あの……どうして坊ちゃんはピアノを習わなければならいんでしょうか?」 「ああ、大事な部分を説明してなかった」  誠は少し困った様に笑った後、本棚の方まで歩んで行った。そして写真立てを手に取り、写真をそっと撫でながら口を開く。 「尊が合唱コンクールでピアノを弾くことになったそうだ」 「……ピアノ、弾けねえのに?」 「ああ、最初はどうしたものかと思っていたんだが尊の意思ならば尊重したい」  何となく予想がついた。件の音楽教師と接点を持ちたかったか、あるいはいじめっ子達から無理やりピアノの伴奏者を押し付けられてしまったか。 「とにかく君のピアノを聴かせてもらいたい。いいかな?」 「……うっす」  促されるままにピアノの前に座った。白と黒の鍵盤の羅列を見ただけで手に汗が滲む。吐き気が込み上げてくる。しかし、逃げてはいけない気がした。  きっと尊は音楽教師に頼らずに自分だけで戦おうとしたのだろう。だからこそ、誠に報告をした。主人が戦うというのなら一番近くで共に戦いたい。上手くいけば皆の見る目も変わり、イジメもなくなるかもしれない。  鍵盤に触れる。音が響いた。調律がしっかりされている。持ち主がこの世からいなくなってもこのグランドピアノは大切にされてきたらしい。誠の亡き妻に対する愛情が鍵盤から、そして音からヒシヒシと伝わってきた。  気付いたら不安は消えていた。曲の前奏から始める。選んだ曲はパッヘルベルのカノン。頭で選んだ訳ではなく指が勝手に動き出していた。幼少期に沢山弾かされたのが、手に染み込んでいたのだろう。  想像よりも滑らかに指が動く。紡がれる音だけが響く防音室。誠はただ寿がピアノを弾く姿を一心に見つめていた。寿は見えない何かに背中を押されるように一心不乱に弾き続ける。  そして、適当なところで演奏を終えた。  響き渡る余韻がいつまでも部屋を支配する。誠はいつまでも何も言わない。お眼鏡に敵わなかっただろうか。 「ねぇ! パパ? 今ピアノの音が……」  寝る支度を終えてパジャマ姿の尊が防音室に飛び込んできた。ゼエゼエと息を切らせている辺り、よほどピアノの音に驚いたらしい。 「ああ、尊。どうだ、伊沢のピアノは。素晴らしいよ。知らない家庭教師をつけるよりもよほどいい」 「え? 寿が教えてくれるの?」 「彼から了承が出たら、明日からすぐにでも頼むつもりだよ」  二人の目がこちらを向く。はっきり言ってピアノにはもう関わりたくない。けれど、尊の力になれるのならば── 「もちろん、教えたことはねえけど……坊ちゃんのためにがんばりま……うぉっ!」 「ありがとう! ことぶきっ!」  言い終えるよりも前に尊がタックルするかのように尊に抱きついてきた。そして見上げて満面の笑み。  もうこの笑顔が見れるだけでいいと思った。この笑顔を曇らせるようなことは絶対にしない。どんなものからも護る。イジメからも、そして。 (俺はもう、兄貴の影を断ち切って新しい人生を歩む)  尊を汚した音楽教師から絶対に守って見せる。  手紙の末文に書かれた名前。  伊沢石蕗──寿の、兄。
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