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昼過ぎに学校に向かうと合唱コンクールの参観しに来たであろう保護者で校門前は溢れかえっていた。長い列を目で辿る。どうやら体育祭などでよく見かける学校行事用の白いテントの下が受付のようだ。
「ねぇ、あれ……」
列に並んで順番を待っていると、列の前の方に並んでいた保護者の一人が別の保護者と寿の方を見てヒソヒソと囁き合っている。
(なんだよ、俺の顔がそんなに変か……?)
確かにコンビニのアルバイト時代はよく人相が悪いとクレームをもらっていた。確かに自分でも自覚はあったが顔の作りなんて直せるわけでもないし、店長も気にするなと慰めてくれた記憶がある。それに夜勤だと変な輩が来た時にこの悪い人相が役に立つこともあったから決して自分の顔が嫌いだとかそういうことを思ったことはなかった。
だがこれからは尊の保護者の代理としてこの学校に顔を出すことになるのだ。トレードマークの髭もこの茶髪も改めなければならないかもしれない。
少しずつ進んでいく列。時折向けられる好奇の目線。武内が保護者代理で来た時もこのような感じだったのだろうか。別に自分がどう思われても構わないが、尊が何か言われるのは困る。せっかくクラスメイトともピアノを通じて打ち解けたというのに。
「では、こちらにサインをお願いします」
ようやく列の先頭に辿り着いた。バインダーに挟まれた用紙に生徒名、保護者名、それからサインを書くように促される。
宝来尊、伊沢寿。そして伊沢、と書いた後に丸で囲んで担当の職員に差し出す。それから合唱コンクールのパンフレットをもらい校内へ入る手筈となっていた。
「……?」
しかしいつまで経ってもパンフレットを手渡して貰えない。バインダーを手にした職員は寿の書いた欄を凝視したまま固まっている。
「あの、なんか不備ありました?」
こういうのは書き慣れていないから書き方が違っていたのかもしれない。固まったままの職員に遠慮がちに声をかける。その時初めて職員の顔を見た。
「嘘だろ」
思わず息を飲んだ。それが見知った顔だったから。随分と長い時間会っていなかったが、姿形が変わっても誰だか分かってしまう──血を分けた兄弟だから。
「寿、お前」
「……兄貴」
後ろに並んでいる保護者がいつまで経っても動かない寿を訝しげに見つめる。そんなことに意識もいかないくらい、寿は兄との突然の再会に激しく動揺していた。
「……まさかお前と生きているうちに会うことになるなんて」
合唱コンクールはもう始まっている。しかし石蕗に呼び出されて会場である体育館の裏に二人対峙していた。
久々に会った石蕗は黒髪のショートカットに前髪をシチサンに分けて、眼鏡をかけたいかにも真面目な外見をしていた。音楽の教職員になったと聞いていたが、あの手紙を読むまではどの学校で働いていたのかまでは知らなかった。
尊のこともあって絶対に顔を合わせたくなかったのだが、こうして出会ってしまった以上どうしようもできない。なんていう運命のいたずらなのだろうか。
「せっかくの再会なのに散々な言い方だな」
「そう言われても仕方ないことをしたんだよ。何も言わずに家を出て、俺の結婚式の時にも顔を出さなかったじゃないか」
「逆に来て欲しかったのかよ」
「いや、お前が来たら追い払おうと思っていた」
まるでゴミを見るような目で石蕗は寿は上から下まで寿を値踏みするように見つめた。不愉快極まりない目線に思わず顔を顰める。
「まさかお前が宝来君の家に勤めてるなんて……使用人はそんな簡単な仕事なのか?」
昔から兄は嫌味ったらしい言い回しばかりをしていた。期待されていた分、ストレスを抱えていたのか何かにつけて寿に当たり散らした。自分の非にならないよう、隠れたところで。
「お前みたいなのでも雇われるなんて……宝来家の懐が深いのか、それとも見る目がないのか、よく分からないな」
「あまり勝手なこと言ってんじゃねえぞ」
兄に馬鹿にされるのはもう慣れっこだ。だが宝来の皆のことを悪く言われるのだけは絶対に許せない。
「だってそうじゃないか。お前がどんな人生を歩んで来たかは知らないが、せっかく親の金で入った音大も中退しやがって。そんな中途半端な人間を雇うなんてどうかしている」
兄のなじる言葉。頭にカァっと血が上っていくのを感じる。自分だって教職員として最低なことをしているくせに。この男は一人の少年を傷つけて、学校での居場所を無くした原因でもあるのだ。
「テメェにだけは言われたくねえよ」
「お前と俺は違うんだ。宝来君だって僕のところにピアノを習いにくれば良かったのに、お前が教えたんだって? 俺ならもっと上手く教えられたんだがなぁ」
「……へぇ、あんな手紙を尊に寄越しといてよくそんなことが言えるもんだ」
手紙という言葉を聞いた瞬間、石蕗の顔色があからさまに変わった。本当は言わずにさっさと話を切り上げて、合唱コンクールを観に行くはずだったのだが宝来家の皆を侮辱されて我慢が出来なかった。
「手紙? お前まさか……」
「知ってるぞ。お前が尊に何をしたか。全部じゃないが。お前は人として最低なことをしてんのをよく分かった方がいい」
「あれは……あれは違う。俺のせいじゃ」
「じゃあ尊のせいってか? 尊は優等生だっつってもまだまだ子供なんだぞ? ましてや身内を亡くして傷ついた子に……自分が何したか分かってんのか?」
はぐらかそうとする石蕗が許せなかった。ましてや自分が犯した罪を尊になすりつけようとまでしている。
「俺からは何もしていない!」
「全部、尊がしたっていうのか?」
「あの子が誘惑してきたんだ! 俺はあくまでも良心で近付いて慰めようとしただけだ! お前もそばに居たら分かるだろう? あんな無防備なふりして誘われたら……」
「馬鹿言ってんじゃねぇ!」
胸ぐらを掴んだ。ワイシャツのボタンが勢いでブチリと音を立てて外れた。そんなの構っている場合ではない。
この男は最低だ。尊の人懐っこさを悪だと言っている。許せない。思わず拳を振るいそうになるのをグッと堪える。
「俺はあの子のせいでおかしくなったんだ!」
石蕗の釈明の叫びが合唱コンクールの歌声が漏れる体育館裏に響いた。
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