六章

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 合唱コンクール、当日は生憎の曇り空。それでも雨よりはマシだと尊は笑った。 「今日は冷えるからな。ちゃんとあったかくすんだぞ」 「心配しすぎだよ、寿は」 「逆にどうしてお前はそんなリラックスしてるんだよ」  寿がまだピアノに打ち込んでいた頃、コンクールの朝は決まって腹痛に悩まされていた。それに比べて寿は随分とあっけらかんとしている。自分の努力が発揮される場に挑むというのに随分と穏やかな顔。 「やることは全部やったから」 「まぁそうだけどよ、可愛げがないっていうか」 「ガチガチに緊張したまま学校に行って、寿が心配しても困るし」 「一丁前なこと言いやがって」  正直な話、寿の方が尊本人よりも緊張していた。ちゃんと練習の通りに弾けるだろうか。途中でトラブルに見舞われないだろうか。心配が次から次へとポコポコと湧いて出てくる。  過保護と言われてしまえばそれまでだが、大事だからこそ自分のことのように心配になるのだ。それこそ腹が痛くなってしまいそうなくらい。 「それじゃあ、これはいらねえかな」  あまりにも心配すぎて実家に帰った際に通りすがりの神社で御守りを買ってしまった。「必勝祈願」と書かれた赤の御守り。買った後に「一体何と勝負してるんだよ」と一人でツッコミを入れてしまった。 「いるっ!」  赤の御守りを見た瞬間、尊は大きく手を伸ばして寿から御守りを奪おうとした。反射的に寿は手を上にあげて仰反る。 「うおっ! いきなり突撃してくんな」 「いいじゃん! だって僕のために買ったんでしょ?」 「だって必要なさそうなんだもんよ」 「いる! 欲しい! ください!」  別に特別な神社のものでもないのに手を伸ばして必死に欲しがる姿。なんで可愛いのだろう。さっきまで余裕ぶっていたのに、懸命に手を伸ばす姿に思わずもっと焦らしたくなってしまった。  しかしそんなことをしていたら学校に遅れてしまう。そんな幸先悪くなるようなこと絶対に出来ない。 「分かった分かった。大したもんじゃねえけど」  差し出すと尊は両手で包むようにしてそれを受け取った。そして大切にしまい込むようにギュッと握りしめる。  興奮が収まりきらなかったのかキャアッとはしゃぐような声を出すとパタパタと寿の周りを走り回った。 「こら、せっかく制服着るのにぐしゃぐしゃになるだろうが」 「寿が直してくれるもん!」 「俺頼りかよ」  照れ臭いのが顔に出ないように隠すので精一杯だ。走り回る尊を捕まえて、少しよれてしまったネクタイを結び直してやる。ジィッと見つめてくる黒曜の瞳。  全て見透かされそうで慌てて目を逸らす。それでも尊は見つめるのをやめない。寿はこのまん丸な瞳に見つめられると滅法弱くなる。叶わない願い事を無理矢理にでも叶えてやりたくなるような不思議な衝動に駆られるのだ。 「そんなに見つめても何も出ねえぞ」  顔面に熱烈な視線が当たる。それが恥ずかしくて思わず尊の頬を軽くつねった。 「いたたたた」 「ほら、もうそろそろ行かねえと本当に遅刻するぞ」  部屋を出る間際、尊が口を開いた。耳を澄まさなければ聞こえないくらいの声で。寿の耳は尊の全てを拾ってしまうからどんな微かな音量でも、例え尊が聞かれたくないような独り言も聞こえてしまう。 「ありがとね、寿。僕ね、本当は緊張して……夜も眠れなかったの」  今朝の送迎中は二人してソワソワしてしまった。出かけ際にあんなことを言われてしまったらもうダメだ。終始、頭の中を悶々とさせながら学校へ向かった。普段ははしゃいでばかりの尊もやけに大人しい。沈黙の続く車内はどうも落ち着かず、校門までたどり着いた時は内心ホッとしてしまった。 「……行ってくるね」 「頑張れよ」  もっと気の利いたこと一つ言えれば良かったのだが、長い沈黙のせいで上手く言葉が出ない。結局、当たり障りのない応援の言葉で送り出してしまった。  尊は一歩一歩力強く、校舎へと向かっていく。こちらを振り返ることもなく、その背中からはやる気が溢れて滲み出ていた。  尊を見送った後は一度、宝来宅に戻る。合唱コンクールは昼過ぎ。近くのコンビニで時間を潰そうか悩んだのだが、一人でいてもソワソワして落ち着かないだろうし、それならば宝来家で仕事をこなした方が楽だ。 「近くでお待ちになられていても良かったんですよ?」  武内もわざわざ帰ってきた寿に声をかけてきた。実際のところ、寿が帰ってきたところで仕事があるとしたら尊の部屋の掃除くらいだ。それも今日は武内が気を利かせて他の使用人にやらせていたらしい。 「いやぁ……なんか落ち着かなくて」 「お気持ち、お察ししますよ。私も坊ちゃまの運動会や文化祭などの時は気持ちが落ち着きませんでした」  武内の場合、寿とは違って孫の晴れ舞台に心をときめかせる祖父の心情に近いのかもしれない。 「伊沢さんは実際にピアノを教えていらっしゃいましたからね。しかし、見事な物です。素人レベルがあれだけの腕前になったのですから」 「坊ちゃんの努力ですよ」  すると武内は目尻を下げるように目を細めた。最近、武内の寿に対する接し方が少し柔らかくなってきた気がする。前は何をするにも試すような厳しい目線を向けられるような感じを含んでいたが鋭さがなくなった。 「確かに坊ちゃまの努力もございます。ですが一人の努力だけでどうにかなることでもございません。伊沢さんは坊っちゃまの為に沢山頑張っておられます。それは我々にも伝わっておりますよ」 「面と言われると恥ずかしいっすね」 「何を仰いますか。自信を持って。最初は闇オークションで買われたなんて聞かされて耳を疑いましたが、今では貴方も立派な宝来家の一員でございますよ」  長年、宝来家に仕えている武内に言われると本当に認められたような気持ちになる。今まで〝出来ない弟〟や〝その他大勢〟としか認識されていなかった。  それが〝伊沢寿〟として認められた。一人の人間として必要とされている。こんな日々がずっと続けばいい。誰かの為に生きていきたい。もしかしたらずっと心のどこかでそう思っていたのかもしれない。  尊が無事に合唱コンクールを終えたら、真っ先に尊に「ありがとう」と伝えよう。尊は何のことか分からないかもしれないけれど、それでも伝えたくて仕方がなかった。
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