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「ああ、あれはあの子の母親が亡くなってすぐの頃だった。
本人も強がっていたんだろう。クラスメイトが心配の声をかけてもそっけなくしていたし、段々と周りから人が減っていった。
それを見て最初は教師としてどうにかしてやりたいと思っていたんだ。元々宝来君はお家のこともあって目立つ生徒だったから。気にしなくても自然と目に入ってきてしまう」
石蕗はつらつらと言い訳を並べ始めた。今更この男が何を言ったところで心は動かない。だが尊の話となると嫌でも気になってしまうのが寿の困ったところだ。
「声をかけたのは俺だ。あの子はあまり音楽が得意ではなかったから……リコーダーの再々テストでようやく合格と言えるところまで言ったんだ。その時に『何か困っていることはないか?』と聞いたんだ。そうしたらボロボロと泣き始めて」
いくら寿と出会う前の話だといえども尊が自分以外の誰かに頼るのを想像すると気分が良くない。時間を巻き戻せたらいいのにと思う。だが、尊が石蕗と関係を結んでなかったら寿は闇オークションで尊に買われることもなかった。
「我慢していたそうだ。家族にも心配をかけまいと家でもずっと笑顔でいて、学校でも同級生に迷惑をかけまいと距離を置く……そんなことを聞いたら同情してしまうだろ? 心が辛くなったらいつでも来なさいと言ったら本当に毎日くるようになった」
その頃の尊は周りの全てに神経を張り詰めさせながら接していたのだろう。その中で現れた〝理解者〟に頼りたくなるのも頷ける。
「お前も分かるだろうが……あの子は無防備過ぎる。最初こそは親身に相談に乗っていたさ。ただあの、何とも言えない甘ったれた感じに惑わされた。全てを欲しがるような目つきだ。あの目がいけなかった」
「お前の犯罪を正当化するようなこと言ってんじゃねーぞ」
「お前にも心当たりがあるんじゃないか。あのまん丸な目でジィッと見つめられるとなんとも言えない気分になるのを。胸の奥の、一番弱い部分をくすぐられるような……」
何も言い返せなかった。事実、石蕗の言うことに心当たりしかなかったからだ。石蕗は自身の欲望に負けて自ら行動してしまった。寿は行動こそしていないが、兄と同じように心の中に兄と全く同じ欲望を抱えている。兄を責める権利が果たしてあるのだろうか。
「あの子は抵抗しなかった。合意だ。俺は何も悪くない。現に今はもう関係もないからな」
「そんなのお前の身勝手じゃないか」
「身勝手? なぜ大人ばかりが責められなければならない? 好きだと言ったのも、キスやそれ以上を強請ったのもあの子の方からだぞ」
全身から汗が噴き出る。怒りが最高潮に達した時、人は声を全く発せなくなると初めて知った。身体が怒りを押し込めようとしている。それでも滲み出て身体は小刻みに震えた。
「お前には分からないだろうが、俺には妻も子供もいるんだ。ちょっとした過ちで大事なものを失う訳には──」
頭のどこかで何かが切れる音がした。
直後に石蕗が吹き飛ばされる。自分が殴ったということに数秒遅れて気づく。このまま怒りに飲まれてはまずい。そう分かっていたが拳を振るうのを止める事はできなかった。
「テメェが手ェ出したもんはな! 俺らの大事なもんなんだよ! それを〝ちょっとした過ち〟だ? ふざけんじゃねぇっ! お前……どれだけ腐ってやがるっ!」
次から次へと拳で殴りつける。石蕗がかけていたメガネのフレームは歪み、レンズが割れて地面に転がっている。めちゃくちゃに殴られた顔は徐々に腫れ上がり原型を無くす。それでも寿は殴るのをやめない。
「お前にとってはちょっとしたもんでも! 尊に取っては大きな傷になってんだ! 弱ってるところにつけ入りやがって! それでもテメェ、教師かよ!」
響き渡る怒声に、警備員がやってきた。石蕗を殴り続ける寿を懸命に止めようとする。
「やめなさいっ! おい! 警察を呼べ!」
「止めんじゃねぇっ! 俺は……俺は! こいつを絶対に許さねぇっ!」
最終的に二人係りで羽交い締めにされて寿は地面に伏せる。尚も暴れようとする寿に続々と駆けつけた警備員が援護して、押さえつけられた。
「コイツが全部悪いんだ! 訴えてくれ! 警察はまだなのか!」
石蕗も興奮で上手く喋れていない。自分のことを必死に隠蔽しながら、今回の件は全て寿が悪いことにしようとしている。
やがて鳴り響くサイレン。パトカーが二台ほどやってきて、警官が何人もやってくる。頭に上っていた血がスっと降りていく。そして冷静になった頭で考えるのは尊のこと。
きっとこのままでは約束は守れない。尊がステージで立派にピアノを弾く姿を見てみたかった。あれだけ練習したのだから当日、ミスをすることもないだろう。
そして、多分もう尊とは会うことが出来ない。身内と言えども手を出して、警察沙汰にまでなったのだ。通常なら解雇されて当然だが、寿の場合は五億で買われている。また売りに出されるのだろうか、それとも処分──殺されてしまうのか。あの誠がそんな手荒な真似をするとは考えにくいが、どちらにせよ尊の使用人としてそばにいる事は出来なくなるはずだ。
「三時十五分、容疑者確保」
手錠がはめられる。そのまま警官に身を起こされてパトカーまで誘導された。抵抗する気もない。項垂れたまま、パトカーに乗り込む。
やっと見つけた居場所を自分の理性的ではない行動で全て壊してしまった。人生の中で神様がくれた一発逆転のチャンスだったのに。
目を瞑る。警官が無線で何か話していたがよく聞き取れない。思い浮かぶのは尊のことばかりだ。結局自分も石蕗と一緒で邪な気持ちを抱いていたのは事実。これは報いだ。何も知らない少年に恋なんてしてしまった罰。
パトカーは信号に引っかかることもなく淀みなく進んでいく。きっとこれでよかったのだと、何度も自分に言い聞かせるが、その度に尊の顔がチラついて胸が苦しくなった。
兄を、石蕗を殴り続けた拳がジンジンと痛んでいる。
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