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七章
勾留されてそのまま罪に問われるとばかり思っていたのだが、留置場に一晩居ただけで翌日には釈放された。
宝来の力が働いたのか、それとも兄が自分の罪が明るみに出ることを恐れて不起訴としたのかは分からない。だがこれで刑務所で生活するという最悪な事態は免れた──とは言っても宝来家に迷惑をかけてしまった。今まで通りの生活に戻れるわけがない。
「せっかく、色々してもらったのにな」
自分の進退よりもせっかく拾ってくれた宝来家に迷惑をかけたこと、暴力沙汰を起こしてしまった以上は学校の送迎など出来るはずもない。尊の世話役を降ろされるのは確実だ。
「伊沢さん」
「……武内さん」
身許引受人として警察署までやってきた武内は怒ったような悲しんでいるような、何とも言えない表情を寿に向ける。
「本当、すいませんでした」
「正直なところ信じられません」
助手席に座るように促された。目上の者に運転させるなんて本来ならばあり得ないが、石蕗を力任せに殴ったせいで手を負傷していたのでハンドルを握れないし、釈放直後の人間に運転させるのは武内も気が引けたのだろう。
「貴方が誰かに手を出すなんて、普段の働きぶりや周りへの態度を見ていたら……とてもそんなことをする人には思えない」
何か理由が? そう続けて問われたが寿は何も言うことが出来なかった。武内も事件を起こしてしまった相手が寿の兄であることは知っていた様子だ。しかし寿が拳を振るった理由が尊への悪戯が原因だなんて知れたら、それこそ尊が学校に行けなくなってしまうかもしれない。
「すいません、今は上手く言えないっす」
「そうですか。夜には旦那様も戻って参りますから、その時までには上手くまとめてください。ただ、私は貴方を……信じています」
それっきり武内は何も口を開くことはなかった。無言の車内にエンジンの音が響く。窓の外はいつもと変わらない青空。空が青すぎて泣きたくなるほど美しかった。
宝来家に帰る途中、病院に寄ると右手の小指の骨が見事に折れていた。そして薬指、中指とひびが入っている。これではどちらにせよ尊の世話役を続けることは難しかっただろう。
当然通常業務もこなせるわけもないので誠が仕事を終えて話せるようになるまで自室待機となった。〝尊を支える〟という半ば生きがいといってもいいほどに大切だった使命を失いかけている。胸にぽっかりと空いた穴はあまりにも大きく、部屋に一人でいると頭がおかしくなりそうだ。
コンコン。
寿が頭の中で堂々巡りを繰り返していると扉をノックする音が聞こえてきた。重い身体をゆっくりと起こす。武内が夕飯を持ってきてくれたのだろうか。しかしそれには時間帯が早すぎる。
利き腕である右手にギプスがはめられているので左手でドアノブを掴んだ。ぎこちなくドアを開くとそこには尊が心配そうな顔で寿を見上げている。平日のこの時間は学校にいるはずだ。一体どうしてここに。
「なんでここに」
「お腹痛いって言って早退してきた」
「仮病なんて使ってんじゃねえよ」
あの優等生の尊が仮病を使うなんて一大事だ。そこまでして寿に会いたいと思ってくれているのが嬉しい反面、尊に昨日のことが伝わってしまっていると思うと喉が引き攣って動かなくなるのを感じた。
「……伊沢先生、お兄さんだったんだ」
「まあな」
「どうして言ってくれなかったの?」
「言えるわけないだろ。尊が嫌な思いするのが嫌だったから」
「僕のことが原因で、伊沢先生に手をあげたんでしょう?」
寿の予想通り、合唱コンクールが終わった後に大騒ぎになっていたようだ。あれだけパトカーが来ていたら騒ぎになるの仕方がない。
だが幸いにも寿が学校に保護者代表として出向いたのが初めてだったお陰で顔が割れておらず、尊に何か迷惑がかかることはなかったと言う。むしろ変な噂は石蕗の方に立っていて「顔が瓜二つの男が伊沢先生と喧嘩している」という話題で持ちきりらしい。
「ねぇ、寿はどうなっちゃうの?」
「分からねえ。尊の親父さんとも話さないと」
「手を怪我したのも僕のせいだよね。本当、ごめんね……ごめん」
ギプスでガチガチに固定された右手に手が重ねて慈しむように撫でてくれた。それだけで骨がくっついて治る感覚に陥る。泣きそうな顔を見ていると、改めて自分がしでかした事の重大さを思い知った。
「尊のせいじゃねえよ」
「でも……」
「兄貴とは元々仲が良くなかったんだ。だから尊のせいじゃない。だからどちらにせよこうなってた」
「僕! パパに言うよ! ちゃんと全部言う。今まで先生とあったことも全部……だから」
懸命にギプスをさする手の上に左手を重ねる。石蕗について知っていることを話せば、ある程度の処遇で収まるかもしれない。
だが、尊の尊厳を汚してまで自分の保身に走りたくなかった。ちゃんと全てを話した方が良いと発破をかける自分がいる一方、尊を傷つけたくないと願う自分。心の天秤は定まることなく延々と揺れ続けている。
「大丈夫だよ。尊が心配している風には絶対ならねえから。それよりここに長いこといると武内さんに怒られちまうぞ。あまり武内さんを困らせちゃダメだ」
大丈夫と口にはしたが、これが尊と会える最後の機会かもしれない。誠が寿を外すと判断すれば最後の挨拶出来るかどうかも分からないのだ。
寿がもし尊専属の使用人を降ろされたら後釜は誰になるのだろう。武内が再び担う可能性もある。それとも新しく誰かを雇うのだろうか。闇オークションで買う? 元々、誠の希望は尊と年が近く先々まで使うことの出来る使用人だった。
きっと、これでよかったのだ。
何度も何度も、自分にそう言い聞かせる。
「ほら、武内さんに見つからないうちに部屋に戻りな。合唱コンクールも終わって疲れてるだろうからたまにはゆっくり休むと良いよ」
追い出すように背中を押した。尊は怪我人相手に抵抗を見せることなく言われた通りに部屋に戻ろうとする。
去り際に尊が振り向いた。
「また、会えるよね?」
「何言ってんだ。当たり前だろ?」
「合唱コンクールの話も沢山したいの。だからパパと話し終わったら僕のところに来てね。絶対だよ」
「……分かった」
バタン、と扉が閉まる。突然襲ってくる虚しさ。思わずしゃがみ込む。涙が溢れた。どうしていいか分からず必死に声を押し殺す。
絶望で終わりそうだった人生に差し込んだ光が尊だった。
その光が徐々に弱くなる。とても耐えられそうにない。
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