六章

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六章

 ここ最近は秋と呼べる期間がとても短くなった気がする。ほぼ冬の初めと言っていいくらいの寒さ。つい最近まで尊と眺めていた赤や黄色に色づいた葉達はあっという間に落ちて剥き出しの枝が寒々しく映る。  放課後、いつものように校門前まで迎えに行くと、軽やかな足取りで車まで駆け寄ってきた。  いつもの下校時刻を過ぎても姿を表さなかったので心配していたが、どうやら合唱コンクールの練習の最後の詰めをしていたらしい。日が暮れて空が茜色になるまで練習するなんて、よほど気合が入っているのが窺える。 「いよいよ明日だな」 「今日も沢山練習したよ。最後の練習はみんなすごいやる気だった! 山本もね、ちゃんとやっていたんだ。すごいよねぇ。僕、もう蹴られることも無視されることも無くなったよ」 「努力の成果、って奴だな」  今では尊のことを悪く扱う人間の方が少ないようだ。初心者レベルだった尊のピアノはグングンと上手くなっていき、別のクラスの伴奏者と比べても群を抜いた実力となっていた。尊が持つポテンシャルが高いというのもあるが、それでもこの短期間での成長は素晴らしいものだと思う。 「明日もあるし、練習は軽めにしとくぞ」 「僕はいっぱい練習したいんだけど」 「ダメだ。前日は身体を休めて最高のコンディションで当日を迎えなきゃならねえ」  尊は納得行かなそうな顔をしながらも渋々それを了承した。練習したい気持ちも分からなくはないが、なんて思っていると尊が口を開く。 「練習すれば、寿を独り占め出来るのにな」  もうこの心は最初から尊だけに独占されているよ。  そう打ち明けられたらどんなに楽だろう。思っていることを口に出来ないのがこれほど辛いとは考えてもいなかった。寿の叶わない恋は現在進行形で大きく膨れ上がっている。 「……今日帰ったら夜食、一緒に食うか? 宿題が終わっているのが前提だけどな」 「いいの?」 「ああ、明日頑張れるなら何でもしてやる」  嬉しそうに笑う尊。それだけで胸がいっぱいになる。アクセルを思い切り踏んだら、風になれるだろうか? 尊を連れ去って誰も知らない場所に行きたい。 〝主人〟とか〝使用人〟だとか〝大人〟とか〝子供〟とか。この関係を形成する全てを脱ぎ捨てて想いを打ち明けたら尊はどんな顔をするだろう。  夕暮れはあっという間に夜の顔。車のエンジン音が響いている。姿を見せ始めた星々はどれも小さくて頼りなく瞬く。今にも消えてしまいそう。  だがそれらも完全な夜を迎えたら光を増して月と共に寿を優しく照らす。  夜明かりの下、今日は尊と何を話そうか。 「寿! お待たせ!」 「早過ぎだろ……今日は宿題少なかったのか?」 「いつも通りだよ?」 「いつもより一時間近く早く終わってるぞ?」 「寿とお茶するのが楽しみ過ぎて早く終わっちゃったのかなぁ」  この子供はこう言った殺し文句を平気で言ってくるからタチが悪い。しかも無自覚。惚れている方の身にもなってほしい……いや、尊に落ち度はないか。 「今日はお団子なの?」 「あんころ餅だな」 「最近、和菓子が多いね」 「俺が変えるように言っといたんだよ」  他の使用人達は尊が何も言わずに洋菓子を食べるから洋菓子が好きだと思い込んでいたらしい。本人は「せっかく出されたものだから」と文句を言わなかったようだが、尊くらいの年齢ならもっとわがままを言ってもいいと思う。 「半分こする?」 「……いいのか?」 「うん! 寿も一緒に食べよ!」  フレーバーティーの代わりに淹れてきたほうじ茶と一緒に頂く。齧歯類が餌を頬袋に溜め込むように頬を膨らませてモグモグと咀嚼する姿が愛らしい。好物を食べるときの尊は年相応の幼さを漂わせる。 「ほら、餡子が口に付いてんぞ」 「寿がとって」  顔をこちらに向けて唇を突き出してきた。胸の奥がカーッと熱くなる。必死に冷静さを装って尊の口元にある餡子を拭うとそのままその餡子を口に運んで食べた。同じものを食べているはずなのにやけに甘い気がする。 「……甘やかしてくれてありがと」 「何だよ急に」 「だって寿が甘やかしてくれるようになってから、僕は随分と楽になったんだもの」  強気に迫ってくると思ったら急に塩らしくなるなんてずるい。尊の一挙一動に寿の心は振り回されっぱなしだ。 「ねぇ、寿。どんな時もそばにいるって言ってくれたよね」 「あー……まぁ、な」  二人で川辺でたむろっていた時、感極まって発した言葉。この状態で蒸し返されてしまうのは少し恥ずかしい。でも本心であるから否定もできない。 「僕、なるべくしっかりするけどたまに甘えてもいい?」 「いいよ。尊が楽になれるなら」 「僕は寿がいるだけで楽になれてる。最初は先生に似てるから、なんて理由だったけど……でも、今は寿が誰よりも大事だよ」 「そっか」  兄よりも大事、そう思われているだけで泣けてしまうほどに嬉しかった。きっかけこそは兄の面影という理由であったが、今は〝伊沢寿〟として必要とされているのだ。  ふと窓の外を見上げる。月に膜のように薄い雲が覆い被さっていた。夕方はもう少しはっきり見えていた星々もすっかりと姿を潜めている。そういえば先ほど見た天気予報で「明日は曇り時々、雨」なんて予報が出ていた。せっかくの合唱コンクールなのだから雨は降ってほしくない。 「ねぇ、明日の合唱コンクールは来てくれる?」 「もちろん」 「絶対だよ。絶対見に来てね?」 「安心しろ。絶対行くから」  武内から聞いた話によると多忙な誠の代わりに使用人が授業参観などの父兄が参加する行事に出向くらしい。武内も出たことがあるそうで、体育祭の保護者リレーで本気を出して周りをドン引きさせてしまったと笑っていた。  必然的に尊専属の使用人である寿がこれからの学校行事に参加することとなる。もちろん明日の合唱コンクールも。 「寿が聞いてくれるなら僕、どんなことがあっても頑張れちゃう! 明日は寿の為にピアノを弾くね!」  明日の天気予報が外れてくれたらどんなにいいだろう。室内の行事だから天候は関係ないけれど、どうせなら晴れた方がいい。  今までの努力を披露する場。合唱よりもピアノの方が目立ってしまうかもしれない、なんて親バカみたいなことを考える。  自分の為に紡がれる旋律は一体どのような音色なのだろうか。
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